3-4 声のするほう
約束した土曜日が来ました。
『起きた』
土曜日の朝、凪から届いたメッセージを、洗面台の前で読んだ。
『おはよう』
『ちゃんと起きたよ』
『えらい。あとは電車を二回乗り換えれば着くね』
『起きるので一回頑張ったから、今日は三回頑張るんだね』
歯ブラシをくわえたまま笑って、画面に水滴が落ちないよう、スマホを棚へ置いた。
七時半を少し過ぎていた。
凪が着くのは昼ごろだ。まだ時間はあった。
昨夜のうちに部屋を片づけ、泊まるための布団も出した。洗面所には新しいタオルを一枚置いた。
机の上だけ、何度片づけても気になった。
読みかけの本を棚へ戻し、また出した。どこまで読んだか分からなくなるので、挟んでいたレシートはそのままにした。
九時を少し回ってから、次のメッセージが来た。
『乗った』
『寝過ごさないようにね』
『まだ寝ないよ。本読む』
俺は凪が送ってくれた経路を開いた。
途中で乗り換えて、十二時すぎに着く。
一週間前に見た駅の名前を、もう一度、順番に追った。
『乗り換えできた』
その報告が届くころには、俺も出かける支度を終えていた。
『順調』
『初めて見る駅ばっかりになってきた』
少しして、車窓の写真が送られてきた。
線路沿いの木々は、緑と黄色が混ざっていた。ガラスに、凪の指とスマホの端が薄く映っている。
いつもなら一緒にゲームを始めるまでの時間に、凪は知らない町をいくつも通っていた。
俺は車の鍵を取った。
駅に着いたのは、電車が来る二十分前だった。
車を駐車場へ入れてから、改札へ向かう。
外では風があったが、駅の中に入ると、上着の下が少し暑かった。自動ドアが開くたびに、乾いた落ち葉が一枚、床の上を動いた。
改札の外でスマホを出す。
『着いた。改札出たところにいる』
『早いね』
『俺は十分だから』
『こっちは家出てから、もう三時間くらい経った』
凪のほうは、まだいくつか駅が残っていた。
『あと少しだね』
『うん。茶色の上着で、黒い鞄持ってるよ』
『俺は紺の上着』
送信してから、改札から出てくる人を見た。
紺の上着は、俺以外にもいた。
目印に何か足そうとして、自分の服を見下ろした。これといって特徴のあるものは着ていなかった。
『柱の横。時計があるほう』
それだけ追加して、スマホをポケットへ入れた。
少しすると、また取り出した。
まだ新しいメッセージはなかった。
人と会うことが苦手なわけではない。
待っている間に何をしていればいいか分からなくなるのは、久しぶりだった。
到着を知らせる放送が流れ、しばらくして階段のほうから人が増えた。
茶色い服と、黒い鞄を探した。
スマホが震えた。
『着いた』
返事を打とうとしたとき、斜め前から名前を呼ばれた。
「湊?」
知っている声だった。
顔を上げると、薄茶色のジャケットを着た人が立っていた。肩に掛けた黒い鞄の持ち手を、片手で握っている。
目が合った。
「凪?」
「うん」
凪は笑った。それから少し困ったように、俺の顔を見た。
「……こんにちは、でいいのかな」
「おはようは、もう言ったしね」
「初めましても変じゃない?」
「昨日も喋ってたからな」
「でも、初めてだよ」
言われて、また少し黙った。
改札を抜けた人が、俺たちの横を通っていく。
俺はスマホをポケットへ戻した。
「おつかれ。遠かったでしょ」
「うん。それがいい」
「何が?」
「おつかれ、が」
凪の指が、鞄の持ち手から少し緩んだ。
「最後の二駅くらいが、すごい長かった」
「そこまでは?」
「本読んでたから平気。でも、もう着くと思ったら読めなくなった」
「俺も、着くまでの二十分が長かった」
「そんなに前からいたの?」
「道が混んでたら嫌だなと思って」
「十分の道なのに?」
「そうなんだよ。思ったより心配性だった」
凪が笑った。
笑い始める前に、短く息を吸った。
それを聞きながら、頬が上がるところを初めて見た。
「鞄、持とうか」
「ありがとう。ちょっと重いよ」
受け取ってみると、たしかに重かった。
「一泊だよね」
「うん。本が二冊入ってる」
「読むほう決められなかった?」
「そう。分かるじゃん」
「俺もたまにやる」
凪は空いた肩を一度回した。
俺が歩き始めると、すぐ隣に並んだ。駐車場へ続く自動ドアの前で風が入り、凪がジャケットの襟に触れた。
「こっちも、朝は寒かった?」
「うん。昼はそうでもないけど」
「電車の中、暑くて脱いでた」
「この時期、何着ればいいか分かんないよな」
そんな話をしながら、車まで歩いた。
凪の歩幅に合わせて少しゆっくり歩くと、鞄が脚に当たらなくなった。
助手席のドアを開ける。
「どうぞ」
「お邪魔します」
凪が座ったのを見て、俺は鞄を後部座席に置いた。それから運転席へ回った。
シートベルトを引く音が二回した。
凪は膝に置いたスマホの画面を消した。俺も地図を開こうとして、必要がないことに気づいた。
家までの道なら分かる。
「緊張してる?」
凪が聞いた。
「少し」
「湊でも?」
「俺でも。凪は?」
「してる。さっきまで、何話そうって考えてた」
「月の話は?」
「帰れなくなるから、やめたんでしょ」
「覚えてたか」
「覚えてるよ」
凪が笑ったので、俺も笑った。
エンジンをかけて、駐車場を出た。
道沿いの街路樹には、まだ青い葉が多かった。日なたへ出ると、フロントガラス越しの日差しが手の甲に当たった。
凪は窓の外を見ていた。
「乗り換え、けっこう歩いたんだよね」
「そうだったんだ」
「端のホームから、反対の端。乗り換え一回って聞くと、もっとすぐだと思ってた」
「回数には距離が入ってないからな」
「一回の中身が濃かった」
「本、二冊持ってるしね」
「途中で一冊置いていこうかと思った」
「それは持ってきてあげて」
「持ってきたよ。二冊とも」
赤信号で停まって、隣を見た。
凪は笑いながら、俺を見た。
目が合う。
意識して、俺も笑った。
「湊?何?」
「笑ってるとこ見たかったんだっけ」
「そうだったね」
「見られると、ちょっと恥ずかしいんだけど」
凪が口元に手をやった。
俺も前へ向き直った。
少しして、隣から小さく笑う声がした。
部屋の鍵を開けると、凪は玄関で靴を脱いだ。
「お邪魔します」
今度は、さっきよりきちんとした声だった。
「どうぞ」
凪は靴の向きを揃えてから、俺の後についてきた。
鞄を床へ置く場所を示し、洗面所を案内する。凪が手を洗っている間に、台所でお湯を沸かした。
「お茶でいい?」
「うん。あったかいのがいい」
棚からマグカップを二つ出す。
背後で、凪の足音が止まった。
「いつも、ここにいるの?」
振り向くと、凪は机の前に立っていた。
「そう。だいたいその椅子」
「あ、ヘッドセット」
俺が頷くと、凪は机の端に置いたそれを見たまま、少し笑った。
「今日は使わないんだね」
「うん」
「窓、思ったより近い」
「コードが届く範囲だから」
凪はカーテンの開いた窓に近づいた。
「ほんとに、建物だ」
「建物しか見えないって言ったでしょ」
「もうちょっと空があるかと思ってた」
「上のほうなら、少しあるよ」
凪が首を傾けて、向かいの屋根の上を見た。
俺はその横顔を見てから、沸いた湯をカップへ注いだ。
「どうぞ」
小さなテーブルにお茶を置くと、凪は窓から戻ってきた。
「ありがとう」
ジャケットを脱いで椅子の背に掛け、両手でカップを包む。
俺も向かいに座った。
しばらく、どちらもお茶を飲んでいた。
凪は一口飲むたびにカップを少し離し、湯気の向こうから部屋の中を見ていた。
「そんなに珍しいもの、ないと思うけど」
「あるよ。全部初めて見るし」
「まあ、そうか」
「あの椅子で、宇宙止めてたんだね」
「止めてたの、凪のほうでしょ」
「そうだった」
凪が笑って、カップをテーブルに置いた。
俺も笑った。
凪が息を整えるのを待ちながら、椅子の背にもたれた。
窓の外で車が通った。いつもの部屋の、いつもの音だった。
「なんかさ」
凪が言った。
「駅に着く前、もっと困ると思ってた」
「何に?」
「会ったら、話せなくなるとか。電話だと平気だったのに、顔見たら全然違うとか」
「少しは違った?」
「顔は見ちゃう」
そう言って、凪は俺を見た。
俺も目を合わせた。
今度は、先に凪が笑った。
「でも、今、普通に喋ってる」
「うん」
「さっきまで何話そうって考えてたの、もう忘れてた」
俺はカップを持ち上げた。
凪が来たら、退屈させないように何かしようと思っていた。ゲームをするならどれがいいか、出かけるならどこがいいか、昨日はいくつか考えた。
そのどれも、まだ始めていなかった。
「俺も、忘れてた」
凪は頷き、お茶を飲んだ。
会話が途切れてからも、そのまま座っていた。
凪がカップを持ち直し、両手を添えた。俺はテーブルの端に置いたティッシュの箱を、二人の間へ少し寄せた。
足を少し伸ばすと、凪も椅子に深く座り直した。
「湊」
呼ばれて、顔を上げた。
凪が、空になったカップを両手で持っていた。
「お腹、空かない?」
時計を見ると、一時に近かった。
「空いた。朝、何か食べた?」
「パン一個。電車で食べようと思って買ったのに、乗る前に食べちゃった」
「それは腹減るね」
「うん。会うまでは忘れてた」
俺は笑って立ち上がった。
「何食べたい?」
返事が聞こえてくるのを待ちながら、テーブルに並んだ二つのカップを持ち上げた。
第十五話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「ラーメンのスープ」です。




