2-6 名前をつける
第二部の最終話です。
すでに始まっているものへ、湊が名前を与えます。
凪が俺を好きなのだと分かったからといって、すぐに何かが変わったわけではなかった。
翌朝も凪からメッセージが届き、昼にはどうでもいい写真を送り合い、夜になれば通話をした。
凪は以前から十分に分かりやすかった。
変わったのは、俺がその一つひとつを、好意として受け取るようになったことだった。
『おはよう』は、起きたという報告だけではない。
『何してる?』は、予定の確認だけではない。
『通話できる?』は、声が必要だという意味を含んでいる。
同じ言葉なのに、読み方だけが変わっていた。
ただ、好かれているから応じるのと、自分も相手を好きでいるのは別のことだ。
凪が俺に向ける感情を、そのまま自分の感情だと思い込むことはしたくなかった。
答えを出すのに、長い時間はかからなかった。
その日の夕方、凪からメッセージが届いた。
『今日は友達とごはん行くから、通話できないかも』
『了解。楽しんできて』
それだけ返し、いつもどおり一人で夜を過ごした。
食事をして、風呂に入り、机の前で本を開く。
凪と知り合う前から何度も繰り返してきた時間だった。
静かで、誰にも邪魔されず、自分の好きなことができる。
不自由はなかった。
本を数ページ読んだところで、説明に使われていた例が少しおかしいことに気づいた。
いつもなら、そのまま自分の中で反証を組み立てて終わる。
けれど最初に浮かんだのは、これを凪に話したら、どこを面白がるだろうということだった。
少しして、外から妙に長いクラクションが聞こえた。
窓の外を見ながら、凪なら「押している本人も、途中から引き際が分からなくなってそう」と言うかもしれないと思った。
冷蔵庫を開ければ、前に凪が探していたプリンを思い出した。
凪がいなくても、することは変わらない。
変わっていたのは、一つのことから伸びていく連想の先に、凪がいることだった。
好かれているという事実を除いても、俺は凪と話したかった。
凪の返事が予想どおりでも、予想から外れていても聞きたかった。
それなら、もう十分だった。
十一時を過ぎたころ、スマホが震えた。
『ただいま』
画面を見たまま、すぐに返す。
『おかえり』
『早い』
『たまたま見てた』
『入力中になるの一瞬だったけど』
『観測精度が高い』
『通話していい?』
招待は、俺が返事をするより先に届いた。
通話へ入ると、少しだけ騒がしい場所の音がした。
「まだ外?」
「今歩いてる。駅から家まで」
「気をつけて帰りなよ」
「うん。湊の声聞いたから大丈夫」
「防犯性能はないよ」
「一人じゃない感じはする」
凪の足音に合わせて、衣服の擦れる音がする。
俺はそれを聞きながら、彼女が家へ着くまで話した。
玄関の扉が閉まる音がして、鍵を掛ける音が続く。
「着いた」
「おつかれ」
「今日、話せないと思ってた」
「俺も」
「だから少しでも声聞きたかった」
「うん」
「湊は?」
凪は、ときどき答えを曖昧なまま通してくれなかった。
「俺も、話したかったよ」
数秒、返事がなかった。
「もう一回言って」
「聞こえてたでしょ」
「聞こえたけど、もう一回聞きたい」
「今日はもう言わない」
「けち」
そう言いながら、凪は嬉しそうに笑っていた。
その日の通話は短かった。
凪は友人と出かけて疲れていたらしく、家に着いて十分ほどで大きなあくびをした。
「もう寝なよ」
「今日は寝るまでじゃないの?」
「もう寝るところまで来てる」
「じゃあ寝る」
「おやすみ」
「おやすみ、湊」
通話を切ったあとも、さっき言った言葉が残っていた。
俺も、話したかった。
凪から求められたから出た言葉ではなかった。
一人で過ごした数時間が、先に答えを出していた。
翌日の夜、初めて俺のほうから通話に誘った。
『今日、話せる?』
凪の返事は早かった。
『話せる』
すぐに通話へ入る。
「湊から誘ってくるの珍しいね」
「そうだね」
「何かあった?」
「少し話したいことがある」
「急に真面目」
凪の声から笑いが消えた。
「悪い話?」
「悪くはないと思う」
「湊基準で?」
「たぶん凪基準でも」
「じゃあ聞く」
俺は一度、息を整えた。
言う内容は決まっていた。
それでも、声にする直前だけ少し緊張した。
「凪、俺のこと好きで合ってる?」
「確認するの遅くない?」
「合ってるかどうかだけ答えて」
「合ってる」
間を置かず、凪は続けた。
「好きだよ。かなり」
昨日までなら、そこから先を凪に任せていたかもしれない。
凪が距離を縮め、凪が話したいと言い、凪が「寝るまで」と夜を延ばした。
けれど、ここから先まで彼女に始めさせるのは違うと思った。
「俺も凪が好きだよ」
今度は、凪が黙った。
通話が切れたのかと思い、画面を確かめる。
名前の横にある音声マークは、そのまま残っていた。
「凪?」
「いる」
声が少しだけ小さい。
「もう一回言って」
「二日続けて同じことするの?」
「昨日は話したいって言っただけ。今日は好きって言った」
「分類が細かいな」
「大事だから」
俺は笑って、同じ言葉を繰り返した。
「凪が好きだよ」
「うん」
返事のあと、小さく息を吸う音がした。
「私も、湊が好き」
それで互いの気持ちは確認できた。
けれど、俺にはもう一つ言うことがあった。
「それで、俺は凪と付き合いたい」
「付き合ってなかったの?」
凪は本気と冗談の中間の声で聞いた。
「付き合うって話はしてないでしょ」
「毎日通話して、寝落ちして、お互い好きなのに?」
「付き合ってるみたいな二人ではあったと思う」
「それと付き合ってる二人は違うの?」
「俺の中では違う」
「どう違う?」
責める声ではなかった。
本当に分からないから、凪は聞いていた。
「名前がなくても、今までの時間が嘘になるわけじゃない」
言葉を選びながら答える。
「でも俺にとって『付き合う』は、今好きだって伝えるだけの言葉じゃないんだ」
「うん」
「今日だけじゃなくて、明日からも凪を恋人として考える。俺もそうするし、凪にもそうしてほしいっていう意思表示に近い」
「約束みたいなもの?」
「そうだね。約束に近い」
凪はしばらく黙っていた。
俺の言葉を拒んでいる沈黙ではなかった。
いつものように、自分の中へ入れて、形を確かめている時間だった。
「私は、今好きなら、もう始まってると思ってた」
「それも間違いじゃないと思う」
「湊は、明日からのことまで入れて言いたいんだね」
「うん」
「じゃあ、入れて」
「何を?」
「湊の明日からに、私を」
凪の声は穏やかだった。
冗談も、照れ隠しもなかった。
「凪、俺と付き合って」
「うん。付き合う」
返事は、驚くほど簡単だった。
画面の表示は何も変わらない。
通話に参加しているのは、さっきと同じ二人だった。
それでも、沈黙の置かれ方が少しだけ変わった。
「彼女になった」
凪が確かめるように言う。
「なったね」
「湊は彼氏?」
「そうなる」
「変な感じ」
「さっきまでと何も変わってないけど」
「変わったよ」
「何が?」
「湊が、私を好きって言った」
凪にとって一番大きかったのは、関係の名前より、その瞬間に俺が伝えた感情だったらしい。
「彼氏になった湊、明日も話せる?」
「昨日までの湊でも話せたよ」
「でも今日は、彼氏に聞いてる」
「話せる」
「よかった」
凪が始めた近さに、俺が名前をつけた。
俺にとって『付き合う』は、その瞬間の気持ちを記録するだけの言葉ではなかった。
今日から明日へ、一本の線を引く言葉だった。
その夜から、俺たちは恋人になった。
第十一話をお読みいただき、ありがとうございます。
第二部「凪からの接近」は、ここまでです。
次話から第三部「恋愛成立・最盛期」に入ります。次話は「そのままでいい」です。




