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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
恋愛成立・最盛期
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14/48

3-3 午前三時の宇宙

窓を開けておくには、少し肌寒い季節になりました。

「これ、月」


凪から送られてきた写真を、俺は二本の指で広げた。


ほとんど黒い画面の端に、白い丸が一つあった。


「言われなかったら分からなかった」


「肉眼だと、もうちょっときれいなんだけど」


「拡大すると、さらに分からなくなるな」


「戻して。小さいままのほうがまだ月だから」


凪が笑った。


十月も終わりに近づいていた。


昼間は薄い上着で足りるのに、夜、机に向かっていると足が冷えた。さっき履いた靴下の爪先が、スリッパの中で少し余っていた。


ゲームを終えてからも、俺たちは通話を続けていた。翌日は二人とも休みだった。


凪は飲み物を取りに立ったとき、窓の外の月に気づいたらしい。


「湊のところからも見える?」


「ちょっと待って」


ヘッドセットをつけたまま立ち上がり、カーテンを開けた。窓も少し引くと、涼しい空気が袖口から入った。


向かいの建物の上に、細く空が見えた。月はなかった。


「建物しか見えない」


「そっか。じゃあ、私の写真で我慢して」


「白い丸で」


「月だって言ってるでしょ」


窓を閉め、椅子へ戻って、もう一度写真を開いた。


丸の下には、窓枠が斜めに写り込んでいた。凪がどんな角度でスマホを持っていたのか、それで少し想像できた。


「これ、ほんのちょっと前の月なんだよな」


「今撮ったよ?」


「いや、送るまでの時間じゃなくて。月からここまで、光が届くのに一秒ちょっとかかるから」


「あ、見る前にもう遅れてるのか」


「そう。今見えてるのは、一秒ちょっと前の月」


「じゃあ、私の写真だと、もっと前になるね」


「撮って、送って、俺が開いてるしね」


凪は少し黙った。


向こうで、窓を閉める音がした。


「なんか、遠いものほど昔になるんだね」


「見える姿はね。星だと何年も前だったりする」


「それが何光年とか?」


「うん。光が一年で進む距離が一光年」


「光年って、年なのに距離なんだ」


「紛らわしいよな」


「じゃあ、十光年先から地球を見たら、十年前の地球が見える?」


「そこに観測してる人がいるならね」


「十年前の湊も?」


「人まで見分けられるような、ものすごい道具があれば」


「まだ学生?」


「そうだね」


「そっちに連絡したら、宿題してる湊が出るの?」


「連絡が届くのにも十年かかるから、出るのは今より十年後の俺になる」


「あ、そうか。見えてる時代に連絡できるわけじゃないんだ」


「昔の俺を見ながら、先の俺に話しかけることになる」


「ややこしいな。宿題終わった? って聞かれても困るじゃん」


「もう学校ごと卒業してる」


「返事が来るまでに、こっちも何聞いたか忘れそう」


「送信履歴は残しておこう」


「すごい長い既読待ち」


俺は笑いながら、膝の上からずり落ちかけたスマホを持ち直した。


「宇宙規模の通話は大変だな」


「月くらいならまだいける?」


「光や電波が行って帰るだけで、三秒近くかかるけど」


「三秒か」


凪が、試すように黙った。


俺も待った。


一秒ずつ数え始めたところで、凪が口を開いた。


「今、何か言いたくならなかった?」


「なった」


「聞こえてる? って聞きたくなる」


「こっちが何か言うと、ちょうど向こうの返事とかぶりそう」


「ゲームは無理だね」


「凪が今って言ったころには、俺もう落ちてるかもしれない」


「じゃあ、一緒にやるなら釣りとかにしよう」


「落ちる場所がないやつ?」


「湊なら水に落ちるかも」


「信用がない」


「探索王だから」


まだそれを覚えていたらしい。


俺が何も言わずにいると、凪は先に笑い出した。


「でも、同じ三秒でもさ」


笑い終わってから、凪が続けた。


「月にいるって分かってたら待つと思う。今ここで三秒黙られるほうが、何か気になる」


「返ってくるはずの時間に返ってこないから?」


「うん。何か変なこと言ったかなとか」


「俺、結構黙ってるときあるよね」


「ある」


「そのときは?」


「何考えてるんだろうって思う。たまに回線止まったのかもって」


「どっちか分からないのか」


「分かんない。考えるとき、考え中って言って」


「考え中って言うために、一回考えるの止めることになる」


「面倒な彼氏だな」


言い終わる前に、凪の声が笑いに変わった。


俺も笑った。


「じゃあ、考え終わってから、今考えてたって言う」


「遅いけど、それでいい」


「今、考えてた」


「それは知ってる。ずっとその話してるから」


机の上のコップを持ち上げた。残っていた水は、もう部屋と同じ温度になっていた。


凪が椅子に座り直す音がする。


「でも、湊が考えてる時間って、外から見ると止まってるみたいなんだろうね」


「中では動いてるんだけどな」


「じゃあ逆に、全部止まったらどうなるの?」


「全部?」


「時計も、人も、宇宙も。一秒だけ止まって、また動くの」


俺はコップを持ったまま考えた。


「記憶も何も増えないなら、止まったことには気づけないんじゃない?」


「止まる前の続きになるだけか」


「そうだと思う」


「一秒じゃなくて、一年でも?」


「その間、何も変わらないっていう仮定なら、こっちからは区別できないな」


「じゃあ今、めちゃくちゃ待たされてたかもしれないね」


「俺たちは待った感じもしないけど」


「止めた人は、何してたんだろう」


「止めた人も、その宇宙の中なら止まるんじゃない?」


「自分まで止まるの、不便すぎるでしょ」


「全部って言ったの凪だから」


「じゃあ、その人は外にいることにする」


「宇宙の外まで作ったな」


「止める係だから、外にいてもらわないと困る」


俺は水を一口飲んだ。


「で、外で何してるの?」


「トイレじゃない?」


変なところに入った。


コップを置き、マイクから顔を背ける。


「大丈夫?」


「うん。ちょっとむせた」


「宇宙の話してたのに、ごめん」


「急に生活の話するから」


凪も笑っていた。


咳が収まるまで待ってから、俺はヘッドセットの位置を直した。


「そのために全部止める必要ある?」


「大事なとこ見逃したくなかったのかもしれない」


「俺たちの通話を?」


「どうだろ。すごい小さい画面の隅に映ってるかも」


「何時間も喋ってるだけだぞ」


「たまにむせる」


「見どころそこ?」


笑ったあと、しばらく二人とも喋らなかった。


机の下で足を伸ばすと、爪先が壁に触れた。外を車が一台通り、その音が遠くなってから、凪の側で小さく何かが鳴った。


「今の音、何?」


「お菓子の袋。うるさい?」


「ううん」


「湊は食べないの?」


「今、手元にない」


「取りに行ってきていいよ。宇宙止めとくから」


「トイレの次はお菓子か」


凪がまた笑った。


俺は立ち上がり、台所へ行った。


棚には、開けかけのクラッカーがあった。袋を持って戻ると、凪はさっき送った月の写真を見ていたらしい。


「やっぱり、あんまり月に見えないね」


「撮った人も言い始めた」


「湊、今度はちゃんと撮って送ってよ」


「さっき建物しか見えなかったんだけど」


「月が見える日でいいから」


「了解」


椅子に座ってクラッカーを一枚かじった。


凪も何かを食べていた。どちらかが話そうとすると、どちらかがまだ口を動かしていた。


そのたびに少し待った。


三秒くらい、あったかもしれない。


今度は数えなかった。


「今、何時?」


凪に聞かれて、画面の隅を見た。


「三時十二分」


「え?」


「午前三時十二分」


「そんなに経ってた?」


「経ってたらしい」


自分で口にして、ようやく遅い時間だと思った。


ゲームはとっくに終わっていた。コントローラーは机の端に置かれ、パソコンには通話の画面だけが残っていた。


何かを決めようとしていたわけでも、答えを出そうとしていたわけでもない。


月の写真から始まった話を、まだ二人で続けていた。


「寝たほうがよくない?」


「そうだね」


「明日、何時に起きる?」


「起きたとき」


「休日の答えだ」


凪が小さくあくびをした。


つられて俺も口を開けた。さっきまで眠気なんてなかったはずなのに、時計を見てから急に目が重くなった。


それでも、通話を切ろうとはまだ言わなかった。


「ねえ、湊」


「うん?」


「さっき笑ってたとこ、見たかった」


「むせてたところ?」


「その前。すごい笑ってたから」


俺は、画面に出ている凪の名前を見た。


笑い始める前に、短く息を吸うこと。声がなくなるほど笑ったあと、「待って」と言うこと。そんなことは、もう知っていた。


目の前で笑っていたら、俺はどこを見るのだろうと思った。


「俺も、凪が笑ってるとこ見たいよ」


「じゃあ、会おうよ」


凪は、いつもの調子で言った。


通話しよう、と言うときに少し似ていた。


俺はカレンダーを開いた。


「来週、いつ空いてる?」


向こうで、お菓子の袋の音が止まった。


「ほんとに?」


「会おうって言ったの凪でしょ」


「言ったけど。湊がすぐ予定聞くと思わなかった」


「俺も会いたいから」


凪の返事まで、少し間があった。


俺は待った。


「土曜なら。日曜も休み」


「俺も、その二日なら空いてる」


「じゃあ、湊のほうに行ってもいい?」


「うん。どれくらいかかるんだろ」


住んでいる地域は互いに聞いていた。けれど、実際に行く道順を調べたことはなかった。


「最寄り駅、どこ?」


俺が尋ねると、凪は「住所送るね」と言った。


通話の横にメッセージが届く。


知らない町の名前と、その先に続く数字を目で追った。地図に入力し、表示された場所を拡大する。さっき月を撮っていた窓が、地図のどこにあるのか、初めて分かった。


俺も自分の住所を打った。建物の名前と部屋番号まで入れて、送り返す。


「俺はここ」


「見てる。駅、近いんだね」


「車なら十分くらい。着くときは迎えに行くよ」


「うん」


凪も地図を開いているらしく、向こうで小さくクリックする音がした。


俺は経路の画面へ切り替えた。


「凪の駅からだと、乗り換え一回。三時間くらいだって」


「家からだと、三時間半くらいかな」


「九時ごろの電車なら、昼には着けそうだね」


「朝、ちゃんと起きないと」


「今の俺たちには難しい話だな」


凪が笑った。


画面に並んだ駅の名前を、順番に追った。凪がその電車に乗るところを想像した。いつも机の前にいる声が、いくつもの駅を通って、こちらへ近づいてくる。


「帰りも三時間か」


俺が言うと、凪は少し間を置いた。


「泊まっていってもいい?」


「うん。いいよ」


「じゃあ、日曜までいる」


「布団、出しておく」


「急に、行くんだって感じしてきた」


俺は自分の部屋を見回した。


椅子の背に掛けた上着と、机の端の空き袋が目に入った。土曜日までに片づけようと思った。


「駅から家まで十分なら、そこは湊に任せる」


「了解。改札出たとこで待ってるよ」


「私は電車に乗るところまで頑張る」


「乗り換えもあるからね」


「じゃあ、二回頑張る」


二人で笑った。


これまでは、通話の招待を送ればよかった。


会おうと言うと、駅の名前や、家を出る時間や、一泊分の荷物が必要になった。凪はもう、何時に起きれば間に合うかを考えていた。


「細かい電車の時間、起きてから送るね」


「うん。帰りのも見とこう」


予定のない土曜日と日曜日に、凪の名前を入れた。


「会ったら、変な感じするかな」


凪が聞いた。


「最初はするかもね」


「何話せばいいんだろ」


「今それ心配する?」


「だって、今は顔見てないし」


俺は笑った。


つられて凪も笑ったけれど、さっきより声が少し小さかった。


「分かんなくなったら、月の話でもする?」


「それだと、日曜の帰りの電車に間に合わなくなりそう」


「じゃあ別の話にしよう」


「うん。別の、どうでもいい話」


凪がもう一度あくびをした。


今度こそ、おやすみを言った。


通話が切れ、ヘッドセットを外すと、耳のまわりが少し涼しかった。


スマホで、さっきの経路をもう一度開いた。


凪の町から俺の町まで、線がつながっていた。所要時間の数字を見てから、カレンダーへ戻る。


凪の名前を入れた日まで、あと何日あるのか数えた。

第十四話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「声のするほう」です。

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