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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
恋愛成立・最盛期
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17/48

3-6 助手席

一緒に迎えた朝から、帰りの電車まで。

翌朝、枕元のスマホへ手を伸ばして、途中で止めた。


窓のそばで、凪が本を読んでいた。


カーテンは半分だけ開いていた。向かいの建物から返ってくる朝の光が、膝の上のページを白くしている。俺はスマホを探していた手を、布団の上へ戻した。


「おはよう」


声にすると、凪が顔を上げた。


「おはよう。起こした?」


「ううん」


「もうちょっと寝ててもいいよ」


凪は親指をページに挟んだまま、こちらを見ていた。俺は布団の中で一度足を伸ばしてから、起き上がった。


昨夜、灯りを消してからもしばらく話した。顔を少し横へ向けると、凪の声が近くなった。返事が短くなり、どちらからともなく黙った。その先から今朝までのことは、何も覚えていなかった。


「眠れた?」


「うん。人の家だと、もっと起きちゃうと思ってた」


凪は本を閉じて、膝の上へ置いた。


「湊は?」


「俺も、普通に寝た」


「普通に、か」


「かなり、普通に」


凪が笑った。俺はまだ少し掠れた喉で笑い返し、台所へ向かった。


カップを二つ出したところで、凪が本を置いて立ち上がる気配がした。


「何かする?」


「パン食べる?」


「食べる」


棚を開ける俺の横で、凪が椅子を引いた。昨夜掛けたタオルが洗面所にあり、部屋の隅には黒い鞄が半分開いていた。パンの袋を留めている小さな留め具を外しながら、俺は昨日凪が使ったカップを、彼女の座る側へ寄せた。


昼前に部屋を出た。


帰りの電車までは、まだ三時間ほどあった。川沿いを少し走ってから駅へ行こうということになり、俺は凪の鞄を後部座席へ置いた。


凪は助手席に座ると、足元のレバーを引いた。座席が少し後ろへ滑り、そこで落ち着いた。昨日は膝の上で揃っていた両手が、今日は片方だけ、ドアの肘掛けに載っていた。


エンジンをかけ、昨日二人で話していたアルバムの三曲目を選んだ。


最初の音が鳴ると、凪がこちらを向いた。


「覚えてた」


「今日、かけるんでしょ」


「うん」


凪はスマホを膝に伏せた。


車を出すと、建物の影がフロントガラスの上を流れた。日なたへ出るたび、ハンドルを持つ手の甲が暖かくなる。助手席からは、服の擦れる音に混じって、ときどき短い鼻歌が聞こえた。


曲の終わり近くで、凪が黙った。


俺も、話しかけようとしていたことを後へ回した。余韻の長い音が薄くなり、タイヤが路面を転がる音が戻ってくるまで、そのまま聴いた。


「次も好きなんだよね」


凪が言った。


「俺も。この二曲、続けて聴きたくなる」


「あ、分かる」


次の曲が始まったので、凪は続きを言わなかった。ドアに置かれた指が、ゆっくり動いていた。


町を抜けると、道の片側が開けた。


低い土手の向こうに、水の光が見え隠れしていた。草の穂が日に透けて、川とは別の速さで揺れている。凪は少し身体を起こし、窓の外を見た。


「ねえ、あそこ、降りてみたい」


「川のところ?」


「うん。白く光ってるとこ」


前方に、河川敷の駐車場を示す小さな看板があった。時計を確かめて、次の分かれ道でウインカーを出した。


「電車、大丈夫?」


「まだ余裕あるよ」


「よかった」


曲がった先では、道に落ちた葉が、車の風に押されて端へ寄った。


駐車場へ車を入れると、凪がスマホを持ち上げた。


「歩く前に、一曲だけ聴いてもいい?」


「いいよ」


「さっきの二曲が好きなら、これも好きだと思う」


送ってもらった曲を開いた。知らない曲名だった。俺が再生すると、凪はスマホを下ろし、前を向いた。


歌声の下で、低い弦の音が続いていた。


凪の指が、膝の上で小さく拍を刻んでいる。俺もハンドルから手を離し、座席へ背を預けた。窓の外では風が吹いていたが、車の中には草の動く音が入ってこなかった。


やがて歌声が止み、楽器の音も少なくなった。低い音だけが細く残って、消えかけた。


凪の指が止まった。


そこへ、ドラムが戻った。


思わず息を吸うと、凪がこちらを見た。


「ここ」


「うん」


「好きでしょ」


俺は頷いた。凪はそれだけで満足したように、また前へ向き直った。


続きを聴きながら、今のところへもう一度戻りたいと思った。凪の指は、俺が音を待った長さと同じだけ、膝の上で止まっていた。


曲が終わってから、ドアを開けた。


風が入り込み、急に遠くの声まで聞こえるようになった。砂利の上へ足を下ろすと、靴の底で小石が動いた。


土手まで歩いた。


車からはひと続きに白く見えた穂が、近づくと、一本ずつ違うほうへ揺れていた。日が雲に隠れると白さが引き、また出てくると、向こう側から明るくなった。


凪は道の脇で足を止め、その変わり方を見ていた。


「さっき、これが見えたんだ」


「うん。なんか、通り過ぎるのもったいなくなって」


俺も隣で立ち止まった。


土手の先では、犬を連れた人が川のほうへ下りていた。草の中へ駆け出していく犬が見えて、凪が少し笑った。俺はその笑いに気づいてから、同じほうを見た。


「何か投げた?」


「投げたふりだけ。今、飼い主のほう見てる」


犬は草の中で立ち止まり、しばらくして戻り始めた。


「今度はちゃんと投げてもらいなよ」


凪が小さく言った。犬には届かない声だったが、妙に真剣で、俺は笑ってしまった。


凪もこちらを見て笑った。


風が強くなったので、二人で歩き出した。行き先を決めず、土手の道を少し先まで行った。凪が立ち止まると俺も止まり、俺が川のほうを指すと、凪が同じほうへ顔を向けた。


車へ戻るころには、ジャケットの中が少し暖かくなっていた。


ドアを閉めると、風の音が遠くなった。凪が座席へ深く腰を下ろし、さっきと同じ場所へ肘を置いた。


「さっきの曲、あとでも聴きたい」


俺が言うと、凪はスマホを出した。


「じゃあ、今日の、まとめてプレイリストにしておこっか」


「俺のも入れていい?」


「うん。何からにする?」


昨日、駅からの車で聴いた曲を最初に入れた。今日のアルバムの二曲を続け、今ここで聴いた曲を足す。


「これも」


凪が見せた画面に、俺も選ぼうとしていた曲があった。


「今、言おうと思った」


「じゃあ入れる」


凪は迷わず指を動かした。俺が名前を挙げるより早く、次に入れたい曲が並んでいることもあった。


作ったプレイリストのリンクが届いた。


開くと、さっきまで凪の手の中にあった曲の並びが、俺の画面にもあった。最初から流してみる。昨日、駐車場を出たときの音が、窓の外の草の揺れに重なった。


凪はシートベルトを引きながら、小さく口ずさんでいた。


駅へ向かう途中で、パンを買って食べた。


昼をゆっくり食べるつもりだったことを、店の看板を見て思い出した。店の駐車場で袋を開けると、凪は一口かじってから、膝に落ちた欠片を指先で拾った。


「朝もパンだったね」


「そうだね」


「帰りの電車で、また何か食べそう」


「まだ三時間あるからね」


「着くころには、晩ごはんだ」


「またパン?」


「それはもう違うの食べる」


凪が袋を揺らして笑った。俺は飲み物の蓋を開けながら、次に鳴る曲の最初の音を待っていた。


駅に着いたのは、電車の二十分ほど前だった。


後部座席から鞄を出し、改札まで一緒に歩いた。時計のある柱の横を通ると、昨日ここで何度もスマホを取り出したことを思い出した。


今日は、手を伸ばせば触れられるところに凪がいた。


改札の少し手前で、鞄を渡した。


「ありがとう。運転も」


「うん。来てくれてありがとう」


凪は持ち手を握り直し、俺を見た。


「昨日、初めて会ったんだよね」


「そうだよ」


「そうなんだけどさ」


続きは言わずに、凪は笑った。俺も少し笑って、鞄を持っていないほうの手に触れた。


凪が指を握ってきた。


しばらく、そのままでいた。改札を通る人の足音が、俺たちの横をいくつも過ぎていった。


「着いたら連絡するね」


「うん」


指がほどけ、凪は改札へ向かった。一度通ってから振り返り、手を振った。


俺も手を上げた。


階段のほうへ歩いていく黒い鞄を見送ってから、駐車場へ戻った。


助手席は、少し後ろへ下がったままだった。


凪が肘を置いていた場所に日が当たっていた。俺は運転席へ座り、共有したプレイリストを開いた。さっき川のそばで教えてもらった曲を選ぶ。


低い音が流れ始めた。


駐車場を出て、家へ向かった。帰りは十分ほどの道だった。


部屋の鍵を開けると、朝に畳んだ布団があった。テーブルの上には、凪が最後まで飲んだカップが一つ残っていた。


上着を脱いで椅子に掛けたところで、スマホが震えた。


『乗ったよ』


少し間を置いて、もう一つ届いた。


『さっきのプレイリスト聴いてる』


俺は椅子へ座った。


『俺も、帰りに聴いてた』


『あの曲?』


『うん。川のとこの』


『やっぱり』


続いて、車窓の写真が送られてきた。線路沿いの木々が少しぶれていて、ガラスに、スマホを持つ凪の指が薄く映っていた。


『本も読もうと思ってたんだけど、今日はこのまま聴いて帰る』


写真を開いたまま、俺はしばらく画面を見ていた。凪の町までは、まだいくつも駅がある。その間、この曲も、昨日初めて同じ場所で聴いた曲も流れる。


『着いたら、また話そ』


そう送ると、すぐに返事が来た。


『うん』


俺は机のヘッドセットを取り、もう一度、曲をかけた。


歌声が止み、楽器の音が少なくなっていった。低い音だけが細く残る。


机の上で拍を取っていた指が止まった。


次の音と一緒に、小さく机を叩いた。

第十七話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「足元、気をつけて」です。

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