3-2 頭のギア
今日は、湊の平凡な一日から。
帰りの電車で、イヤホンをつけた。
何も再生しないまま、ドアの横に立つ。窓には、少しだけ顎を引いた自分が映っていた。
嫌なことがあった日ではない。
昼休みには同僚と映画の話をしたし、午後の仕事も大きな問題なく終わった。帰り際には、明日の昼食を買い忘れないようにと声までかけてもらった。
それでも、家に着いたら、しばらく誰とも話さずにいたかった。
いつものことだった。
昼休み、最近見た映画の話をすると、向かいの同僚がスマホでその題名を検索した。
「あ、それ予告見た。面白かった?」
「面白かったよ。最後まで見ると、最初のほうに出てきた何でもない場面の意味が変わるんだけど」
「何回か見るやつ?」
「二回目も面白いと思う。同じ映像を見てるはずなのに、一回目より面白かったりするのって――」
そこで同僚が、画面に表示された上映時間を指でなぞった。
「二時間か。俺、途中で寝そうだな」
「眠いときには向いてないかも」
「昨日、洗濯終わるの待ってたら寝るの遅くなっちゃって」
「洗濯機に残業させられてる」
「しかも終わってから俺の仕事始まるからね」
二人で笑った。
映画の話はそこで終わり、夜中に干す洗濯物の話になった。
言いかけたことを、無理に戻す気にはならなかった。同僚は今夜見るものを探していて、俺は見終わってから考えたことを話しかけていた。それだけのことだった。
午後には電話を何本かかけた。
急いでいる相手には要点から話し、初めて聞く相手には順番を変えた。確認したいことが違うと分かれば、途中までの説明を置いて、聞かれたほうへ戻った。
どの会話も、特に難しくはなかった。
家に帰り、鞄を置いて、着替えた。
買ってきた弁当を温めているあいだも、テレビはつけなかった。冷蔵庫の低い音と、電子レンジの回る音だけがしていた。
スマホが震えたのは、食べ終わった容器を片づけているときだった。
『今日、ゲームする?』
凪だった。
『ちょっと疲れたから、今日は休もうかな』
『おつかれ。声は聞きたいけど、通話もきつい?』
画面を見ながら、空いたほうの手で蛇口を止めた。
ついさっきまで、誰とも話さずにいたかった。
けれど凪の声を思い浮かべても、断る理由にはならなかった。
『通話はできるよ』
『ほんと?』
『風呂入ってからでよければ』
『待ってる。洗濯物あと半分あるから』
今日は洗濯の話をよく聞く日だった。
風呂から上がり、髪を乾かしてから通話をつないだ。
凪はまだ洗濯物と向き合っていた。
「進んだ?」
「半分」
「風呂入る前も半分って言ってなかった?」
「途中でスマホ見てた」
「そっちが本業になってるな」
「今、湊と話すのが本業」
「洗濯物がずっと副業のままだ」
凪が笑った。
俺は机に頬杖をついた。画面には、通話中の凪の名前が出ていた。
向こうで布が擦れる。
「今日、忙しかった?」
「普通。なんか、帰りにどっと来た」
「そっか」
凪はそこで話を止めた。
何があったのか、どれくらい疲れたのか。それ以上は聞かれなかった。
俺は頬杖を外し、椅子にもたれた。風呂から上がったばかりの足に、床が冷たかった。
しばらくして、凪が小さく「あ」と言った。
「どうした?」
「靴下、片方しかない」
「洗濯機の中じゃない?」
「さっき見たとき、なかったんだよね」
「もう一回見たらあるかもよ」
「二回目だけ出てくる仕組み?」
「一回目に見落としてる仕組み」
「私のせいだった」
俺は笑って、昼休みの映画を思い出した。
「同じものを二回見ても、二回目のほうが分かることってあるよな」
「靴下の話?」
「今、映画の話になった」
「急に扱うもの大きくなったね」
そう言いながら、凪は続きを待っていた。
「この前見た映画、結末を知ってからもう一回見たくなったんだよ。映像自体は一回目と同じなのに、二回目のほうが面白いこともあるじゃん」
「あるね」
「新しい情報はもうないはずなのにって……いや、見落としてたものはあるか」
「靴下と一緒だね」
「うん。画面にあるものは同じでも、俺が受け取るものは違う」
「靴下も、二回目で私に受け取ってもらえるかもしれない」
「早く迎えに行ってあげなよ」
「あとで行く」
凪がタオルを広げる音がした。
昼休みに飲み込んだ話の続きは、俺が思っていたのとは少し違うほうへ進んでいた。
「でも、全部覚えてても、もう一回見たいものってあるよね」
凪が言った。
「好きな曲なんか、覚えてからが本番じゃない?」
「確かに。次に何が来るか分かってるのに、そこが聴きたい」
「そう。知らないサビに変わってたら嫌だし」
「毎回、新曲になる」
「落ち着かないな、それ」
凪の声につられて、俺も笑った。
「じゃあ、分からないほうがいいものと、分かってるほうがいいものがあるのか」
「映画でも、好きな台詞を聞くために見たりするよ」
「驚きたいときばっかりじゃないんだな」
「私はあんまり驚かされたくない」
「ホラーゲームやってる人の発言とは思えない」
「あれは、湊も驚くから」
「俺がいればいいの?」
「一人でびっくりするの嫌じゃん。誰かが同じところで変な声出してると、途中から面白くなる」
「この前、俺より先に叫んでたけど」
「湊のせいでしょ。まだ何もいないのに『あっ』とか言うから」
「落としたライト見つけただけなんだよ」
「発見の報告は穏やかにして」
声を出して笑った。
笑った拍子に、背中が椅子から離れた。頬杖をついていた肘も、いつの間にか机から下りていた。
靴下から映画へ行き、曲の話をして、ゲームへ戻った。
その間、凪に合わせて話を組み直した覚えがなかった。
映画から曲へ飛んだときには、俺のほうが一瞬考えた。分かった途端に次のことが浮かんで、言うと、今度は凪が笑った。
自分だけで先へ進むのとも違っていた。
一人で考えていたら、たぶん靴下のところで終わっていた。
「湊、何飲んでる?」
「水」
「私も飲み物取ってこようかな」
「うん」
凪が席を立った。
そこで初めて、画面の隅にある時刻を見た。通話を始めてから、もう一時間近く経っていた。
俺は首を回した。
仕事の疲れが消えたわけではなかった。脚は重いし、明日の朝、早く起きたいとも思わない。
けれど、もう誰にも話しかけられたくない、という帰り道の感覚がなかった。
むしろ、凪が戻ってきたら、さっき言い忘れたことを話そうとしていた。
俺は、人と喋るのが好きだった。
休憩中のくだらない話も、誰かの相談も、予定より長くなった立ち話も。そのあと一人になりたくなるのは、人と会えばそうなるものだと思っていた。
楽しければ、疲れないわけではない。
だから、別に不思議ではなかった。
ただ、その疲れの中に何が混ざっているかは、考えたことがなかった。
話しているあいだ、俺はいつも少し先のことを考えている。
そこから相手に渡す分を選ぶ。まだ言わないほうがいいことは残しておく。考えが先へ行きすぎたら、話している場所まで戻す。
自然にできていたから、何かをしているつもりさえなかった。
凪と話していると、その手間がずいぶん少なかった。
頭のギアを、いちいち落とさなくていい。
そう思ってから、少しだけ可笑しくなった。
俺は今、自分にギアがあったことを知ったのだ。
「戻った」
凪の声がした。
「おかえり」
「靴下もいた」
「二回目で?」
「ううん。タオルの間に入ってた」
「映画の話、関係なかったな」
「でも面白かったからいい」
凪がコップを置く音がした。
俺は笑いながら、もう一度椅子に背中を預けた。
「ねえ、疲れてるんじゃなかったの?」
「疲れてるよ」
「結構喋ったけど、大丈夫?」
「うん。なんか、休んでる感じする」
言ってから、自分でもその言葉を確かめた。
凪は少し黙った。
「私、何かした?」
「靴下なくしてた」
「じゃあ、それで疲れが取れるんだ」
「毎回なくさなくていいから」
「よかった。そろそろ困る」
俺はまた笑った。
凪が何かをしてくれたわけではなかった。
いつもと同じ調子で話して、思いついたことを言って、俺の話から違うことを思いついていた。
それで、俺は休めていた。
「凪と話せてよかった」
今度は、言い直さなかった。
向こうで、布の音が止まった。
「私も。今日、湊の声聞きたかった」
「うん」
「ゲーム休みでよかったかも」
「なんで?」
「ゲームしてたら、洗濯物がまだ床にいる」
「終わった?」
「終わった。ちょっとしまってくるね」
「いってらっしゃい」
椅子を引く音がして、凪の声が遠ざかった。
俺はヘッドセットをつけたまま、目を閉じた。
明日の昼食は、結局まだ買っていなかった。朝、少し早く家を出ればいい。
そこまで考えて、あとは何も考えずにいた。
向こうで引き出しの開く音がした。思ったより近くに聞こえた。
一人で休むために帰ってきた部屋で、俺は凪が戻ってくるのを待っていた。
第十三話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「午前三時の宇宙」です。




