3-14 沈黙の音量
通算第二十五話です。
それぞれの部屋に、夜が来ます。
凪から帰宅の連絡が来たとき、窓の外はもう暗くなっていた。
駅で手を振ってから、三時間あまりが過ぎていた。玄関に掛けたコートは一着に戻り、机の端には、凪が置いていった本があった。表紙の角が少し反っている。その下へ指を入れて持ち上げると、今日の昼、彼女から受け取ったときと同じ重さがした。
『おかえり。おつかれさま』
返事を送って、本を開いた。
通話を始めたのは、九時を過ぎてからだった。
「ただいま」
ヘッドセットの中で、凪がもう一度言った。
「おかえり」
俺は読んでいたところへ栞を挟んだ。電話に出る前に沸かし始めた湯の音が、台所から聞こえていた。
「帰り、本、読めた?」
「うん。でも途中で寝ちゃった。起きたら、開いてたところ分からなくなってた」
「だいぶ戻った?」
「読んだことあるなって思いながら、しばらく読んだ」
凪は笑った。語尾が少し遠くなり、何か硬いものを置く音がした。
「スマホ、置いた。今、お湯沸かしてる」
「俺も」
「お茶?」
「うん」
「一緒だ」
スピーカーに切り替えた凪の声には、部屋の響きが混じっていた。近づくと少し明瞭になり、離れると、湯を沸かす音の向こうへ戻った。
やがて、俺のほうの湯が沸いた。
「ちょっと淹れてくる」
「うん」
ヘッドセットを机に置いて、台所へ行った。
カップへ湯を注ぐと、お茶の香りが上がった。湯気に顔を近づけすぎて、鼻の頭が熱くなった。少し離れ、色が出るのを待つ。足の裏には、暖房の届ききらない床の冷たさがあった。
机へ戻ると、凪のほうでは、まだ湯を沸かす音がしていた。
「戻った」
「おかえり。そっちが先だったね」
「こっち、話す前から沸かしてたから」
「じゃあ、負けたわけじゃないか」
「競争だったんだ」
小さな笑い声がして、それも、水の音に混じって薄くなった。
俺はカップの取っ手を、持ちやすいほうへ回した。
窓際に置いた椅子の背へ、カーテンの裾が触れていた。昼間は気にならなかった冷気が、足首のあたりに溜まっている。両足を少し手前へ引き、膝に掛けた毛布を伸ばした。
耳元で、湯の沸く音が強くなった。
途切れる。
少し間があって、カップに注ぐ細い音がした。最後のほうだけ高くなり、また静かになった。
「熱い」
凪が言った。こちらへ向けたのか、独り言なのか、分からないくらいの声だった。
俺は自分のカップを持ち上げた。
「こっちは、もう飲める」
「待って。私も、もうちょっと」
「待つよ」
俺はカップを机へ戻し、取っ手から手を離した。
凪が息を吹きかける音がした。
昨日、お茶を飲んでいた彼女の口元が浮かんだ。飲む前に一度だけ唇を細くして、それでも熱いと、カップを離して黙って見ていた。あの顔を今、別の部屋でしているのだろう。
顔を見たくなった。
カップの向こうで、少し伏せられた目まで思い浮かんだ。俺は自分の手も、取っ手からカップの側面へ添え直した。薄い陶器を通って、指の腹へ熱が移ってきた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
暖房の風が、天井の近くで鳴っていた。窓の外を車が通ると、その音のほうが一度大きくなった。遠ざかってから、耳元の小さな物音が戻ってきた。
凪がカップを置いたらしい。
俺は音量を一つ上げた。
「湊、本、読んでる?」
思っていたより近くに声がして、カップを持った指に少し力が入った。
「ううん。今は閉じてる」
「何してた?」
「お茶、飲んでた」
「私も」
凪はそう言って、小さく息を吐いた。
俺は肘を机につき、カップを口へ運んだ。ひと口ずつなら、もう熱くなかった。喉を通ったあと、胸のあたりが内側から温まった。
本の続きを読むこともできた。さっきの段落は、途中だった。
閉じた表紙の上へ目を置いたまま、俺はまたお茶を飲んだ。
凪が何か話し始めたら、聞こうと思っていた。けれど、それまでの間を数えてはいなかった。カップの縁に口をつけ、離す。湯気が薄くなっていくのを見ていた。
耳元で布の擦れる音がした。
「ごめん。今、膝掛け引っぱった」
「寒い?」
「足だけ。さっきから、ずっと端っこが届かなくて」
もう一度、布が動いた。
「届いた」
その声に、俺は笑った。
何かがうまくいったとき、凪は少し顎を上げて笑う。今もそうしている気がした。足の先まで掛け直して、背もたれへ身体を預けたのだろう。長い息が、かすかに聞こえた。
俺は伸ばしかけた足を止め、自分の毛布も引き寄せた。
足の甲に布が触れた。凪も、こんなふうに足を引き寄せているだろうか。毛布の下で靴下を履いた足先が動き、やがて楽なところで落ち着く。その姿を思うと、俺の足まで温かくなるようだった。
カップを机へ置く。
向こうでも、何かが小さく鳴った。
「同じ音した」
凪が言った。
「カップ?」
「うん。私も今、置いた」
もう一度持ち上げて置き直すと、凪が笑った。俺も笑い、そのあとはまた、お互いの部屋の音だけになった。
暖房が、ゆっくり風を弱めた。
気づけば止まっていた。
「静かになったね」
凪が言った。
「暖房、止まった。こっちの」
「あ、湊のほうだったんだ」
俺は壁の上を見た。送風口は開いたままで、その下に掛かったカーテンも、ほとんど動いていなかった。
「そっちにも聞こえてた?」
「うん。低い音、ずっとしてた」
俺には、つけてからしばらくすると聞こえなくなる音だった。
凪はそれを聞いていた。
椅子に座り直したときも、机に肘を載せたときも、その小さな音は彼女のそばで鳴っていたのだろう。俺の黙っている時間が、凪の部屋にあった。
カップの取っ手に掛けていた指をほどいた。
「凪」
「うん?」
「まだ、つないでていい?」
「うん。切ろうと思ってなかった」
返事を聞いてから、俺は背もたれへ身体を預けた。顎を少し上げ、首の後ろに溜まっていた力を抜いた。
いつもより小さな声で、お礼を言いたくなった。
けれど凪が、もうひと口お茶を飲んでいたので、俺もカップを取った。
さっきよりずっと持ちやすい温度になっていた。掌を添えても熱くなく、取っ手を使わずに包んでいられた。
「ちょうどよくなった」
凪が言った。
俺は頷いてから、声にした。
「こっちも」
それからしばらく、何も話さなかった。
凪が小さく息をついた。その音を聞きながら、俺は自分の口元が緩んでいることに気づいた。緩めたまま、耳を寄せるように少し首を傾けた。
ヘッドセットの柔らかい縁が、頬の上に触れた。
第二十五話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「未来形」です。




