3-8 ふたりの台所
買ってきたものを、二人で台所に並べます。
湯に手を差し入れると、指の節がじんとした。
凪が流しの脇へ寄り、俺の袖を少し持ち上げてくれた。手首に触れたあと、その手は買い物袋へ戻っていった。
石鹸を泡立て、指の間を洗った。凪の手を包んでいた掌に湯が溜まり、隙間からこぼれた。蛇口を閉めるころには、指を曲げたときの鈍さが薄れていた。
「戻った?」
凪が聞いた。
「うん。動く」
タオルで拭いた手を、一度握って開いた。凪はそれを見てから、袋の底に残っていた玉ねぎを取り出した。
鶏肉ときのこ、それからトマトの缶詰が、作業台に並んでいた。売り場で凪が缶を持ち上げ、「これで煮たら、おいしそう」と言った。そのとき俺も、熱いソースをごはんに少し絡めるところを考えた。
「野菜、切っていい?」
「お願い。俺、米やる」
「包丁、どこ?」
引き出しを示すと、凪は一度中を覗き、柄を持って取り出した。俺がまな板を置く間に、髪を後ろへまとめている。襟に掛かっていた髪がなくなり、首の後ろに、結びきれなかった細い毛が残った。
結び終えた凪がこちらを見た。目が合って、俺は少し遅れてまな板から手を離した。
俺は米を量って、流しへ戻った。
隣で玉ねぎの皮が剥がれる音がした。乾いた薄皮が凪の指に貼りつき、彼女はそれを何度か振って落とそうとした。俺は空いていた袋の口を広げた。凪がそこへ指を入れ、縁で皮を落とす。
「ありがと」
袋を置くと、すぐに包丁の音が始まった。
米を研ぎながら、その音を聞いた。いつもなら自分の手から出る音だった。白く濁った水を捨て、もう一度水を入れている間にも、隣では夕食の支度が進んでいた。
「このくらい?」
顔を向けると、まな板に玉ねぎが薄く並んでいた。
「うん、ちょうどいい」
凪は頷き、残っている半分へ手を置いた。
炊飯器を動かして戻ると、今度はきのこを手でほぐしていた。小さな房が少しずつ分かれ、ボウルの底を埋めていく。俺が鶏肉のパックを持ち上げるのを見ると、凪は野菜を脇へ移した。
「交代?」
「うん」
まな板をこちらへ寄せてもらい、鶏肉を切った。凪は野菜の入ったボウルを、コンロのそばへ移した。
台所は、一人で使っていても広いとは思わない。流しの前へ立つ人がいれば、その後ろを通るには、少し身体を横にしなければならなかった。
凪が鍋を出すためにしゃがんだので、俺は足を半歩引いた。立ち上がった凪の背中が、シャツの袖にかすかに触れた。
「ここでいい?」
コンロへ置かれた鍋を見て、頷いた。
凪が場所を空けてくれる。俺がそこへ入る。その間に、さっきまで自分のいたところで、トマトの缶の蓋が開いた。
鶏肉を焼き始めると、油の音が台所に広がった。
鍋の底に触れたところから、皮の端が縮んでいく。肉を返すと、きつね色になった皮から香ばしい匂いが上がった。凪は切った野菜を手元へ寄せてくれた。それから、使い終えたまな板と包丁を流しへ運んだ。
水の音が重なった。
俺は鶏肉の焼けるところを見ていた。水の流れる音を聞きながら、残りの肉も、皮が鍋底から離れるまで待ってから返した。
玉ねぎを加え、きのこを入れた。凪が洗い物を終えて戻ってくるころには、玉ねぎの縁が透け始めていた。
「ちょっと、混ぜててもらっていい?」
「うん」
木べらの柄を向けると、凪が受け取った。
俺は手を洗い、調味料を出した。凪の手元で、鍋の底に沿って木べらがゆっくり回る。火の近くに立つ彼女の頬には、もう外の赤さがなかった。
「トマト入れるね」
俺が缶を持ち上げると、凪は木べらを止め、鍋の端へ寄せた。
赤い中身が落ちて、乾いた音が低い音へ変わった。湯気が二人の間へ上がる。缶の内側に残ったところを落とそうと傾けていると、凪が木べらを差し入れ、縁を一度なぞってくれた。
最後のひとすくいが鍋へ落ちた。
「取れた」
「きれい」
凪が笑った。俺は空いた缶を流しへ置いた。
水を足して味をつけ、火を弱めた。蓋を少しずらして載せると、縁から細い湯気が上がり始めた。
窓の外は、もう暗かった。
ガラスの下のほうが薄く曇り、換気扇の音に混じって、ときどき風が鳴った。振り返ると、玄関に同じ灰色のコートが並んでいた。裾にはまだ外の冷たさが残っていそうだったが、今は凪も俺も、袖を肘の近くまで上げていた。
凪が台所を拭いていた。
俺はそこに置いていた調味料を持ち上げた。布巾が通り過ぎたあとへ戻すと、凪は隣の瓶の下へ手を伸ばした。布巾が届く前に、それも持ち上げた。
「息、合うね」
凪が言った。
「今の?」
「今のも。さっきから、やろうと思うと場所空いてる」
彼女は布巾を畳み直した。
「俺も。凪が洗い物してくれたから、肉の焼き具合に集中できた」
「ちょうど手、空いてたから」
「うん。助かった」
凪は布巾を流しの縁へ掛けた。
鍋の蓋が小さく鳴り、彼女がそちらへ顔を向けた。髪を結んだせいで、さっきまで隠れていた耳がよく見えた。俺は調味料の瓶を持ったまま、その横顔を見ていた。
しばらく煮てから、蓋を取った。
顔に触れた湯気には、トマトの甘酸っぱい匂いがあった。その奥に、さっき焼いた鶏皮の香ばしさが残っていた。
トマトの赤は、煮始めたときより深くなっていた。玉ねぎは形を残しながら柔らかくなり、木べらで動かすと、鶏肉の間へ沈んでいった。
小皿に少し取って、凪へ渡した。
凪は息を吹きかけ、口へ運んだ。俺も別のスプーンで味を見た。熱が引いたあと、舌の上に少し酸味が残った。
「もう少し、煮たいかも」
俺が言うと、凪は小皿を置いた。
「うん。あとちょっと待と」
蓋を戻すと、凪はコンロの前に立ったまま、鍋を見ていた。俺もすぐ隣にいた。何かするために立っていた場所で、二人とも、しばらく何もせずに待っていた。
凪がここで髪を結んだことも、包丁の場所を聞いたことも、まだ一時間も経っていない出来事だった。
それなのに、彼女が鍋の蓋へ手を伸ばすのを見ると、俺は自然に、その蓋を置く場所を空けていた。
炊飯器が鳴った。
「お腹空いたね」
凪が言った。
俺は返事をしかけて、先に笑ってしまった。作っている間に、何度もそう思っていた。
「ずっと匂いしてるからな」
「自分たちで作った匂いで、お腹空かせてる」
凪はそう言って、鍋の中をもう一度混ぜた。
食器棚から深い皿を二枚出した。白い皿と、縁に青い線のある皿だった。大きさはだいたい同じだが、並べると深さが少し違った。
「どっちがいい?」
「こっち」
凪は青い線のほうへ指を置いた。
「じゃあ、それ凪のね」
言ってから、俺はその皿をテーブルへ運んだ。凪の座る側へ置く。今まで何度も使った皿なのに、置く場所を決めると、そこだけ少し見慣れなくなった。
盛りつけた料理から湯気が上がった。残りの入った鍋も、テーブルの真ん中に敷いた鍋敷きへ載せた。
凪が茶碗を運んできて、俺の前へ一つ置いた。俺は鍋の柄から手を離し、椅子を引いた。
凪が座るのを待って、胸の前で手を合わせた。凪も両手を合わせ、こちらを見た。
「いただきます」
声が重なった。凪が笑ったので、俺も手を合わせたまま少し笑った。それから二人で箸を取った。
鶏肉は箸で押すとほぐれた。口へ運ぶと、まずトマトの酸味が舌に触れ、そのあとから、玉ねぎの甘さと肉の濃い味が広がった。息を少し吸いながら噛む。焼いた皮の香ばしさが、湯気に混じって鼻へ抜けた。
「……うまいな、これ」
言ってから顔を上げると、凪も箸を止めていた。口元を片手で覆い、何度も頷いている。
飲み込んでから、彼女は手を下ろした。
「すごくおいしい」
「うん」
「待ってよかったね」
俺は頷き、今度はソースをごはんに絡めた。白い粒の間へ赤い色が染みていく。肉と一緒に食べると、熱いごはんの甘さまで加わった。
向かいでも、凪が同じように食べていた。目が合い、どちらからともなく笑った。何か言おうとしたが、口の中にまだごはんがあったので、俺はもう一度頷いた。
次の一口にも、さっきと同じくらい驚いた。
鍋の中には、まだ少し残っていた。
「いつも、このくらい作る?」
凪が聞いた。
「うん。だいたい二回に分けて食べる」
「じゃあ、今日は一回だ」
凪が皿のきのこを拾った。
いつもなら、粗熱が取れるのを待って、半分を容器に移していた。明日の自分のために残すぶんから、今夜は、凪の顔の前へ湯気が上がっている。
凪は箸を持ち直し、小さく切った鶏肉をごはんの上へ載せた。熱いらしく、口元へ運ぶ前に一度だけ息を吹きかけた。
初めて会った日には、笑う声を聞くたびに、どんな顔をしているのか見たくなった。
今は、凪がこちらを向いていない間にも、目が留まった。
ひと口食べて、ゆっくり噛む。肩を少し下げ、茶碗を持ち直す。駅でマフラーへ顎を埋めていた人が、今は袖をまくったまま、俺の向かいで温かいものを食べていた。
目を合わせてくれなくてもよかった。おいしそうに食べている、その時間をもう少し見ていたかった。
凪の箸が皿へ戻ると、俺の口元も緩んだ。自分の箸は、持ち上げたまま止まっていた。
「湊も食べなよ。冷めるよ」
言われて、俺は箸を動かした。
「食べてるよ」
「今、止まってた」
「見てた」
凪は少しだけ目を伏せ、ごはんを口へ運んだ。耳のあたりへ髪を戻そうとして、結んでいたことを思い出したように、手を下ろした。
俺も皿へ目を戻した。
鍋に残ったぶんも、二人の皿へ分けた。凪は青い線の際に残ったソースまで、最後のごはんで寄せて食べた。俺も同じようにして、皿を空にした。
箸を揃えて置くと、凪もちょうど茶碗を置いたところだった。顔を見合わせ、二人で胸の前に手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
凪は手を下ろしてから、もう一度、空になった皿を見た。
「おいしかったね」
「すごく」
「初めて二人で作ったごはん、これだね」
俺は頷いた。
「いいのができたね」
「うん」
凪が笑った。青い線の内側に、拭いきれなかったソースが細く残っていた。俺の皿にも同じ色の跡があり、テーブルの真ん中では、空になった鍋からまだ少し湯気が上がっていた。
窓の外で風が鳴った。鍋を見ている間から聞こえていた音だったが、どこか遠いところのものに聞こえた。
凪は自分の皿に俺の皿を重ねた。
「洗うよ」
「じゃあ、俺拭く」
流しの前へ並んだ。
湯の中で、皿に残った赤いソースが薄まっていく。凪がすすぎ終えて差し出した皿を、俺は乾いた布巾で受け取った。指先が一度触れた。今はもう、どちらの手も温かかった。
青い線に沿って水気を拭き、棚へ戻した。
次に渡された白い皿には、まだ小さな水滴が残っていた。俺が拭いている間に、凪は茶碗を洗っていた。ひとつ受け取り、ひとつ戻す。棚の扉を開けたままでも、二人の肩はぶつからなかった。
濡れた凪の手が、空中で少し待った。
俺は布巾を持ち直して、その手から茶碗を受け取った。
「また一緒に作ろうね」
凪は流しのほうを向いたまま言った。
「うん」
返事をすると、凪は最後の茶碗を水の下へ通した。
さっきまで彼女が食べていた器が、湯で温まり、今は俺の手の中にあった。底のくぼみに残った水を拭く。裏返すと、布巾越しにも、丸い重みが掌へ収まった。
凪は木べらをすすいでいた。
茶碗を棚へ戻してから、俺はまた隣へ手を差し出した。
第十九話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「グラスの中」です。




