3-7 足元、気をつけて
十二月、凪がまた湊の町へ来ます。
駅前の木は、向こうの信号が見えるほど葉を落としていた。
十二月も半ばだった。車を降りると、耳の縁が痛くなった。上着のポケットに両手を入れ、肩をすぼめて改札へ向かった。地面には日が当たっていたが、その中へ出ても、指先の冷たさは変わらなかった。
『着いた。いつもの柱のとこ』
そう送ってから、まだ二度目だと思った。
最初に凪が来た日から、一か月あまりが過ぎていた。あの日の帰りに作ったプレイリストは、車の中でも、夜に洗濯物を畳むときにも流していた。凪が本を読むときにも聴いていることを、通話で聞いた。
『分かるよ』
返事を見て、スマホをしまった。
しばらくすると、改札の向こうで黒い鞄が揺れた。凪は俺を見つけると、片手を上げ、そのまままっすぐ歩いてきた。
「おつかれ」
「また来た」
マフラーに少し埋もれた声だった。俺が鞄へ手を伸ばすと、凪は肩から持ち手を外して渡してきた。受け取るとき、手の甲が触れた。彼女の手は、電車の中の温かさを残していた。
「湊、冷たい」
「外、すごい寒いよ」
「こっち着く前、ホームで分かった」
自動ドアを抜けると、凪が短く息を吸った。マフラーの上で白くなった息が、すぐ横へ流された。
「今日、コート見に行っていい?」
「いいよ」
「長いやつ。今の、腰から下が寒くて」
凪は上着の裾を引いた。少し下がって、手を離すと元へ戻った。
駐車場までの間に、さっき触れた彼女の指も赤くなっていた。
いったん部屋へ寄って鞄を置き、昼を食べてから、服を見に出かけた。
店に入ると、頬にまとわりつくような暖気があった。凪がマフラーを緩め、その端を胸の前へ垂らした。俺も上着のファスナーを下げた。暖かくなってから、肩に力が入っていたことに気づいた。
壁際に、長いコートが並んでいた。
凪が手に取ったのは、濃い灰色のものだった。襟を指で挟み、生地を確かめてから、ハンガーを少し持ち上げる。
「これ、よさそう」
店員に声をかけ、試着用の鏡の前で袖を通した。裾はすねの半ばまであり、凪は鏡から目を落として、隠れた膝のあたりを手で撫でた。
「長い」
「長いの探してたんでしょ」
「うん。ちゃんと長くて嬉しい」
そう言って片足を出し、歩くときの裾を確かめている。隠れていた靴が一歩ごとに現れ、また灰色の布の下へ戻った。
「湊も着てみて」
「俺も?」
「そっち、大きいサイズもある」
凪が指したラックには、同じ形のコートが掛かっていた。
俺は一着取り、上着を脱いで袖を通した。裏地が滑り、肩に布の重みが落ち着いた。前を合わせると、腰の下まで包まれた。いつも着ているものでは外へ出ていた腿が、鏡の中で見えなくなった。
凪が少し離れたところから見ていた。
「似合うね」
前のボタンに掛けていた指が止まった。
「そう?」
「うん。そっちのほうが好き」
俺は一つだけボタンを留め、もう一度鏡を見た。肩を少し後ろへ引いてみた。脱ごうと思えばすぐに脱げるのに、もうしばらく着ていたかった。
凪が隣へ来た。
俺の袖口に目を落とし、それから自分の手を出して、長さを見比べている。店の照明が当たると、灰色の生地には細い明るい糸が混じっていた。
「黒もあるよ」
俺が言うと、凪はラックのほうを見た。
「うん。でも、こっちがいい」
「俺も、こっちかな」
「同じになるね」
「なるね」
凪は鏡の中で俺と目を合わせた。それから、口元を隠すように襟を持ち上げた。目だけが笑っていた。
俺たちは、サイズの違う同じコートを買った。
そのまま着ていくと伝えると、店員が襟元のタグを切ってくれた。襟が少し浮いて、首の後ろに店の空気が触れた。さっきまで着ていた上着は、それぞれ紙袋へ入った。
店を出ると、凪が足を止めた。
「全然違う」
風に押されたコートの裾が、俺のすねにも触れていた。耳と頬は相変わらず冷たかったが、腰を丸めずに立っていられた。
凪は前のボタンを下まで留め、ポケットへ手を入れた。
「ここ、深い」
「手、全部入る?」
「うん。湊のは?」
俺も空いているほうの手を入れてみた。奥で指を開く余地があり、こわばっていた親指を、ゆっくり曲げられた。
「入る」
「よかった」
凪はポケットの中へ手を収めたまま、歩き出した。
車へ古い上着の袋を置き、近くの通りを少し歩いた。帰る前に、晩ごはんの買い物をすることにしていた。
まだ四時前だったが、通りの店には灯りがつき始めていた。パン屋のガラスには内側から薄く曇りが掛かり、並んだパンの色だけがぼんやり見えた。凪が一度覗き込んで、それからこちらを見た。
「今日は、ちゃんと晩ごはん作ろうね」
「パン買って帰ると思った?」
「前、朝も昼もパンだったから」
「今日は違うもの食べよう」
凪は頷いた。窓から離れると、頬に当たっていた店の明かりが消えた。
道はその先で少し狭くなっていた。
建物の間に駐車場の出口があり、奥で車のライトがついた。俺は車が出てくるかを見ながら、凪の歩いている側へ半歩寄った。
「湊、足元、気をつけて」
袖が、軽く引かれた。
目を下ろすと、靴のすぐ前で舗装が低くなっていた。道の色は同じで、段の縁にだけ、細い影があった。俺は踏み出しかけた足を少し近くへ下ろした。靴底が地面につくまで、思っていたより長かった。
凪の指が袖から離れた。
「ありがと」
声が出たのは、そのあとだった。
「うん」
凪は自分も段を下り、もう駐車場の向こうを見ていた。車は奥で停まったままだった。俺たちはその前を通り過ぎ、広くなった歩道でまた並んだ。
新しいコートの袖に、指でつままれた小さな皺が残っていた。歩くたびに布が揺れ、さっき凪が触れたところが、少しずつ分からなくなっていった。
荷物を持ったり、扉を押さえたりすることには慣れていた。女の人と歩くときには、車の来る側や、道の狭くなるところを、自分が先に見ておくものと思っていた。
さっきも、凪が通れる幅を見ていた。
その間に、凪は俺の靴の先を見ていた。
ポケットの中で握っていた手を開いた。肩が少し下がって、首の後ろにコートの襟が触れた。凪の声はもう途切れていたが、呼ばれた自分の名前が、まだ耳の近くにあった。
「どうしたの?」
凪が俺を見ていた。
「今の、ちょっと嬉しかった」
「今の?」
「足元、って言ってくれたの」
凪は一度、通ってきた道を振り返った。
「見えてなさそうだったから」
「うん。見えてなかった」
「危ないよ、あそこ。色、一緒だし」
そう言って、凪はまた前を向いた。
俺はポケットから手を出した。空気に触れると、指先がもう一度縮こまった。凪の手は袖口から少し出ていて、歩くたびに、俺の手のそばへ来ては離れた。
次に近づいたとき、小指の脇に触れた。
凪の手が、その揺れから外れて俺のほうへ向いた。指が少し開く。俺はそこへ自分の指を差し入れた。爪のそばは冷えていたが、掌を重ねると、窪んだところにまだ温かさがあった。
一度だけ握り直した。指の付け根まで触れ合うと、二つの手の間にあった冷たい空気が抜けた。凪の指が、俺の手の甲へ回った。
握り返されて、俺のほうが少し力を抜いた。
それでも、凪の指はほどけずにいた。
力を緩めたぶんだけ、自分の手の重さが彼女の掌にかかった。そのまま受け止められているのを感じて、俺はゆっくり息を吐いた。白くなった息が、思っていたより長く、二人の前へ流れた。
言いたかったことは、さっきの「ちょっと」では足りなかった。
凪の親指が、俺の手の甲を一度だけ撫でた。
名前を呼ばれたように顔を向けると、彼女は道の先を見ていた。マフラーに触れる口元が、ほんの少し緩んでいた。俺も前へ向き直った。つないだ手は見なくても、彼女が歩くたびに小さく伝わってきた。
信号の前で立ち止まった。
向こう側の店の軒に、小さな電球が連なっていた。風が一瞬止まり、凪の白い息が顔の前をゆっくりのぼった。灯りを見上げる横顔の下で、俺たちの手だけが、コートの外に出ていた。
「手、冷えるよ」
凪が言った。
「もう少しだけ」
凪は手元を見下ろした。それから空いているほうの手で俺のポケットの口を開き、つないだ手をそこへ滑り込ませた。
二人ぶんの手で、深いポケットがいっぱいになった。
入りきるように指を少し曲げ直すと、凪も握り方を変えた。一瞬緩んだ指が、布の中でもう一度組み合わさった。手の甲に、風のかわりに滑らかな裏地が触れた。
「これなら平気」
「うん」
指先にはまだ冷たさが残っていた。ポケットの中で、俺も凪の手の甲を親指で撫でた。
凪が半歩こちらへ寄り、コートの袖同士が触れた。俺は二人の肘が楽に収まるよう、腕の力を抜いた。
早く青になればいいと思うことの多い信号だった。
向こう側を見ている凪の横で、俺は赤い灯りを見上げた。待っている間にも、凪の親指がときどき動いた。ポケットの底では、冷えていた指の腹が、少しずつ彼女の体温を拾い始めていた。
青になると、凪が顔をこちらへ向けた。
俺は頷いて、凪と一緒に歩き出した。
歩き始めの二歩ほどで、つないだ手がポケットの内側を引いた。俺が歩幅を少し詰めると、凪もゆっくりになった。やがて、腕を引かれることなく並んで歩ける速さに落ち着いた。
同じ色の裾が、それぞれの膝に沿って揺れていた。
渡り終えてからも、俺たちはその速さのまま歩いた。
スーパーへ寄り、夕食の材料を買って帰った。
玄関の灯りをつけると、凪は先に靴を脱ぎ、買い物袋を台所へ運んでくれた。戻ってきてコートのボタンを外す。買い物袋の持ち手の跡が、指に白く残っていた。
「これ、どこ掛けよう」
玄関脇に掛けていたハンガーを、二本外した。
凪のコートを受け取り、自分のものと並べて掛けた。丈が違うので、裾の位置が少しずれた。袖が触れ合ったまま、二着の揺れが収まった。
「こうすると、間違えそう」
「短いほうが凪の」
「着る前に分かるね」
凪は袖口を一度撫で、台所のほうへ戻っていった。
俺も上がろうとして、靴紐に指を掛けた。指が少し鈍く、結び目がほどけるまで時間がかかった。
顔を上げると、凪が台所からこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「うん。指がまだ冷たいだけ」
「お湯、出しとくね」
蛇口をひねる音がした。
靴を脱いで立ち上がった。水の流れる音を聞きながら、俺は並んだコートの脇を抜け、凪のいる台所へ向かった。
第十八話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「ふたりの台所」です。




