↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
恋愛成立・最盛期
PR
16/48

3-5 ラーメンのスープ

二人で、少し遅い昼ごはんを食べに行きます。

「ラーメン食べたい」


二つのカップを流しに置いたところで、背中から返事が来た。


「いいね。近くにあるよ。歩いて十分くらい」


「湊がよく行くとこ?」


「たまに行く」


「じゃあ、そこがいい」


凪は鞄から財布とスマホだけを取り出し、椅子の背に掛けていたジャケットへ腕を通した。俺も上着を着て、鍵を取った。


建物の陰を抜けると、頬に日が当たった。凪は眩しそうに目を細め、向かいの屋根より上を見た。


「こっちからなら、月も見えそうだね」


「建物の外まで出ればね」


「今度は外に出て撮ってよ」


「写真一枚のために?」


「宇宙のために」


「急に責任が大きいな」


凪が笑った。その声につられて顔を向けると、まだ少し、目が合うことに戸惑った。


信号の長い交差点を過ぎ、古い店の軒先を歩いた。歩道にはみ出した植木鉢の一つに、赤い実がついていた。凪の視線を追って、俺もそれを見た。いつもは、少し道が狭いと思うだけだった。


「あれ?」


凪が指さした先に、店の看板があった。


「そう。あそこ」


入口の横に出たメニューを、二人で覗き込む。写真の丼には、半分に切られた卵が載っていた。


店のガラス戸に、凪と俺が並んで映っていた。


薄茶色のジャケットと紺の上着。その間を、通りを走る車が横切っていく。凪は扉に貼られたメニューを見ていて、俺はその文字の向こうに映る二人を見ていた。


「湊、どれ食べる?」


呼ばれて、視線を手前へ戻した。


「醤油に味玉。いつもそれ」


「じゃあ、私も」


部屋で何が食べたいか聞いたとき、凪はほとんど迷わずラーメンと答えた。ここまで歩いて十分ほどだった。日なたでは上着が邪魔になるのに、建物の陰に入ると、首元に秋の空気が触れた。


戸を引くと、醤油と熱い油の匂いがした。凪が先に入り、扉を支える俺の腕の下を、髪がかすめていった。


カウンターの端に、二つ並んで席が空いていた。


食券を渡して腰を下ろす。いつもならどちらに座ったかなど覚えていない席で、今日は右側に凪がいた。上着を脱いだ彼女の肩が、さっきより近く見えた。


「三時間かけて来て、いつもの店でよかった?」


水差しを取りながら聞くと、凪は少し目を丸くした。


「私、まだ食べたことないよ」


「それはそうだけど」


「それに、ラーメンって言ったの私だし」


凪がコップを寄せてきたので、水を注いだ。氷が浮き、彼女はそれを一口飲んで、厨房のほうを見た。


昨日、どこへ連れていこうかと調べた店が、いくつか頭に浮かんだ。駅からの道順まで確かめたものもあった。今、凪が見ているのは、目の前の鍋から上がる湯気だった。


俺もコップに水を注いだ。


厨房から、ざるを振る音が聞こえてくる。壁の時計は一時を少し回っていた。隣の客が席を立ったあと、濡れた布巾の跡が、カウンターの上で少しずつ乾いていった。


「ここ、餃子もあるんだ」


凪が壁を指さした。


「食べる?」


「ちょっと迷う」


写真の餃子を見てから、自分の腹のあたりへ目を落としている。俺は食券機のほうを振り返った。


「あとからでも買えるよ」


「じゃあ、いったん保留」


そう言って水を飲んだすぐあとに、丼が来た。


スープの表面に、小さな油の粒が集まっていた。持ち上げたれんげが触れると、その輪が崩れ、下から濃い醤油の色が現れた。凪は顔を近づけ、一度、湯気の向こうで目を細めた。


俺たちは手を合わせて、食べ始めた。


最初の一口はまだ熱かった。舌の先で受け止めてから、少しずつ飲み込む。いつもの塩気が口に広がり、鼻へ香りが抜けた。


隣で、凪が小さく息を吐いた。


「ああ、おいしい」


聞こうと思っていたことを先に言われて、俺はれんげを持ったまま頷いた。


凪はもう麺へ箸を伸ばしていた。髪が頬に落ちるのを片手で耳に戻し、持ち上げた麺へ、慎重に息を吹きかける。今度は何も言わず、続けてもう一口食べた。


俺も箸を取った。


しばらくは、どちらも喋らなかった。


凪が水差しに手を伸ばすと、俺は自分のコップを少し寄せた。空いた手で箸の袋を二つまとめる。厨房で注文を繰り返す声や、誰かが扉を閉める音が、その間を通っていった。


向かい合わせにお茶を飲んでいたときは、目が合うたびに、何か返したくなった。ここでは凪の横顔が見えていた。俺が黙っていても、彼女は卵をれんげに載せ、黄身を崩さないように食べている。その様子を横目で見ながら、自分の麺をすすった。


「さっきの曲、まだ頭に残ってる」


凪が言った。


「車でかけたやつ?」


「うん。あそこ、ずっと繰り返してる」


「最後の?」


凪は頷き、ごく小さく鼻歌を歌った。俺もその先の音を思い出した。声にせず続きを追っていると、凪がこちらを見て、少し笑った。


店の中では、相変わらず食器の触れる音がしていた。俺は頭の中で曲を流したまま、残っていた麺を持ち上げた。


食べ進めるうちに、背中が汗ばんできた。腹が満ちるにつれ、箸を動かす間隔もゆっくりになった。最後に残した卵を食べ、底に沈んでいた短い麺をすくうと、丼の中にはスープだけが残った。


箸を置いて、背を起こした。


シャツの上から、腹のあたりを軽く撫でる。凪も同じように椅子へ座り直し、長く息を吐いていた。


「餃子は?」


聞くと、凪は首を振った。


「次回の私に任せる」


「引き継いどいて」


「空腹で写真を見ると、こうなるって」


壁の餃子はさっきと同じだったが、もう食べたいとは思わなかった。


それなのに、目の前のスープへは目が戻った。


麺がなくなると、丼の内側が広く見えた。スープの少し上に、食べ始めたときの跡が薄く残っている。れんげを沈めると、縁に寄っていた細かなネギが、ゆっくり真ん中へ流れた。


一口飲んだ。


もう冷ます必要はなかった。さっきまで熱さのために急いで飲み込んでいたものを、今は舌の上に置いておけた。醤油の塩気の奥にある甘さが、飲み込んだあとまで残った。


「スープ、全部飲む人?」


凪が聞いた。


「いや、残す。全部飲んだら、塩分取りすぎるし」


「だよね。身体にはよくないよね」


「うん。もう十分食べたし」


俺はれんげを丼の縁に掛けた。


腹は重かった。喉の奥にも、濃いものを食べたあとの渇きがあった。ここで残したほうがいいことに、迷うところはなかった。


コップの水を飲んだ。冷たさが舌を通り、口の中に残っていた塩気を薄めた。楽になって、もう一口飲む。


水を飲み終えると、今度は薄まった味が惜しくなった。


目を落とせば、まだそこにある。


丼の中には、れんげ何杯分ものスープが残っていた。空腹のころなら、足りない量だった。今の腹には多すぎる。そのどちらでもないところで、口だけが、さっきの味をもう一度欲しがっていた。


れんげの柄へ指を掛けた。持ち上げかけて、止める。


飲まないほうがいい理由は、もう分かっていた。考え直すほどのこともない。それでも指の腹には、さっきまで握っていた柄の、少し温かい感触が馴染んだ。


「まだ迷ってる」


凪に言われ、顔を上げた。


「分かる?」


「すごい見てるもん」


彼女の視線が、俺の手元へ落ちた。つられて見ると、空のれんげを、丼の上に持ち上げていた。


俺は笑って、少し下ろした。


「水飲んだら、また味が欲しくなった」


「でも飲んだら、また喉渇くよ」


「そうなんだよ」


凪が声を立てて笑った。


俺も笑った。笑っている間も、れんげは手の中にあった。


一口くらいなら、と考えた。そのくらいの量をすくうつもりで、先を沈める。白いれんげの内側が醤油の色に隠れていくところを見ながら、途中で持ち上げた。


身体にいいものへ変わったわけではなかった。


口へ運ぶと、やっぱりおいしかった。


目を少し閉じて飲み込んだ。喉を通ったあとにも、舌の奥に味が残っていた。さっき水を飲んで薄めたばかりのものを、確かめるように唇を合わせた。


「満足した?」


凪が聞いた。


れんげを下ろしながら、もう一度、丼を見た。


「したんだけど」


「けど?」


「今のがうまかったから、また飲みたくなってる」


凪は困ったように眉を寄せ、そのまま笑った。


「分かる。私も」


彼女も自分のれんげを取り、ほんの少しすくった。俺はその手元を見ていた。飲み終えた凪が小さく息をつくと、自分の口の中にも、また味が戻ってくるようだった。


厨房で、次の客のために麺をほぐす音がした。


俺はれんげを置いた。


置いたあとも、指は柄のくぼみに触れていた。そこから外して、膝の上へ戻した。手のひらが少し湿っていた。


丼の底にはまだスープがあった。薄い湯気が、顔を近づければ分かるくらいに立っていた。


もう一口飲んでも、おいしいのだろうと思った。


「行こっか」


凪が頷き、椅子の背からジャケットを取った。俺も上着を手にして立ち上がる。腹が重く、ほんの少し動作が遅れた。


「ごちそうさまでした」


厨房へ声を掛け、扉へ向かった。


ガラスの向こうでは、日の当たる道を自転車が走っていた。取っ手に触れると、指先に金属の冷たさが移った。戸を引いた途端、店の匂いが薄くなり、汗ばんでいた額に風が当たった。


「いいね、ここ」


後ろから出てきた凪が言った。


「また来たい」


「次は餃子もね」


「うん。二人で半分ずつ」


店の前を離れてから、上着に腕を通した。凪は先にジャケットを着終えて、俺が袖口から手を出すのを待っていた。


その手へ、凪の指が触れた。


顔を向けると、彼女は何も言わず、少しだけ手を開いた。俺はそこへ指を重ねた。まだ箸やれんげの硬さを覚えている手に、柔らかいものが収まった。


「お腹いっぱいだね」


「うん」


それだけ言って、しばらく歩いた。


行きに渡った横断歩道まで戻ってきても、信号はまだ青だった。俺たちは急がず、並んだまま渡った。凪の手が、歩くたびに少し前へ、少し後ろへ動いた。


部屋へ帰れば、あの黒い鞄がある。二つのカップを流しへ置いたままだ。凪は靴を脱いで、さっき座っていた椅子へ、もう一度座るのだろう。


つないだ指に少し力を込めると、隣から同じくらいの力が返ってきた。


まだ少し喉が渇いていた。


口の中に残った味を、俺は舌でそっと確かめた。

第十六話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「助手席」です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。