3-3 午前三時の宇宙
窓を開けておくには、少し肌寒い季節になりました。
「これ、月」
凪から送られてきた写真を、俺は二本の指で広げた。
ほとんど黒い画面の端に、白い丸が一つあった。
「言われなかったら分からなかった」
「肉眼だと、もうちょっときれいなんだけど」
「拡大すると、さらに分からなくなるな」
「戻して。小さいままのほうがまだ月だから」
凪が笑った。
十月も終わりに近づいていた。
昼間は薄い上着で足りるのに、夜、机に向かっていると足が冷えた。さっき履いた靴下の爪先が、スリッパの中で少し余っていた。
ゲームを終えてからも、俺たちは通話を続けていた。翌日は二人とも休みだった。
凪は飲み物を取りに立ったとき、窓の外の月に気づいたらしい。
「湊のところからも見える?」
「ちょっと待って」
ヘッドセットをつけたまま立ち上がり、カーテンを開けた。窓も少し引くと、涼しい空気が袖口から入った。
向かいの建物の上に、細く空が見えた。月はなかった。
「建物しか見えない」
「そっか。じゃあ、私の写真で我慢して」
「白い丸で」
「月だって言ってるでしょ」
窓を閉め、椅子へ戻って、もう一度写真を開いた。
丸の下には、窓枠が斜めに写り込んでいた。凪がどんな角度でスマホを持っていたのか、それで少し想像できた。
「これ、ほんのちょっと前の月なんだよな」
「今撮ったよ?」
「いや、送るまでの時間じゃなくて。月からここまで、光が届くのに一秒ちょっとかかるから」
「あ、見る前にもう遅れてるのか」
「そう。今見えてるのは、一秒ちょっと前の月」
「じゃあ、私の写真だと、もっと前になるね」
「撮って、送って、俺が開いてるしね」
凪は少し黙った。
向こうで、窓を閉める音がした。
「なんか、遠いものほど昔になるんだね」
「見える姿はね。星だと何年も前だったりする」
「それが何光年とか?」
「うん。光が一年で進む距離が一光年」
「光年って、年なのに距離なんだ」
「紛らわしいよな」
「じゃあ、十光年先から地球を見たら、十年前の地球が見える?」
「そこに観測してる人がいるならね」
「十年前の湊も?」
「人まで見分けられるような、ものすごい道具があれば」
「まだ学生?」
「そうだね」
「そっちに連絡したら、宿題してる湊が出るの?」
「連絡が届くのにも十年かかるから、出るのは今より十年後の俺になる」
「あ、そうか。見えてる時代に連絡できるわけじゃないんだ」
「昔の俺を見ながら、先の俺に話しかけることになる」
「ややこしいな。宿題終わった? って聞かれても困るじゃん」
「もう学校ごと卒業してる」
「返事が来るまでに、こっちも何聞いたか忘れそう」
「送信履歴は残しておこう」
「すごい長い既読待ち」
俺は笑いながら、膝の上からずり落ちかけたスマホを持ち直した。
「宇宙規模の通話は大変だな」
「月くらいならまだいける?」
「光や電波が行って帰るだけで、三秒近くかかるけど」
「三秒か」
凪が、試すように黙った。
俺も待った。
一秒ずつ数え始めたところで、凪が口を開いた。
「今、何か言いたくならなかった?」
「なった」
「聞こえてる? って聞きたくなる」
「こっちが何か言うと、ちょうど向こうの返事とかぶりそう」
「ゲームは無理だね」
「凪が今って言ったころには、俺もう落ちてるかもしれない」
「じゃあ、一緒にやるなら釣りとかにしよう」
「落ちる場所がないやつ?」
「湊なら水に落ちるかも」
「信用がない」
「探索王だから」
まだそれを覚えていたらしい。
俺が何も言わずにいると、凪は先に笑い出した。
「でも、同じ三秒でもさ」
笑い終わってから、凪が続けた。
「月にいるって分かってたら待つと思う。今ここで三秒黙られるほうが、何か気になる」
「返ってくるはずの時間に返ってこないから?」
「うん。何か変なこと言ったかなとか」
「俺、結構黙ってるときあるよね」
「ある」
「そのときは?」
「何考えてるんだろうって思う。たまに回線止まったのかもって」
「どっちか分からないのか」
「分かんない。考えるとき、考え中って言って」
「考え中って言うために、一回考えるの止めることになる」
「面倒な彼氏だな」
言い終わる前に、凪の声が笑いに変わった。
俺も笑った。
「じゃあ、考え終わってから、今考えてたって言う」
「遅いけど、それでいい」
「今、考えてた」
「それは知ってる。ずっとその話してるから」
机の上のコップを持ち上げた。残っていた水は、もう部屋と同じ温度になっていた。
凪が椅子に座り直す音がする。
「でも、湊が考えてる時間って、外から見ると止まってるみたいなんだろうね」
「中では動いてるんだけどな」
「じゃあ逆に、全部止まったらどうなるの?」
「全部?」
「時計も、人も、宇宙も。一秒だけ止まって、また動くの」
俺はコップを持ったまま考えた。
「記憶も何も増えないなら、止まったことには気づけないんじゃない?」
「止まる前の続きになるだけか」
「そうだと思う」
「一秒じゃなくて、一年でも?」
「その間、何も変わらないっていう仮定なら、こっちからは区別できないな」
「じゃあ今、めちゃくちゃ待たされてたかもしれないね」
「俺たちは待った感じもしないけど」
「止めた人は、何してたんだろう」
「止めた人も、その宇宙の中なら止まるんじゃない?」
「自分まで止まるの、不便すぎるでしょ」
「全部って言ったの凪だから」
「じゃあ、その人は外にいることにする」
「宇宙の外まで作ったな」
「止める係だから、外にいてもらわないと困る」
俺は水を一口飲んだ。
「で、外で何してるの?」
「トイレじゃない?」
変なところに入った。
コップを置き、マイクから顔を背ける。
「大丈夫?」
「うん。ちょっとむせた」
「宇宙の話してたのに、ごめん」
「急に生活の話するから」
凪も笑っていた。
咳が収まるまで待ってから、俺はヘッドセットの位置を直した。
「そのために全部止める必要ある?」
「大事なとこ見逃したくなかったのかもしれない」
「俺たちの通話を?」
「どうだろ。すごい小さい画面の隅に映ってるかも」
「何時間も喋ってるだけだぞ」
「たまにむせる」
「見どころそこ?」
笑ったあと、しばらく二人とも喋らなかった。
机の下で足を伸ばすと、爪先が壁に触れた。外を車が一台通り、その音が遠くなってから、凪の側で小さく何かが鳴った。
「今の音、何?」
「お菓子の袋。うるさい?」
「ううん」
「湊は食べないの?」
「今、手元にない」
「取りに行ってきていいよ。宇宙止めとくから」
「トイレの次はお菓子か」
凪がまた笑った。
俺は立ち上がり、台所へ行った。
棚には、開けかけのクラッカーがあった。袋を持って戻ると、凪はさっき送った月の写真を見ていたらしい。
「やっぱり、あんまり月に見えないね」
「撮った人も言い始めた」
「湊、今度はちゃんと撮って送ってよ」
「さっき建物しか見えなかったんだけど」
「月が見える日でいいから」
「了解」
椅子に座ってクラッカーを一枚かじった。
凪も何かを食べていた。どちらかが話そうとすると、どちらかがまだ口を動かしていた。
そのたびに少し待った。
三秒くらい、あったかもしれない。
今度は数えなかった。
「今、何時?」
凪に聞かれて、画面の隅を見た。
「三時十二分」
「え?」
「午前三時十二分」
「そんなに経ってた?」
「経ってたらしい」
自分で口にして、ようやく遅い時間だと思った。
ゲームはとっくに終わっていた。コントローラーは机の端に置かれ、パソコンには通話の画面だけが残っていた。
何かを決めようとしていたわけでも、答えを出そうとしていたわけでもない。
月の写真から始まった話を、まだ二人で続けていた。
「寝たほうがよくない?」
「そうだね」
「明日、何時に起きる?」
「起きたとき」
「休日の答えだ」
凪が小さくあくびをした。
つられて俺も口を開けた。さっきまで眠気なんてなかったはずなのに、時計を見てから急に目が重くなった。
それでも、通話を切ろうとはまだ言わなかった。
「ねえ、湊」
「うん?」
「さっき笑ってたとこ、見たかった」
「むせてたところ?」
「その前。すごい笑ってたから」
俺は、画面に出ている凪の名前を見た。
笑い始める前に、短く息を吸うこと。声がなくなるほど笑ったあと、「待って」と言うこと。そんなことは、もう知っていた。
目の前で笑っていたら、俺はどこを見るのだろうと思った。
「俺も、凪が笑ってるとこ見たいよ」
「じゃあ、会おうよ」
凪は、いつもの調子で言った。
通話しよう、と言うときに少し似ていた。
俺はカレンダーを開いた。
「来週、いつ空いてる?」
向こうで、お菓子の袋の音が止まった。
「ほんとに?」
「会おうって言ったの凪でしょ」
「言ったけど。湊がすぐ予定聞くと思わなかった」
「俺も会いたいから」
凪の返事まで、少し間があった。
俺は待った。
「土曜なら。日曜も休み」
「俺も、その二日なら空いてる」
「じゃあ、湊のほうに行ってもいい?」
「うん。どれくらいかかるんだろ」
住んでいる地域は互いに聞いていた。けれど、実際に行く道順を調べたことはなかった。
「最寄り駅、どこ?」
俺が尋ねると、凪は「住所送るね」と言った。
通話の横にメッセージが届く。
知らない町の名前と、その先に続く数字を目で追った。地図に入力し、表示された場所を拡大する。さっき月を撮っていた窓が、地図のどこにあるのか、初めて分かった。
俺も自分の住所を打った。建物の名前と部屋番号まで入れて、送り返す。
「俺はここ」
「見てる。駅、近いんだね」
「車なら十分くらい。着くときは迎えに行くよ」
「うん」
凪も地図を開いているらしく、向こうで小さくクリックする音がした。
俺は経路の画面へ切り替えた。
「凪の駅からだと、乗り換え一回。三時間くらいだって」
「家からだと、三時間半くらいかな」
「九時ごろの電車なら、昼には着けそうだね」
「朝、ちゃんと起きないと」
「今の俺たちには難しい話だな」
凪が笑った。
画面に並んだ駅の名前を、順番に追った。凪がその電車に乗るところを想像した。いつも机の前にいる声が、いくつもの駅を通って、こちらへ近づいてくる。
「帰りも三時間か」
俺が言うと、凪は少し間を置いた。
「泊まっていってもいい?」
「うん。いいよ」
「じゃあ、日曜までいる」
「布団、出しておく」
「急に、行くんだって感じしてきた」
俺は自分の部屋を見回した。
椅子の背に掛けた上着と、机の端の空き袋が目に入った。土曜日までに片づけようと思った。
「駅から家まで十分なら、そこは湊に任せる」
「了解。改札出たとこで待ってるよ」
「私は電車に乗るところまで頑張る」
「乗り換えもあるからね」
「じゃあ、二回頑張る」
二人で笑った。
これまでは、通話の招待を送ればよかった。
会おうと言うと、駅の名前や、家を出る時間や、一泊分の荷物が必要になった。凪はもう、何時に起きれば間に合うかを考えていた。
「細かい電車の時間、起きてから送るね」
「うん。帰りのも見とこう」
予定のない土曜日と日曜日に、凪の名前を入れた。
「会ったら、変な感じするかな」
凪が聞いた。
「最初はするかもね」
「何話せばいいんだろ」
「今それ心配する?」
「だって、今は顔見てないし」
俺は笑った。
つられて凪も笑ったけれど、さっきより声が少し小さかった。
「分かんなくなったら、月の話でもする?」
「それだと、日曜の帰りの電車に間に合わなくなりそう」
「じゃあ別の話にしよう」
「うん。別の、どうでもいい話」
凪がもう一度あくびをした。
今度こそ、おやすみを言った。
通話が切れ、ヘッドセットを外すと、耳のまわりが少し涼しかった。
スマホで、さっきの経路をもう一度開いた。
凪の町から俺の町まで、線がつながっていた。所要時間の数字を見てから、カレンダーへ戻る。
凪の名前を入れた日まで、あと何日あるのか数えた。
第十四話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「声のするほう」です。




