3-12 別々のこと
十二月も下旬。二人は、部屋で午後を過ごします。
凪は鞄から本を取り出すと、挟んであった栞を少し引き上げた。
「今日、これ読んでてもいい?」
「いいよ」
「電車で、ちょうど気になるとこまで来ちゃった」
まだ開かずに、親指でページの端を撫でている。俺が頷くと、凪は栞のあるところを開いた。
十二月も下旬に入っていた。凪がまた泊まりに来た日の午後だった。玄関には、前に一緒に買った灰色のコートが二着掛かっている。凪の肩に載っていたマフラーは、今はその襟のところで二つに折られていた。
昼食のあと、二人で手を合わせて「ごちそうさまでした」と言い、皿を片づけたところだった。
「湊は、何する?」
「途中になってるゲーム、ちょっとやろうかな」
「一人でやるやつ?」
「うん。箱を押して動かすやつ」
「ああ、あれ。やってて」
凪は本を持ったまま、椅子を少し窓から離した。座り直すと、片足の爪先をもう片方の足の下へ入れた。
「そこ、寒い?」
「さっきのとこだけ。窓の下、冷たいね」
「足元にくるんだよな」
彼女が読み始めたので、俺も机の椅子を引いた。
画面には、前に諦めた配置がそのまま残っていた。狭い通路に箱が三つある。どれを先に動かしても、あとから自分の通る道がなくなるところだった。
俺は一度、最初の状態へ戻した。
背後で曲が流れ始めた。川のそばで一緒に作ったプレイリストだった。凪がテーブルに置いたスマホから、小さく音を出している。
「このくらい、平気?」
「うん」
俺はゲームの効果音を少し下げた。
聞き覚えのある歌声の下で、暖房が低く鳴っていた。机の上は暖かいのに、下ろした手を窓へ寄せると、指の甲に冷たい空気が触れた。
最初の箱を右へ押し、二つ目の横を通れるようにした。そこまでは、前にもできていた。次の角を曲がろうとして、また止まった。
キーに指を載せたまま考える。
紙をめくる音がした。
俺は椅子の背に体重を預け、少しだけ顔を向けた。
凪は本の下のほうを両手で支えていた。右の親指が、読み終わりに近づくと次のページを浮かせる。まだそこに指を挟んだまま、目は行の続きを追っている。
口元がかすかに動いた。何か言いかけたようにも見えたが、声にはならなかった。
俺の知らない誰かの言葉を、今、凪が読んでいた。
どんな場面なのか聞けば、話してくれるだろうと思った。けれど、少し寄っていた眉がほどけるのを見ると、声をかける気はなくなった。その続きを、もう少し見ていたかった。
凪がページを返した。
俺も画面へ戻った。止めていた指を動かし、箱を一つ押す。すぐに間違えたと分かって、二手前まで戻した。
しばらくして、凪が小さく笑った。
俺も口元だけで笑ったが、今度は振り向かなかった。
目の前の箱を、壁際まで押してはいけない。空ける場所を一つ変えると、さっきまで塞がっていた道を通れそうだった。
何度か行き来して、ようやく最後の箱が収まった。
短い音が鳴った。
「できた?」
凪の声がした。
「うん。一個だけ」
「ずっとそこだったの?」
「先週から」
「長かったね、箱」
俺は笑って、両腕を上げた。指を組んで伸ばすと、肩のあたりが少し鳴った。
凪はもう本へ目を戻していた。さっきと違うページの、ずいぶん左奥のほうを読んでいた。
次の配置を開くと、箱が一つ増えていた。
俺は椅子を机へ寄せた。
曲が何曲進んだのか、途中から分からなくなった。
箱を動かす順番を頭の中で組んでは、先へ行くほど道が狭くなった。いったん目を離し、何もない壁を見たときに、最初に動かすものが違っていたのだと気づいた。
背後で椅子が鳴ったことは聞こえていた。
「湊、お茶飲む?」
「……うん。お願い」
返事をしながら、画面の中の角を曲がった。
湯を沸かす音がした。棚の扉が開いて、カップが二つ触れ合った。その音を聞きながら、もう一つ先まで進めた。
「こっち、置いとくね」
振り返ると、凪がテーブルにお茶を置いていた。
「ありがとう」
俺は今の状態を保存してから立ち上がった。
椅子を離れると、脚の裏側へ冷気が触れた。ずっと同じ姿勢でいたらしく、膝を伸ばすと少しこわばっていた。
凪の本は、栞を挟んで閉じられていた。表紙の角がわずかに反り、その下に、途中で外した腕時計があった。
「進んだ?」
向かいへ座って聞いた。
「うん。思ってたより読んじゃった」
「面白い?」
「面白い。今、最初のほうを読み返したくなってる」
「何か分かった?」
「うん。でも、言わない。湊も読むかもしれないし」
凪はカップの取っ手へ指を入れた。持ち上げる前に一度、もう片方の手で外側に触れ、熱かったのか、その手だけを膝へ戻した。
俺もお茶を飲んだ。唇に熱が触れ、ひと口をゆっくり飲み込んだ。画面の中で何度も曲がっていた通路が、まだ頭の隅に残っていた。
凪は両手を膝へ置き、窓のほうを見ていた。
向かいの建物の壁が、さっきより暗くなっていた。一つの窓だけが西日を返して、四角く白かった。凪の目の中にも、その小さな光があった。
「何時だろ」
俺が言うと、凪は本の下から腕時計を引き出した。
「三時半、過ぎてる」
「もうそんなか」
「私も今見て、びっくりした」
時計をつけ直すことはせず、凪はテーブルへ置いた。革の細いベルトが、ほどけたまま本のほうへ曲がっていた。
「もうちょっと読んだら、貸すね」
「急がなくていいよ」
「急いでない。先が気になるだけ」
凪が笑った。
俺は頷いた。カップへ口を寄せたまま、少し笑ってしまった。
凪は本へ目を落とし、反っていた表紙の角を指で押さえた。
さっきの笑い声を思い出した。俺の言ったことに笑ってくれるときとは、息の抜け方が少し違っていた。読みながらこぼれた小さな声を、もう一度聞けるといいと思った。
「湊は、いくつできた?」
「二つ。今のも、あと少しだと思う」
「さっき、呼んだとき難しいとこだった?」
「ちょっと考えてた。でも、お茶飲みたかった」
「私も。本、閉じたら急に喉渇いた」
凪はテーブルの上に肘をつき、空いている手で頬を支えた。指に押された頬が少し持ち上がり、口元の形が変わった。
「お茶飲んだら、またやろ」
「うん」
しばらく、そこで温まっていた。
凪が身じろぎをすると、テーブルの下で膝が触れた。少し離れて、また触れた。どちらも椅子は動かさなかった。
触れているところから、薄い布越しに温かさが伝わってきた。俺は持っていたカップを下ろし、膝の力を抜いた。凪も頬杖を外し、背もたれへ身体を預けた。
凪が息をついた。
その音まで聞いてから、俺は窓へ目を向けた。白く光っていた四角は、いつの間にかほかの窓と同じ色になっていた。
お茶を飲み終えて、二つのカップを流しへ運んだ。
戻ると、凪が部屋の灯りをつけていた。開いた本に手の影が落ち、彼女は椅子の向きを少し変えた。
俺は机へ戻った。
手を置いたキーが、さっきより冷たく感じた。画面の中には、考えかけたままの通路と箱が待っていた。
二手進めてみて、ようやく先が見えた。
「あ」
思わず声が出た。
「どうしたの?」
「分かったかも」
「うん」
それだけの返事が、すぐ近くから来た。
俺は続きを動かした。凪のほうからも、紙をめくる音がした。
少しあとで顔を上げると、窓に部屋の中が薄く映っていた。机に向かう俺の肩と、その向こうにある凪の本。外を走る車の灯りが通り過ぎると、凪の横顔も見えた。
目は伏せられていた。口元には、まだ少し笑みが残っている。
俺は次の配置を開いた。
栞は、凪の手のそばに置かれたままだった。
第二十三話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「説明のいらない冗談」です。




