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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
恋愛成立・最盛期
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13/48

3-2 頭のギア

今日は、湊の平凡な一日から。

帰りの電車で、イヤホンをつけた。


何も再生しないまま、ドアの横に立つ。窓には、少しだけ顎を引いた自分が映っていた。


嫌なことがあった日ではない。


昼休みには同僚と映画の話をしたし、午後の仕事も大きな問題なく終わった。帰り際には、明日の昼食を買い忘れないようにと声までかけてもらった。


それでも、家に着いたら、しばらく誰とも話さずにいたかった。


いつものことだった。


昼休み、最近見た映画の話をすると、向かいの同僚がスマホでその題名を検索した。


「あ、それ予告見た。面白かった?」


「面白かったよ。最後まで見ると、最初のほうに出てきた何でもない場面の意味が変わるんだけど」


「何回か見るやつ?」


「二回目も面白いと思う。同じ映像を見てるはずなのに、一回目より面白かったりするのって――」


そこで同僚が、画面に表示された上映時間を指でなぞった。


「二時間か。俺、途中で寝そうだな」


「眠いときには向いてないかも」


「昨日、洗濯終わるの待ってたら寝るの遅くなっちゃって」


「洗濯機に残業させられてる」


「しかも終わってから俺の仕事始まるからね」


二人で笑った。


映画の話はそこで終わり、夜中に干す洗濯物の話になった。


言いかけたことを、無理に戻す気にはならなかった。同僚は今夜見るものを探していて、俺は見終わってから考えたことを話しかけていた。それだけのことだった。


午後には電話を何本かかけた。


急いでいる相手には要点から話し、初めて聞く相手には順番を変えた。確認したいことが違うと分かれば、途中までの説明を置いて、聞かれたほうへ戻った。


どの会話も、特に難しくはなかった。


家に帰り、鞄を置いて、着替えた。


買ってきた弁当を温めているあいだも、テレビはつけなかった。冷蔵庫の低い音と、電子レンジの回る音だけがしていた。


スマホが震えたのは、食べ終わった容器を片づけているときだった。


『今日、ゲームする?』


凪だった。


『ちょっと疲れたから、今日は休もうかな』


『おつかれ。声は聞きたいけど、通話もきつい?』


画面を見ながら、空いたほうの手で蛇口を止めた。


ついさっきまで、誰とも話さずにいたかった。


けれど凪の声を思い浮かべても、断る理由にはならなかった。


『通話はできるよ』


『ほんと?』


『風呂入ってからでよければ』


『待ってる。洗濯物あと半分あるから』


今日は洗濯の話をよく聞く日だった。


風呂から上がり、髪を乾かしてから通話をつないだ。


凪はまだ洗濯物と向き合っていた。


「進んだ?」


「半分」


「風呂入る前も半分って言ってなかった?」


「途中でスマホ見てた」


「そっちが本業になってるな」


「今、湊と話すのが本業」


「洗濯物がずっと副業のままだ」


凪が笑った。


俺は机に頬杖をついた。画面には、通話中の凪の名前が出ていた。


向こうで布が擦れる。


「今日、忙しかった?」


「普通。なんか、帰りにどっと来た」


「そっか」


凪はそこで話を止めた。


何があったのか、どれくらい疲れたのか。それ以上は聞かれなかった。


俺は頬杖を外し、椅子にもたれた。風呂から上がったばかりの足に、床が冷たかった。


しばらくして、凪が小さく「あ」と言った。


「どうした?」


「靴下、片方しかない」


「洗濯機の中じゃない?」


「さっき見たとき、なかったんだよね」


「もう一回見たらあるかもよ」


「二回目だけ出てくる仕組み?」


「一回目に見落としてる仕組み」


「私のせいだった」


俺は笑って、昼休みの映画を思い出した。


「同じものを二回見ても、二回目のほうが分かることってあるよな」


「靴下の話?」


「今、映画の話になった」


「急に扱うもの大きくなったね」


そう言いながら、凪は続きを待っていた。


「この前見た映画、結末を知ってからもう一回見たくなったんだよ。映像自体は一回目と同じなのに、二回目のほうが面白いこともあるじゃん」


「あるね」


「新しい情報はもうないはずなのにって……いや、見落としてたものはあるか」


「靴下と一緒だね」


「うん。画面にあるものは同じでも、俺が受け取るものは違う」


「靴下も、二回目で私に受け取ってもらえるかもしれない」


「早く迎えに行ってあげなよ」


「あとで行く」


凪がタオルを広げる音がした。


昼休みに飲み込んだ話の続きは、俺が思っていたのとは少し違うほうへ進んでいた。


「でも、全部覚えてても、もう一回見たいものってあるよね」


凪が言った。


「好きな曲なんか、覚えてからが本番じゃない?」


「確かに。次に何が来るか分かってるのに、そこが聴きたい」


「そう。知らないサビに変わってたら嫌だし」


「毎回、新曲になる」


「落ち着かないな、それ」


凪の声につられて、俺も笑った。


「じゃあ、分からないほうがいいものと、分かってるほうがいいものがあるのか」


「映画でも、好きな台詞を聞くために見たりするよ」


「驚きたいときばっかりじゃないんだな」


「私はあんまり驚かされたくない」


「ホラーゲームやってる人の発言とは思えない」


「あれは、湊も驚くから」


「俺がいればいいの?」


「一人でびっくりするの嫌じゃん。誰かが同じところで変な声出してると、途中から面白くなる」


「この前、俺より先に叫んでたけど」


「湊のせいでしょ。まだ何もいないのに『あっ』とか言うから」


「落としたライト見つけただけなんだよ」


「発見の報告は穏やかにして」


声を出して笑った。


笑った拍子に、背中が椅子から離れた。頬杖をついていた肘も、いつの間にか机から下りていた。


靴下から映画へ行き、曲の話をして、ゲームへ戻った。


その間、凪に合わせて話を組み直した覚えがなかった。


映画から曲へ飛んだときには、俺のほうが一瞬考えた。分かった途端に次のことが浮かんで、言うと、今度は凪が笑った。


自分だけで先へ進むのとも違っていた。


一人で考えていたら、たぶん靴下のところで終わっていた。


「湊、何飲んでる?」


「水」


「私も飲み物取ってこようかな」


「うん」


凪が席を立った。


そこで初めて、画面の隅にある時刻を見た。通話を始めてから、もう一時間近く経っていた。


俺は首を回した。


仕事の疲れが消えたわけではなかった。脚は重いし、明日の朝、早く起きたいとも思わない。


けれど、もう誰にも話しかけられたくない、という帰り道の感覚がなかった。


むしろ、凪が戻ってきたら、さっき言い忘れたことを話そうとしていた。


俺は、人と喋るのが好きだった。


休憩中のくだらない話も、誰かの相談も、予定より長くなった立ち話も。そのあと一人になりたくなるのは、人と会えばそうなるものだと思っていた。


楽しければ、疲れないわけではない。


だから、別に不思議ではなかった。


ただ、その疲れの中に何が混ざっているかは、考えたことがなかった。


話しているあいだ、俺はいつも少し先のことを考えている。


そこから相手に渡す分を選ぶ。まだ言わないほうがいいことは残しておく。考えが先へ行きすぎたら、話している場所まで戻す。


自然にできていたから、何かをしているつもりさえなかった。


凪と話していると、その手間がずいぶん少なかった。


頭のギアを、いちいち落とさなくていい。


そう思ってから、少しだけ可笑しくなった。


俺は今、自分にギアがあったことを知ったのだ。


「戻った」


凪の声がした。


「おかえり」


「靴下もいた」


「二回目で?」


「ううん。タオルの間に入ってた」


「映画の話、関係なかったな」


「でも面白かったからいい」


凪がコップを置く音がした。


俺は笑いながら、もう一度椅子に背中を預けた。


「ねえ、疲れてるんじゃなかったの?」


「疲れてるよ」


「結構喋ったけど、大丈夫?」


「うん。なんか、休んでる感じする」


言ってから、自分でもその言葉を確かめた。


凪は少し黙った。


「私、何かした?」


「靴下なくしてた」


「じゃあ、それで疲れが取れるんだ」


「毎回なくさなくていいから」


「よかった。そろそろ困る」


俺はまた笑った。


凪が何かをしてくれたわけではなかった。


いつもと同じ調子で話して、思いついたことを言って、俺の話から違うことを思いついていた。


それで、俺は休めていた。


「凪と話せてよかった」


今度は、言い直さなかった。


向こうで、布の音が止まった。


「私も。今日、湊の声聞きたかった」


「うん」


「ゲーム休みでよかったかも」


「なんで?」


「ゲームしてたら、洗濯物がまだ床にいる」


「終わった?」


「終わった。ちょっとしまってくるね」


「いってらっしゃい」


椅子を引く音がして、凪の声が遠ざかった。


俺はヘッドセットをつけたまま、目を閉じた。


明日の昼食は、結局まだ買っていなかった。朝、少し早く家を出ればいい。


そこまで考えて、あとは何も考えずにいた。


向こうで引き出しの開く音がした。思ったより近くに聞こえた。


一人で休むために帰ってきた部屋で、俺は凪が戻ってくるのを待っていた。

第十三話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「午前三時の宇宙」です。

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