3-10 一人でいるより
二人で過ごした夜が、朝になりました。
ドライヤーの音が止んで、凪の息を吐く音が聞こえた。
お茶のあとにグラスを洗い、順番に風呂へ入った。時計は十時を過ぎていた。凪は首に掛けていたタオルを膝へ下ろし、髪の内側へ指を差し入れた。
「乾いた」
そう言って、まだ温かい髪を両手で後ろへ払った。
俺は椅子の背にもたれていた。腕を上げて伸びをすると、そのままあくびが出た。口を閉じようとしても間に合わず、目の端に少し涙がにじんだ。
凪が笑っていた。
「すごい眠そう」
「うん。今、急にきた」
「寝よ。私も眠い」
凪も口元へ手をやった。
「うつった?」
「髪乾かしてるときから、ずっとしてた」
俺は笑い、目の端を指で拭った。
テーブルを少し寄せ、二人で布団を敷いた。凪が掛け布団を広げると、下から空気が押し出され、俺の足首に触れた。まだ冷たい敷布団へ膝をつき、枕の位置を直した。
「寒くない?」
「入ったばっかりだから、まだ分かんない」
「それはそうか」
凪は布団の中で足を動かした。布が擦れる音がして、それから肩まで潜った。
「あ、大丈夫そう」
俺も横になった。
灯りを落とすと、カーテンの端に、向かいの建物の明かりが細く残った。さっきまで顔を見て話していた凪が、暗がりの中で寝返りを打った。
「今日はいっぱい作ったね」
「うん」
「明日のいちご、忘れないでね」
「凪も覚えてて」
「二人で忘れたら?」
「冷蔵庫開けたら分かるよ」
凪の笑い声が、枕の近くでした。
「おやすみ」
「おやすみ」
少しして、凪が長く息を吐いた。
俺も目を閉じた。布団の中で、曲げていた膝をゆっくり伸ばした。凪が動くたびに布の音がしたが、そのたびに目を開けることはなかった。
翌朝、いちごはトーストの隣に並んだ。
凪が残っていた実を全部洗い、小皿へ入れた。俺は焼けたパンを取り出し、バターを載せた。角のほうから透き通り、パンの表面へ染みていった。
二人で向かいに座り、手を合わせた。
「いただきます」
凪はいちごを一粒取った。噛んだあと、目と口を同時に少しすぼめた。
「朝のほうが酸っぱい」
「昨日は、まわりが全部甘かったからね」
「そっか」
もう一口かじって、今度は頷いた。
「でも、おいしい」
窓から入った光が、小皿の縁を明るくしていた。凪の髪は片側だけ少し跳ねていた。本人は気づいているのか、いないのか、パンをちぎるときにもそのままだった。
俺は、バターの溶け残ったところをパンの端へ広げた。
凪が一度、窓の外を見た。すぐに戻ってこない視線の先で、向かいのベランダに洗濯物が揺れていた。
俺もそちらを見た。
カップを置く音だけがして、しばらく会話が途切れた。凪は窓を見たまま、ちぎったパンを口へ運んだ。俺は自分のパンに目を戻し、端のよく焼けたところから食べた。
小皿が空になると、凪は最後の一口のお茶を飲んだ。
二人で手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
昼前、凪が黒い鞄を閉じた。
洗面所に置いていたものが一つずつ収まり、口元に残った隙間へ本が入った。凪はファスナーを引きながら、部屋の中をもう一度見た。
俺は玄関からコートを持ってきた。
短いほうを渡すと、凪は両腕を通した。袖口から手を出し、肩のあたりを少し持ち上げる。昨日、鏡の前で見た灰色の布が、部屋の光の中では柔らかく見えた。
「これ着て帰れるの、いいね」
凪は下のボタンまで留めた。
俺も自分のコートを着た。ポケットに手を入れると、指先が底へ届いた。昨日は二人の手でいっぱいになっていたところに、今日は車の鍵を入れた。
外へ出ると、凪がマフラーを引き上げた。
車の後ろには、昨日の店の紙袋が残っていた。凪の古い上着が入ったほうを、黒い鞄の隣へ寄せた。
駅までの道で、凪は何度か窓の外を指さした。昨日歩いた通りが見えた。車で通ると、店のガラスも、長く待った信号も、すぐに後ろへ流れていった。
駅の駐車場から、鞄と紙袋を持って改札まで歩いた。
荷物を渡すと、凪は紙袋を鞄と同じ手へ持ち替えた。空いた手がこちらへ来たので、俺も手を出した。
掌が重なり、指が曲がった。
「またね」
「うん。着いたら教えて」
「教える」
凪は握った手を一度、小さく揺らした。
指を離すと、その間へ駅の冷たい空気が入った。まだ触れているつもりでいた指先を、俺はゆっくり曲げた。
凪が改札の向こうで振り返った。
手を上げると、同じ灰色の袖が上がった。
帰ってきて、部屋の鍵を掛けた。
コートを脱いでハンガーへ戻し、椅子に座った。窓の下から差す光が、朝より短くなっていた。流しの水切りには、二人で使った皿が伏せてあった。
背にもたれ、脚を伸ばした。
ふくらはぎには、昨日よく歩いた重さが少し残っていた。足首を回すと、靴の中に収まっていたところがようやく自由になった。
そのまま、しばらく座っていた。
誰かと長く過ごした日は、帰るとすぐには何もしたくなくなることがあった。楽しかった日にも、そうなる。着替えを後にして椅子へ沈み、誰にも向けなくていい顔で天井を見る。話しかけられることも、返事を考えることもない時間を、しばらく挟んでいた。
今日も、そうするつもりだった。
けれど、座ってみても、いつものような長い息が出なかった。
肩を一度上げて下ろした。顎を引き、椅子に深く座り直した。
楽になったのか、よく分からなかった。
昨日、凪の前でもこうして座っていた。腕を伸ばし、あくびをして、眠いとそのまま言った。今朝も、パンを食べ終えるまでの間に、何度も黙った。
そのたびに、凪はそこにいた。
俺は膝の上の手を見た。
帰ってから休もうと思っていたのに、凪のいる間から、もう休んでいた。
洗面所へ行き、二人が使ったタオルを洗濯機へ入れた。洗剤を量って蓋を閉めると、水が入り始めた。
部屋へ戻って、朝の皿を棚へしまった。
水切りに残った小皿を持ち上げた。朝、ここにいちごが載っていた。縁を拭くと、凪が酸っぱそうに目を細めたところが浮かんだ。
俺は少し笑って、皿を棚へ戻した。
夕方、凪からメッセージが届いた。
『着いたよ』
『おかえり。おつかれ』
『コート、すごくよかった。ホームで待ってても脚が寒くなかった』
俺は玄関のほうを見た。
『買ってよかったね』
『うん』
その夜、通話をつないだ。
「ただいま」
凪が言った。
「おかえり」
「文字でも言ったけど」
「声でも聞いとく」
笑う息が聞こえた。昨日から何度も、顔を見ながら聞いていた音だった。
「電車、途中でちょっと寝た」
「疲れたでしょ」
「うん。座りっぱなしも、けっこうくるね」
凪が身体を動かしたらしく、服の擦れる音がした。
「湊は? 今日、何してた?」
「洗濯して、片づけて。あとは本読んでた」
「いつもの湊だ」
「うん」
俺はカップを手元へ寄せた。
「凪が帰ったら、少し休もうと思ってたんだけど」
「休めなかった?」
「いや。凪がいる間も、ちゃんと休めてたんだなって」
凪は少し黙った。
俺はカップの持ち手から指を外した。
「人と長くいると、そのあと一人でぼうっとしたくなるんだよね。楽しくても」
「うん。分かる」
「今日は、それがなかった」
向こうで、小さく息を吸う音がした。
「私も、湊の家でぼうっとしてた」
「今朝?」
「今朝も。人の家なのに、パン食べながら窓見てた」
その横顔を思い出した。片側だけ跳ねた髪と、ちぎったパンを持っていた手。
「見てたね」
「何か喋ろう、とかも考えてなかった」
「俺も」
凪が笑った。
「一緒にいたのにね」
「うん」
俺は椅子の背へ身体を預けた。
一人の時間は、今も好きだった。本を読むことも、洗濯物を干すことも、凪が帰ったあとでいつもどおりにできた。
それでも、朝の窓を見ていた凪を思い出すと、自分まで深く息を吐けた。
何かしてほしいと思ったわけではなかった。あの椅子に座って、眠そうにパンをちぎっていてくれるだけでよかった。
「湊」
「うん?」
「また、何もしない時間も作ろうね」
「いいね」
「昨日は作りすぎたから。ごはんとパフェ」
「お腹が空くまで?」
「うん。空いたら作る」
俺は笑った。凪も笑い、少しして声が途切れた。
通話の向こうで、カップを置く音がした。
「お茶、淹れてくる」
「うん」
凪の足音が遠くなった。何かが開く音がして、水の音が続いた。
俺はヘッドセットをかけ直し、目を閉じた。
何を話そうかと探すこともせず、そのまま待っていた。昨日、灯りを消したあとも、凪が動く音がこうして聞こえていた。
やがて、足音が戻ってきた。
「湊?」
「いるよ」
目を閉じたまま、返事をした。
第二十一話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「続きから」です。




