3-13 説明のいらない冗談
翌朝、凪が笑いました。
顔を洗って戻ると、凪が俺の頭を見た。
目が合ったと思ったが、彼女の視線はもう少し上にあった。窓のほうから差す薄い光の中で、凪は一度唇を結び、それから、こらえきれずに笑った。
「そこ、風強かった?」
俺は右のこめかみへ手をやった。指に、起き上がった髪が当たった。
「室内なのに」
そう返すと、凪は肩を丸めた。
いちごの上で、横へ曲がっていた白いクリームの先が浮かんだ。あの夜、俺の作ったほうのグラスを見ていた凪の顔まで、笑い声につれて戻ってきた。
俺は髪を押さえた。手を離すと、凪の目がまた同じところへ戻った。
「まだ?」
凪は頷いた。
「少し、弱まった」
俺も笑ってしまい、洗面所へ引き返した。
鏡を見ると、右側の髪だけが斜めに立っていた。顔を洗ったときは、目のあたりに残った泡しか見ていなかった。
蛇口を細く開けて、指を濡らす。
鏡の端に、凪が現れた。入口のところに立って、まだ口元を緩めている。
「そんなに面白い?」
「うん。今、横から見たら、ちゃんと曲がってた」
「確認しに来たんだ」
「どうなってるのかなと思って」
濡れた指で根元から撫でつけた。髪の間を水が通り、頭の片側だけが冷たくなった。押さえたまま鏡越しに凪を見ると、彼女は自分の頭にも手をやっていた。
「私、大丈夫?」
「そっちは穏やか」
凪がまた笑った。
笑い終わると、目尻のところに細い線が残った。口元より少し遅れて、それもほどけた。鏡に映る俺は、髪を押さえた変な姿勢のまま、同じような顔をしていた。
もう一度だけ髪を撫で、タオルで手を拭いた。
朝の部屋には、昨夜の暖かさが少し残っていた。カーテンを開けると窓の下が曇っていて、指一本ぶんほどの水滴の道が、ガラスの端まで続いていた。
凪は畳んだ布団の角を揃えていた。
俺が台所へ向かうと、顔を上げた。
「卵、焼く?」
「うん。ごはん温める」
昨夜炊いたごはんを器へ移して、電子レンジに入れた。凪は卵を割り、菜箸で溶き始めた。
二人で立つと、やはり台所は狭かった。俺は棚から皿を二枚出し、凪の後ろを通ろうとした。彼女が冷蔵庫を開けようと振り返ったので、二人とも途中で止まった。
皿を持ったまま、俺は半歩右へ寄った。
凪も同じほうへ寄った。
一瞬、目が合った。
「一手戻って」
凪が言った。
俺は皿を持ったまま、さっきの位置へ戻った。凪は俺の前を通り、冷蔵庫を開けた。
「そこにいて」
「うん」
牛乳のパックを取り出して扉を閉めると、凪は道を空けた。
「どうぞ」
「今なら通れる」
すれ違うとき、凪の肩が揺れていた。俺も笑いを止められず、皿を置く手に少し力を入れた。二枚の縁が、かちりと鳴った。
「昨日、あれから進んだ?」
「進んだけど、また止まった」
「また箱?」
「うん」
「長くなる前に出してあげて」
凪はそう言って、溶いた卵に牛乳を少し足した。
俺は味噌汁を温め直した。小鍋の中で、沈んでいたねぎが浮いてきた。隣では卵の焼ける匂いがして、凪がフライパンを傾けるたび、黄色い縁が少しずつ厚くなった。
さっきまで二人で通れなくなっていたところを、今は俺が茶碗を持って通った。
凪がこちらを見た。
俺も見た。
何も言わなかったのに、二人ともまた少し笑った。
テーブルへ並べると、湯気が顔の高さまで上がってきた。卵焼きは切り口からまだ湯気を出していて、一番端のひと切れだけが横に倒れていた。
凪が椅子へ座るのを待って、俺も向かいに座った。
二人で手を合わせた。
「いただきます」
箸を取ると、凪は倒れていた卵を自分のほうへ寄せた。
俺もひと切れ取った。まだ中心が熱く、噛むと柔らかくほどけた。飲み込んでから味噌汁を口へ運ぶと、湯気で鼻の下が温まった。
「おいしい」
俺が言うと、凪は口に入れたものを飲み込んでから頷いた。
「うん。今日、うまく焼けた」
彼女は皿を見て、次のひと切れへ箸を伸ばした。
さっき倒れていた端の形を思い出した。頭の右側に指をやりかけて、やめた。
「今、何か言おうとした?」
凪が聞いた。
「まだ、何も言ってないよ」
「言う前の顔してた」
「どんな顔?」
凪は少し考えてから、唇をきゅっと結んだ。目だけをこちらへ向け、笑っていないようにしながら、もう笑っていた。
俺は茶碗を下ろした。
「そんな顔してる?」
「してる。自分で先に面白くなってるとき」
「それ、隠せてるつもりだったんだけど」
「うん。隠してる顔だった」
こらえていた息が、鼻から抜けた。
凪も箸を止めた。口元を手で覆い、しばらく皿のほうを向いていた。
俺は何を言おうとしていたのか、途中でどうでもよくなった。凪が顔を上げるのを待つ。目が合えばまた笑ってしまうのが分かっていたので、少しだけ、ごはんへ目を落とした。
向かいから、小さく息を整える音がした。
「湊、私の顔、見すぎ」
「今は見てない」
「今だけでしょ」
言い返そうとして顔を上げると、凪がもうこちらを見ていた。
笑いが先に来た。
茶碗の縁を握り直し、落ち着くまで待った。凪の肩も、まだときどき小さく動いていた。
窓の向こうで、誰かが雨戸を開けていた。硬い板の滑る音がして、そのあとを車が一台通った。俺たちがようやく箸を動かし始めるころには、部屋の中でも、食器に触れる音のほうが多くなっていた。
凪はごはんをひと口食べ、焼きのりを取った。
笑っているあいだに、目の縁が少し赤くなっていた。その顔で真面目にのりを折っているのを見て、俺はまた口元を緩めた。
冗談を思いついたとき、言葉より先に、笑った凪の顔が浮かぶことがあった。
口に出す前から、その顔を待っている。さっき真似されたのは、たぶん、そのときの顔だった。
凪がのりをごはんへ巻いた。
俺は今度こそ、自分の皿へ箸を伸ばした。
食べ終えてから、二人で箸を置いた。手を合わせて、「ごちそうさまでした」と言った。
凪がお椀を重ね、俺が皿を流しへ運んだ。
台所で、今度はすれ違わずに済んだ。凪が先に奥へ入り、俺は手前で皿を置いた。彼女の袖が触れただけで、さっき二人とも同じほうへ避けたところが浮かんだ。
凪は水を出していた。こちらを見ていないのに、横顔の口元が少し上がっていた。
「何?」
俺が聞くと、凪は首を横に振った。
「同じこと考えてると思う」
俺は笑って、布巾を取った。
食器を片づけたあと、凪が鞄へ荷物を戻し始めた。昨夜読み終えた本は、机の端に置いてくれた。
「帰り、読むものある?」
「もう一冊あるよ」
黒い鞄の内側を、少し開いて見せた。俺は頷き、本を手に取った。反っていた表紙の角を、今度は俺の指が押さえた。
凪はその横で、外していた腕時計をつけた。細いベルトの端を留め、手首を一度返して時刻を確かめる。
玄関からコートを持ってきた。短いほうを渡すと、凪は腕を通し、襟の下に入った髪を引き出した。
俺もコートを着た。
ポケットの中に車の鍵があるのを確かめていると、凪がそばへ来た。
「ちょっと」
俺が顔を向けると、彼女は手を伸ばし、頭の右側を指で押さえた。
その目を見て、俺はもう笑っていた。
凪も何か言おうとして、やめた。
指先が、髪をゆっくり撫でた。さっきの水はすっかり乾いていて、彼女が触れたところから、髪が柔らかく倒れた。
俺は少し頭を傾けた。
凪の手が離れるまで、そのままでいた。
第二十四話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「沈黙の音量」です。




