3-11 続きから
凪が帰ってから、二日が経ちました。
「本人には、見せなければいいんじゃない?」
凪が言ったので、俺はシャツを畳む手を止めた。
「予測を書いた紙を?」
「うん。先に書いて、封筒に入れちゃうの」
折り返しかけた袖が、膝から少し滑った。
金曜の夜に、そんな話をしていた。
目の前に赤と青のボタンがあり、一分後に俺がどちらを押すか、絶対に間違えず予測する機械がある。その答えを先に見せてもらえたら、俺は書かれていないほうを押せるのではないか。
「青って出たら、赤を押せばいいもんね」と凪が言い、俺も、赤と出た場合を考えた。どちらを出しても、見せられた側が反対を押せば外れる。
そこで凪が翌日の電車を確かめ始め、話は乗り換えと駅での待ち合わせへ移った。
その続きを、今、凪が話していた。
「押したあとで開けるなら、反対を押そうとしても間に合わないか」
「そう。紙に書かれたほうが先だったかは、あとで確かめられるし」
俺は袖を折り直し、シャツを脇へ置いた。
「それなら、答えを見てわざと外すことはできないね」
「本当に当たる機械を作れるかは、まだ分かんないけど」
「うん。そこは別に考えないと」
顔が少し熱くなった。俺は机へ椅子を寄せ、メモ用紙を一枚引き出した。
「ちょっと待って。紙に書く」
シャープペンシルの先を二度押した。いつもは芯が出ればそれで終わる動作だったが、もう一度押してしまい、指の腹で少し戻した。
紙の左側に「予測」と書いた。その右に「見る」、さらに右へ「押す」と書き、線でつないだ。
真ん中の「見る」を消して、一番右へ書き直す。
「順番が違うんだ」
俺が言うと、凪はすぐに答えた。
「そう。教えてもらうところを、あとにしただけ」
消しゴムのくずを指で寄せた。細い線が一本、消した文字の下から残っていた。
「これ、いつ考えたの?」
「昨日、歯磨きしてて」
「歯磨き」
「うん。あ、見せなきゃいいのかって。うがいしてからメモした」
俺はペンの先を紙から離した。
あの夜、俺は答えが出ないまま話題を変えた。翌日には凪を迎え、一緒にコートを見に行き、ごはんを作った。俺の中では、そのあたりに埋もれていた話だった。
凪は、自分の部屋へ帰ってからも考えていた。
「気になってたんだ」
「うん。どっち押しても外れるの、変だなと思って」
凪が小さく笑った。
「湊も気にならない?」
「なる」
返事が少し早くなった。
凪の笑い声が大きくなったので、俺も笑った。紙には三つの言葉が並んでいるだけだった。俺はそれを見ながら、机の下で足を組み直した。
「でも、その紙を、俺以外の人が見たらどうなるんだろう」
「押す前に?」
「うん。たとえば、凪だけが読む。俺には見せない」
「それ、私が教えちゃったら一緒だよね」
「言わないことにして」
凪が考える間、向こうで何かが軽く机に当たった。
俺は紙に小さな四角を描き、その横へ「凪」と書いた。
「じゃあ、赤だったら右手を上げる」
「合図するんだ」
「声には出してないよ」
「それは読めちゃうな」
「青なら左手」
俺は四角から、自分の名前へ線を引いた。
「紙を隠すだけじゃ足りないね」
「目の前に座ってたら、顔にも出そう」
「赤のほう見ちゃうとか?」
「そう。湊がそっち押しそうになったら、あ、ってなる」
俺はペンを持ったまま笑った。
「それ、声も出てる」
「あ、も駄目なの?」
「だいぶ教えてる」
凪も笑った。短く息を吸ってから笑い出す、その間に、目の端が細くなる顔を思い出した。
俺は紙の上の「凪」を見た。
いつもなら図の中には、AとかBとか書く。今日は名前の横に小さな四角があり、そこから伸びた線が、俺の書いた名前につながっていた。
凪がまた話し始めたので、俺はその線の先を指で押さえた。
「ボタンを押す人に伝わらないところまで、離しておかないといけないんだね」
「少なくとも、わざと反対を選ばせたいなら、伝える方法がいる」
「じゃあ、私、別の部屋」
「俺が押すまではね」
「当たったら、あとから出てきて驚く係か」
俺は笑って、凪の名前を囲んだ。
「忙しいね」
「見てただけなのに」
笑いが収まると、俺は残っていた線を消した。紙を押さえた左手の小指に、薄く黒い跡がついた。
窓のそばから冷気が下りてきていた。カーテンの裾が、足元で少し浮いている。俺は立ち上がって端を引き、隙間を閉じた。
「あとさ」
戻りかけたところで、凪が言った。
「ボタン、三つに増やしても同じだよね。書かれてるの以外を押せばいいから」
「うん。二つか三つかは関係ない」
「じゃあ、一個だけなら?」
「押さない、が選べる」
「ああ、まだ二つある」
凪はそこで、少し長く黙った。
俺は椅子に座り、紙の隅にボタンを一つ描いた。その下へ「押す」「押さない」と書く。
凪の声が戻るのを待ちながら、二つの言葉の間に線を引いた。
「当てるために、反対を選べなくしちゃったら、何か違うね」
凪が言った。
「予測の話をしてたのに、押させる方法の話になる」
「そう、それ」
凪の声が近くなった。
俺は顔を上げた。目の前にはいつものモニターがあり、凪の名前が表示されていた。そこに返事をしたわけでもないのに、声が弾んだだけで、顔を見たくなっていた。
「なるほどな」
言いながら、俺は紙の一番上へ戻った。
最初に書いた「予測」の隣には、消し跡が白く広がっていた。俺はそこへ「教える」と書き足した。
「予測するのと、それを先に教えるのを、一緒にして考えてた」
「うん。教えたら、それ聞いて選べるもんね」
「作れるかどうかも含めて、分けて考えたほうがよさそう」
凪が頷くかわりに、小さく「うん」と言った。
俺はペンを置いた。
まだ何もかも解けたわけではなかった。それでも、金曜には同じところを回っていた話が、今は別のところへ来ていた。
「見せなければいい」という凪の一言から、机の上に、これだけの線が増えていた。
「それ、写真で見せて」
凪が言った。
「だいぶ汚いよ」
「いいよ。さっきから、すごい書いてる音するから」
俺は紙の端を持ち、消しゴムのくずを払った。スマホを上へかざして撮ると、少し斜めになったが、文字は読めた。
送ってから、凪の返事を待った。
「あ、私いる」
「途中で出てきたから」
「ここで右手上げてるんだね」
「上げて、あとで別室に移された」
凪が笑った。
「字で見ると、何の話してたんだろうってなるね」
俺も送った画像を開いた。
名前や四角があちこちにあり、途中で消した線も写っていた。順番をつけ直した矢印の先には、後から足した言葉が小さく押し込まれている。
凪は画面を見ながら、あのときはこういう話をしていたねと、二つほど指摘した。聞いていると、書いた順番まで戻ってきた。
俺は紙の上へ手を置いた。
子どものころから、考えかけたことを紙に書く癖があった。書いたときには分かっていても、後から見ると、どこから来た線なのか思い出せないことがある。短い言葉だけが残り、肝心の考えは、その間から抜けていた。
今は、同じ画像を見ている凪の声が、そこを埋めていた。
「ここ、まだ分かんないままだね」
凪が言った。
「どこ?」
「見せないなら、本当に当てられるのかってとこ」
「うん。そこは残ってる」
「じゃあ、それはまた考える」
彼女がそう言ったので、俺は「予測」のそばへ、小さく疑問符をつけた。
紙を片づけようとして、手を止めた。
「覚えててくれたの、嬉しかった」
凪は少し黙った。
「金曜の話?」
「うん。俺がまた話し始める前に、続きが来たから」
「私も続き、聞きたかったし」
返事のあと、凪が何か飲む音がした。
俺は、半分ほど畳んだまま脇へ置いていたシャツを見た。袖が片方だけ、外へはみ出していた。手を伸ばし、折り目をつけ直した。
凪がうがいを終え、スマホへ言葉を打つところを想像した。
洗面所には水の音がしていただろう。濡れた手を拭いて、歯ブラシのかわりにスマホを持つ。俺が何も話していなかった時間にも、あの問いへ戻る凪がいた。
畳んだシャツを、膝の上で一度撫でた。
何か言おうとしたが、さっき伝えた言葉と同じになりそうで、口を閉じた。
「湊」
凪が呼んだ。
「うん」
「機械が二台あったらどうなるんだろう」
俺は手を止めた。
「お互いの予測を、予測させるの?」
「そう。一台目の答えを、二台目だけが読む」
シャツを脇へ置き、もう一度ペンを取った。
紙の下には、まだ余白があった。
「ちょっと待って。今、二つ描く」
「うん」
俺は四角を一つ描き、その隣へもう一つ描いた。線を引こうとしたところで、凪が続きを話し始めた。
第二十二話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「別々のこと」です。




