3-6 助手席
一緒に迎えた朝から、帰りの電車まで。
翌朝、枕元のスマホへ手を伸ばして、途中で止めた。
窓のそばで、凪が本を読んでいた。
カーテンは半分だけ開いていた。向かいの建物から返ってくる朝の光が、膝の上のページを白くしている。俺はスマホを探していた手を、布団の上へ戻した。
「おはよう」
声にすると、凪が顔を上げた。
「おはよう。起こした?」
「ううん」
「もうちょっと寝ててもいいよ」
凪は親指をページに挟んだまま、こちらを見ていた。俺は布団の中で一度足を伸ばしてから、起き上がった。
昨夜、灯りを消してからもしばらく話した。顔を少し横へ向けると、凪の声が近くなった。返事が短くなり、どちらからともなく黙った。その先から今朝までのことは、何も覚えていなかった。
「眠れた?」
「うん。人の家だと、もっと起きちゃうと思ってた」
凪は本を閉じて、膝の上へ置いた。
「湊は?」
「俺も、普通に寝た」
「普通に、か」
「かなり、普通に」
凪が笑った。俺はまだ少し掠れた喉で笑い返し、台所へ向かった。
カップを二つ出したところで、凪が本を置いて立ち上がる気配がした。
「何かする?」
「パン食べる?」
「食べる」
棚を開ける俺の横で、凪が椅子を引いた。昨夜掛けたタオルが洗面所にあり、部屋の隅には黒い鞄が半分開いていた。パンの袋を留めている小さな留め具を外しながら、俺は昨日凪が使ったカップを、彼女の座る側へ寄せた。
昼前に部屋を出た。
帰りの電車までは、まだ三時間ほどあった。川沿いを少し走ってから駅へ行こうということになり、俺は凪の鞄を後部座席へ置いた。
凪は助手席に座ると、足元のレバーを引いた。座席が少し後ろへ滑り、そこで落ち着いた。昨日は膝の上で揃っていた両手が、今日は片方だけ、ドアの肘掛けに載っていた。
エンジンをかけ、昨日二人で話していたアルバムの三曲目を選んだ。
最初の音が鳴ると、凪がこちらを向いた。
「覚えてた」
「今日、かけるんでしょ」
「うん」
凪はスマホを膝に伏せた。
車を出すと、建物の影がフロントガラスの上を流れた。日なたへ出るたび、ハンドルを持つ手の甲が暖かくなる。助手席からは、服の擦れる音に混じって、ときどき短い鼻歌が聞こえた。
曲の終わり近くで、凪が黙った。
俺も、話しかけようとしていたことを後へ回した。余韻の長い音が薄くなり、タイヤが路面を転がる音が戻ってくるまで、そのまま聴いた。
「次も好きなんだよね」
凪が言った。
「俺も。この二曲、続けて聴きたくなる」
「あ、分かる」
次の曲が始まったので、凪は続きを言わなかった。ドアに置かれた指が、ゆっくり動いていた。
町を抜けると、道の片側が開けた。
低い土手の向こうに、水の光が見え隠れしていた。草の穂が日に透けて、川とは別の速さで揺れている。凪は少し身体を起こし、窓の外を見た。
「ねえ、あそこ、降りてみたい」
「川のところ?」
「うん。白く光ってるとこ」
前方に、河川敷の駐車場を示す小さな看板があった。時計を確かめて、次の分かれ道でウインカーを出した。
「電車、大丈夫?」
「まだ余裕あるよ」
「よかった」
曲がった先では、道に落ちた葉が、車の風に押されて端へ寄った。
駐車場へ車を入れると、凪がスマホを持ち上げた。
「歩く前に、一曲だけ聴いてもいい?」
「いいよ」
「さっきの二曲が好きなら、これも好きだと思う」
送ってもらった曲を開いた。知らない曲名だった。俺が再生すると、凪はスマホを下ろし、前を向いた。
歌声の下で、低い弦の音が続いていた。
凪の指が、膝の上で小さく拍を刻んでいる。俺もハンドルから手を離し、座席へ背を預けた。窓の外では風が吹いていたが、車の中には草の動く音が入ってこなかった。
やがて歌声が止み、楽器の音も少なくなった。低い音だけが細く残って、消えかけた。
凪の指が止まった。
そこへ、ドラムが戻った。
思わず息を吸うと、凪がこちらを見た。
「ここ」
「うん」
「好きでしょ」
俺は頷いた。凪はそれだけで満足したように、また前へ向き直った。
続きを聴きながら、今のところへもう一度戻りたいと思った。凪の指は、俺が音を待った長さと同じだけ、膝の上で止まっていた。
曲が終わってから、ドアを開けた。
風が入り込み、急に遠くの声まで聞こえるようになった。砂利の上へ足を下ろすと、靴の底で小石が動いた。
土手まで歩いた。
車からはひと続きに白く見えた穂が、近づくと、一本ずつ違うほうへ揺れていた。日が雲に隠れると白さが引き、また出てくると、向こう側から明るくなった。
凪は道の脇で足を止め、その変わり方を見ていた。
「さっき、これが見えたんだ」
「うん。なんか、通り過ぎるのもったいなくなって」
俺も隣で立ち止まった。
土手の先では、犬を連れた人が川のほうへ下りていた。草の中へ駆け出していく犬が見えて、凪が少し笑った。俺はその笑いに気づいてから、同じほうを見た。
「何か投げた?」
「投げたふりだけ。今、飼い主のほう見てる」
犬は草の中で立ち止まり、しばらくして戻り始めた。
「今度はちゃんと投げてもらいなよ」
凪が小さく言った。犬には届かない声だったが、妙に真剣で、俺は笑ってしまった。
凪もこちらを見て笑った。
風が強くなったので、二人で歩き出した。行き先を決めず、土手の道を少し先まで行った。凪が立ち止まると俺も止まり、俺が川のほうを指すと、凪が同じほうへ顔を向けた。
車へ戻るころには、ジャケットの中が少し暖かくなっていた。
ドアを閉めると、風の音が遠くなった。凪が座席へ深く腰を下ろし、さっきと同じ場所へ肘を置いた。
「さっきの曲、あとでも聴きたい」
俺が言うと、凪はスマホを出した。
「じゃあ、今日の、まとめてプレイリストにしておこっか」
「俺のも入れていい?」
「うん。何からにする?」
昨日、駅からの車で聴いた曲を最初に入れた。今日のアルバムの二曲を続け、今ここで聴いた曲を足す。
「これも」
凪が見せた画面に、俺も選ぼうとしていた曲があった。
「今、言おうと思った」
「じゃあ入れる」
凪は迷わず指を動かした。俺が名前を挙げるより早く、次に入れたい曲が並んでいることもあった。
作ったプレイリストのリンクが届いた。
開くと、さっきまで凪の手の中にあった曲の並びが、俺の画面にもあった。最初から流してみる。昨日、駐車場を出たときの音が、窓の外の草の揺れに重なった。
凪はシートベルトを引きながら、小さく口ずさんでいた。
駅へ向かう途中で、パンを買って食べた。
昼をゆっくり食べるつもりだったことを、店の看板を見て思い出した。店の駐車場で袋を開けると、凪は一口かじってから、膝に落ちた欠片を指先で拾った。
「朝もパンだったね」
「そうだね」
「帰りの電車で、また何か食べそう」
「まだ三時間あるからね」
「着くころには、晩ごはんだ」
「またパン?」
「それはもう違うの食べる」
凪が袋を揺らして笑った。俺は飲み物の蓋を開けながら、次に鳴る曲の最初の音を待っていた。
駅に着いたのは、電車の二十分ほど前だった。
後部座席から鞄を出し、改札まで一緒に歩いた。時計のある柱の横を通ると、昨日ここで何度もスマホを取り出したことを思い出した。
今日は、手を伸ばせば触れられるところに凪がいた。
改札の少し手前で、鞄を渡した。
「ありがとう。運転も」
「うん。来てくれてありがとう」
凪は持ち手を握り直し、俺を見た。
「昨日、初めて会ったんだよね」
「そうだよ」
「そうなんだけどさ」
続きは言わずに、凪は笑った。俺も少し笑って、鞄を持っていないほうの手に触れた。
凪が指を握ってきた。
しばらく、そのままでいた。改札を通る人の足音が、俺たちの横をいくつも過ぎていった。
「着いたら連絡するね」
「うん」
指がほどけ、凪は改札へ向かった。一度通ってから振り返り、手を振った。
俺も手を上げた。
階段のほうへ歩いていく黒い鞄を見送ってから、駐車場へ戻った。
助手席は、少し後ろへ下がったままだった。
凪が肘を置いていた場所に日が当たっていた。俺は運転席へ座り、共有したプレイリストを開いた。さっき川のそばで教えてもらった曲を選ぶ。
低い音が流れ始めた。
駐車場を出て、家へ向かった。帰りは十分ほどの道だった。
部屋の鍵を開けると、朝に畳んだ布団があった。テーブルの上には、凪が最後まで飲んだカップが一つ残っていた。
上着を脱いで椅子に掛けたところで、スマホが震えた。
『乗ったよ』
少し間を置いて、もう一つ届いた。
『さっきのプレイリスト聴いてる』
俺は椅子へ座った。
『俺も、帰りに聴いてた』
『あの曲?』
『うん。川のとこの』
『やっぱり』
続いて、車窓の写真が送られてきた。線路沿いの木々が少しぶれていて、ガラスに、スマホを持つ凪の指が薄く映っていた。
『本も読もうと思ってたんだけど、今日はこのまま聴いて帰る』
写真を開いたまま、俺はしばらく画面を見ていた。凪の町までは、まだいくつも駅がある。その間、この曲も、昨日初めて同じ場所で聴いた曲も流れる。
『着いたら、また話そ』
そう送ると、すぐに返事が来た。
『うん』
俺は机のヘッドセットを取り、もう一度、曲をかけた。
歌声が止み、楽器の音が少なくなっていった。低い音だけが細く残る。
机の上で拍を取っていた指が止まった。
次の音と一緒に、小さく机を叩いた。
第十七話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「足元、気をつけて」です。




