3-5 ラーメンのスープ
二人で、少し遅い昼ごはんを食べに行きます。
「ラーメン食べたい」
二つのカップを流しに置いたところで、背中から返事が来た。
「いいね。近くにあるよ。歩いて十分くらい」
「湊がよく行くとこ?」
「たまに行く」
「じゃあ、そこがいい」
凪は鞄から財布とスマホだけを取り出し、椅子の背に掛けていたジャケットへ腕を通した。俺も上着を着て、鍵を取った。
建物の陰を抜けると、頬に日が当たった。凪は眩しそうに目を細め、向かいの屋根より上を見た。
「こっちからなら、月も見えそうだね」
「建物の外まで出ればね」
「今度は外に出て撮ってよ」
「写真一枚のために?」
「宇宙のために」
「急に責任が大きいな」
凪が笑った。その声につられて顔を向けると、まだ少し、目が合うことに戸惑った。
信号の長い交差点を過ぎ、古い店の軒先を歩いた。歩道にはみ出した植木鉢の一つに、赤い実がついていた。凪の視線を追って、俺もそれを見た。いつもは、少し道が狭いと思うだけだった。
「あれ?」
凪が指さした先に、店の看板があった。
「そう。あそこ」
入口の横に出たメニューを、二人で覗き込む。写真の丼には、半分に切られた卵が載っていた。
店のガラス戸に、凪と俺が並んで映っていた。
薄茶色のジャケットと紺の上着。その間を、通りを走る車が横切っていく。凪は扉に貼られたメニューを見ていて、俺はその文字の向こうに映る二人を見ていた。
「湊、どれ食べる?」
呼ばれて、視線を手前へ戻した。
「醤油に味玉。いつもそれ」
「じゃあ、私も」
部屋で何が食べたいか聞いたとき、凪はほとんど迷わずラーメンと答えた。ここまで歩いて十分ほどだった。日なたでは上着が邪魔になるのに、建物の陰に入ると、首元に秋の空気が触れた。
戸を引くと、醤油と熱い油の匂いがした。凪が先に入り、扉を支える俺の腕の下を、髪がかすめていった。
カウンターの端に、二つ並んで席が空いていた。
食券を渡して腰を下ろす。いつもならどちらに座ったかなど覚えていない席で、今日は右側に凪がいた。上着を脱いだ彼女の肩が、さっきより近く見えた。
「三時間かけて来て、いつもの店でよかった?」
水差しを取りながら聞くと、凪は少し目を丸くした。
「私、まだ食べたことないよ」
「それはそうだけど」
「それに、ラーメンって言ったの私だし」
凪がコップを寄せてきたので、水を注いだ。氷が浮き、彼女はそれを一口飲んで、厨房のほうを見た。
昨日、どこへ連れていこうかと調べた店が、いくつか頭に浮かんだ。駅からの道順まで確かめたものもあった。今、凪が見ているのは、目の前の鍋から上がる湯気だった。
俺もコップに水を注いだ。
厨房から、ざるを振る音が聞こえてくる。壁の時計は一時を少し回っていた。隣の客が席を立ったあと、濡れた布巾の跡が、カウンターの上で少しずつ乾いていった。
「ここ、餃子もあるんだ」
凪が壁を指さした。
「食べる?」
「ちょっと迷う」
写真の餃子を見てから、自分の腹のあたりへ目を落としている。俺は食券機のほうを振り返った。
「あとからでも買えるよ」
「じゃあ、いったん保留」
そう言って水を飲んだすぐあとに、丼が来た。
スープの表面に、小さな油の粒が集まっていた。持ち上げたれんげが触れると、その輪が崩れ、下から濃い醤油の色が現れた。凪は顔を近づけ、一度、湯気の向こうで目を細めた。
俺たちは手を合わせて、食べ始めた。
最初の一口はまだ熱かった。舌の先で受け止めてから、少しずつ飲み込む。いつもの塩気が口に広がり、鼻へ香りが抜けた。
隣で、凪が小さく息を吐いた。
「ああ、おいしい」
聞こうと思っていたことを先に言われて、俺はれんげを持ったまま頷いた。
凪はもう麺へ箸を伸ばしていた。髪が頬に落ちるのを片手で耳に戻し、持ち上げた麺へ、慎重に息を吹きかける。今度は何も言わず、続けてもう一口食べた。
俺も箸を取った。
しばらくは、どちらも喋らなかった。
凪が水差しに手を伸ばすと、俺は自分のコップを少し寄せた。空いた手で箸の袋を二つまとめる。厨房で注文を繰り返す声や、誰かが扉を閉める音が、その間を通っていった。
向かい合わせにお茶を飲んでいたときは、目が合うたびに、何か返したくなった。ここでは凪の横顔が見えていた。俺が黙っていても、彼女は卵をれんげに載せ、黄身を崩さないように食べている。その様子を横目で見ながら、自分の麺をすすった。
「さっきの曲、まだ頭に残ってる」
凪が言った。
「車でかけたやつ?」
「うん。あそこ、ずっと繰り返してる」
「最後の?」
凪は頷き、ごく小さく鼻歌を歌った。俺もその先の音を思い出した。声にせず続きを追っていると、凪がこちらを見て、少し笑った。
店の中では、相変わらず食器の触れる音がしていた。俺は頭の中で曲を流したまま、残っていた麺を持ち上げた。
食べ進めるうちに、背中が汗ばんできた。腹が満ちるにつれ、箸を動かす間隔もゆっくりになった。最後に残した卵を食べ、底に沈んでいた短い麺をすくうと、丼の中にはスープだけが残った。
箸を置いて、背を起こした。
シャツの上から、腹のあたりを軽く撫でる。凪も同じように椅子へ座り直し、長く息を吐いていた。
「餃子は?」
聞くと、凪は首を振った。
「次回の私に任せる」
「引き継いどいて」
「空腹で写真を見ると、こうなるって」
壁の餃子はさっきと同じだったが、もう食べたいとは思わなかった。
それなのに、目の前のスープへは目が戻った。
麺がなくなると、丼の内側が広く見えた。スープの少し上に、食べ始めたときの跡が薄く残っている。れんげを沈めると、縁に寄っていた細かなネギが、ゆっくり真ん中へ流れた。
一口飲んだ。
もう冷ます必要はなかった。さっきまで熱さのために急いで飲み込んでいたものを、今は舌の上に置いておけた。醤油の塩気の奥にある甘さが、飲み込んだあとまで残った。
「スープ、全部飲む人?」
凪が聞いた。
「いや、残す。全部飲んだら、塩分取りすぎるし」
「だよね。身体にはよくないよね」
「うん。もう十分食べたし」
俺はれんげを丼の縁に掛けた。
腹は重かった。喉の奥にも、濃いものを食べたあとの渇きがあった。ここで残したほうがいいことに、迷うところはなかった。
コップの水を飲んだ。冷たさが舌を通り、口の中に残っていた塩気を薄めた。楽になって、もう一口飲む。
水を飲み終えると、今度は薄まった味が惜しくなった。
目を落とせば、まだそこにある。
丼の中には、れんげ何杯分ものスープが残っていた。空腹のころなら、足りない量だった。今の腹には多すぎる。そのどちらでもないところで、口だけが、さっきの味をもう一度欲しがっていた。
れんげの柄へ指を掛けた。持ち上げかけて、止める。
飲まないほうがいい理由は、もう分かっていた。考え直すほどのこともない。それでも指の腹には、さっきまで握っていた柄の、少し温かい感触が馴染んだ。
「まだ迷ってる」
凪に言われ、顔を上げた。
「分かる?」
「すごい見てるもん」
彼女の視線が、俺の手元へ落ちた。つられて見ると、空のれんげを、丼の上に持ち上げていた。
俺は笑って、少し下ろした。
「水飲んだら、また味が欲しくなった」
「でも飲んだら、また喉渇くよ」
「そうなんだよ」
凪が声を立てて笑った。
俺も笑った。笑っている間も、れんげは手の中にあった。
一口くらいなら、と考えた。そのくらいの量をすくうつもりで、先を沈める。白いれんげの内側が醤油の色に隠れていくところを見ながら、途中で持ち上げた。
身体にいいものへ変わったわけではなかった。
口へ運ぶと、やっぱりおいしかった。
目を少し閉じて飲み込んだ。喉を通ったあとにも、舌の奥に味が残っていた。さっき水を飲んで薄めたばかりのものを、確かめるように唇を合わせた。
「満足した?」
凪が聞いた。
れんげを下ろしながら、もう一度、丼を見た。
「したんだけど」
「けど?」
「今のがうまかったから、また飲みたくなってる」
凪は困ったように眉を寄せ、そのまま笑った。
「分かる。私も」
彼女も自分のれんげを取り、ほんの少しすくった。俺はその手元を見ていた。飲み終えた凪が小さく息をつくと、自分の口の中にも、また味が戻ってくるようだった。
厨房で、次の客のために麺をほぐす音がした。
俺はれんげを置いた。
置いたあとも、指は柄のくぼみに触れていた。そこから外して、膝の上へ戻した。手のひらが少し湿っていた。
丼の底にはまだスープがあった。薄い湯気が、顔を近づければ分かるくらいに立っていた。
もう一口飲んでも、おいしいのだろうと思った。
「行こっか」
凪が頷き、椅子の背からジャケットを取った。俺も上着を手にして立ち上がる。腹が重く、ほんの少し動作が遅れた。
「ごちそうさまでした」
厨房へ声を掛け、扉へ向かった。
ガラスの向こうでは、日の当たる道を自転車が走っていた。取っ手に触れると、指先に金属の冷たさが移った。戸を引いた途端、店の匂いが薄くなり、汗ばんでいた額に風が当たった。
「いいね、ここ」
後ろから出てきた凪が言った。
「また来たい」
「次は餃子もね」
「うん。二人で半分ずつ」
店の前を離れてから、上着に腕を通した。凪は先にジャケットを着終えて、俺が袖口から手を出すのを待っていた。
その手へ、凪の指が触れた。
顔を向けると、彼女は何も言わず、少しだけ手を開いた。俺はそこへ指を重ねた。まだ箸やれんげの硬さを覚えている手に、柔らかいものが収まった。
「お腹いっぱいだね」
「うん」
それだけ言って、しばらく歩いた。
行きに渡った横断歩道まで戻ってきても、信号はまだ青だった。俺たちは急がず、並んだまま渡った。凪の手が、歩くたびに少し前へ、少し後ろへ動いた。
部屋へ帰れば、あの黒い鞄がある。二つのカップを流しへ置いたままだ。凪は靴を脱いで、さっき座っていた椅子へ、もう一度座るのだろう。
つないだ指に少し力を込めると、隣から同じくらいの力が返ってきた。
まだ少し喉が渇いていた。
口の中に残った味を、俺は舌でそっと確かめた。
第十六話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「助手席」です。




