3-16 好きの定義
年末の夜、小さな贈り物の話をします。
本から抜いたレシートの角を、爪で伸ばしていた。
凪から借りた本だった。通話の呼び出しに応じる前に、読んでいたところへ挟んだ。角だけが折れて外へ出ていたので、もう一度抜いて、折り目を逆に曲げている。
「ねえ、今日、こんなの見つけた」
凪が言った。
机のスマホが震えた。レシートを本に戻し、画面を開く。
細長い、紺色のしおりが写っていた。
上のほうに小さな銀色の月があり、端の穴から灰色の紐が出ている。透明な袋が照明を拾い、月の片側は白く見えなくなっていた。袋の下を押さえた凪の親指だけが、写真の端に入っていた。
「月、分かる?」
「うん。ちょっと光ってるけど」
「実物のほうが、ちゃんと三日月なの。待って」
かさ、と耳元で音がした。
少しして、もう一枚届いた。今度は斜めから撮られていた。細い銀の先が二つ、暗い紙の上に向かい合っている。
「ああ、いいね」
俺は写真を広げた。紙には、ごく細かな繊維のような筋があった。
「湊、こういうの好きそうだと思って」
「好きだよ」
「よかった。次、持っていくね」
画面に触れていた指を止めた。
「俺に?」
「うん。買ってきた」
声はいつもと変わらなかった。
俺は広げていた写真を元へ戻した。しおりの周りに、凪の机らしい木目と、袋を押さえる指が戻ってきた。
「ありがとう」
言ってから、もう一度、月を見た。
さっきは、きれいなしおりだと思っていた。今は、この薄い紙が、凪の町からここまで来るのだと思って見ていた。
「本屋で?」
「うん。レジの横にあったの。最初、月がついてるなって見て、それから湊のこと思い出して」
「宇宙の話ばっかりしてるから?」
「それもあるけど。いつもレシート挟んでるでしょ」
開きかけの本へ目を落とした。
「今も、挟んでる」
「やっぱり」
「角が折れたから、直してたところ」
凪が笑った。
俺はレシートを少し引き出した。印字は薄くなり、買ったものの名前より、端に入った折り目のほうがはっきりしていた。
「字、ほとんど消えかけてる」
「長く使ったんだね」
「もう少しで、白いしおりになる」
「完成する前に替えちゃうね」
俺も笑って、紙を元へ戻した。
「星のもあったんだよ」
凪が続けた。
「そっちは、何個も並んでて。きれいだったから迷ったんだけど、月、一個だけのほうが湊っぽいかなって」
俺は二枚目の写真を開いた。
月の下には、広く紺色の余白があった。凪が並べて見たもう一枚を、その隣へ思い浮かべた。
「うん。こっち、好きだと思う」
「よかった」
息を吐くような返事だった。
本屋のレジの横で、凪が二枚のしおりを見比べていたところを想像した。コートの袖から手を出して、片方を戻しかけ、また少し迷う。俺のいなかった短い時間に、俺が何を喜ぶかを考えてくれていた。
膝の上へ置いていた手を、机へ戻した。写真の下にある、凪の指のすぐそばへ、親指が重なった。
触れている画面は、部屋の空気より少し冷たかった。
「何て言うかなって、帰り道でも考えちゃった」
「俺が?」
「うん。渡したらどんな顔するかなって。だから、会うまで黙ってようかなとも思ったんだけど」
「言いたくなった?」
「なった。今日、話したかった」
俺は少し下を向いた。
本の小口を親指で撫でると、紙の厚みが細かく指へ掛かった。何か返そうとして、その前に口元が緩んだ。
「今、かなり嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん。さっきから、ずっと笑ってる」
凪が短く笑った。
「見たかったな」
「来月、もう一回すると思う」
「じゃあ、実物渡すとき、ちゃんと見てる」
その声を聞きながら、俺も、今そう言って笑っている凪を見たかった。
「自分では使わないのにね」
凪が言った。
「何が?」
「これ。買ったあと、袋の中、何回か見ちゃった。自分のもの買ったみたいに」
俺はしおりの写真を見た。
小さな月を、凪は店の中で見て、帰り道でも見ていた。今は俺も、同じものからなかなか目を離せずにいた。
「俺も、今日、凪に見せたかったものがある」
「何?」
「昼に、水飲んでたんだけど」
「うん」
窓のそばへ、グラスを置いたのだった。
低い日が水を通り、壁に明るい筋を映していた。グラスを持ち上げると、光も持ち上がった。手を止めても、水は少しの間揺れていた。白い壁の上で、細い明るさが、重なったり離れたりした。
俺はもう一度、グラスを傾けた。
何も掛けていない壁だった。いつもなら、そのまま水を飲んで台所へ戻る。今日は光が静まるまで待ち、また動かしてみた。
「それ、写真撮った?」
凪の声に、机の前へ戻った。
「撮ろうと思ったんだけど、スマホ取ってる間に日が陰った」
「ああ」
「戻っても、ただの水だった」
凪は小さく笑った。
「待ってくれなかったね」
「うん。もうちょっとだったんだけど」
窓を見ると、夜のガラスには、机の灯りが映っていた。
「きれいだった?」
「きれいだったよ」
水を持った手の冷たさを思い出した。光ばかり見ていたので、飲みかけの水がずいぶん残っていた。
「凪がいたら、一緒に見られたのにって思った」
言葉にすると、昼にあの壁の前で立ち止まっていた時間が、少し長く戻ってきた。
隣に凪がいたら、グラスを渡していたと思う。彼女がどちらへ傾けるのかを、横から見ていたかった。凪の手で揺れる光を、もうしばらく見ていたかった。
「私も、それ見たい」
「今度来たとき、晴れたらやってみよう」
「うん。グラス、貸して」
俺は頷いた。見えていないことを思い出して、「うん」と言い直した。
「何かさ」
凪が言った。
「好きだと、自分が嬉しいだけじゃ、終わらなくなるね」
「話したくなる?」
「うん。湊にも喜んでほしくなる。喜んでると、私も、もう一回嬉しい」
凪は、自分で言って少し笑った。
俺も笑った。スマホの画面が暗くなりかけたので、一度触れた。写真の中に、月と、凪の指が戻った。
「俺は、凪が見てるところも見たくなる」
「水の光を?」
「うん。凪なら、どうやって動かすかなとか」
「ずっとやってるかもしれないよ」
「それも、見たいと思う」
言ったあと、少し静かになった。
俺は本の表紙へ手を置いた。開こうとしていた指が、その縁で止まった。
「……今、私も、ちょっと嬉しい顔してる」
凪が言った。
目を閉じると、声の終わりに残った笑いが、よく知っている頬のかたちになった。
その頬に触れたかった。
何か言おうとして開いた口を、一度閉じた。机の縁に置いた腕から力が抜けた。凪の笑い声をもう少し聞いてから、名前を呼んだ。
「凪」
「うん?」
「好きだよ」
耳元で、小さく息を吸う音がした。
「うん。私も」
返事を聞いて、俺は本の上の手をゆっくり動かした。表紙の角まで撫で、そのまま、本を閉じた。
窓の外を車が通った。天井に淡い光が流れ、すぐに消えた。
「忘れないうちに、鞄へ入れとくね」
凪の声がした。
「しおり?」
「うん。せっかく買ったのに、持っていくの忘れたら嫌だし」
袋が擦れる音がして、声が少し遠くなった。
俺は机の奥のカレンダーを見た。凪の名前の下に、昨日書いた電車の到着時刻があった。
まだ先の土曜日だった。
向こうでは、もう鞄のファスナーを開ける音がしていた。
「折れないとこに入れた」
声が戻ってきた。
「ありがとう。楽しみにしてる」
「うん」
俺はスマホを机へ伏せ、本を手元へ引いた。
「昼の光、明日も出るかな」
凪が聞いた。
「晴れたら、同じくらいの時間に見てみる」
「出たら見せて」
「今度はスマホ持っていくよ」
凪が笑った。
本を開くと、さっき伸ばしたレシートの角が、また少し浮いていた。続きは、ページの真ん中あたりだった。俺はそこへ指を置いたまま、凪の声を聞いていた。
月のしおりを、この本へ挟むときのことを考えた。
読みかけのページを開いて差し出せば、凪はあの紐をつまんで、紙の間へそっと下ろすかもしれない。
そのときは、ページを押さえる俺の指のすぐそばに、あの親指が来る。
文字を追わずに、しばらく、そこを見ていた。
第二十七話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「零時を過ぎても」です。




