第9話 逃げ道は足元から崩れるらしい 1
四匹目のフォレストハウンドが、帰り道の真ん中で鼻を鳴らした。
森側に三匹。村へ続く道に一匹。右手には畑の畝が広がり、左手には崩れかけた水路がある。
さっきカイルに踏むなと言われた土の縁は、俺の靴先から二歩も離れていなかった。
「村まで走れると思うか?」
カイルが槍を構えたまま尋ねた。
「一匹なら振り切れるかも。でも、四匹とも追ってきたら無理」
ミレアの耳が後ろへ伏せている。普段なら俺よりずっと速く走れるやつが、逃げ切れないと言った。
どうやら今回は、敵から逃げるのにも作戦が必要らしい。
「畑の奥へ回るのは?」
「やめろ。あっちも地面が柔らかい」
カイルが石突きで右手の土を突くと、湿った泥が先端にくっついた。
「村へ戻るなら、俺の足元から続く固い土を通れ。ただし、途中から一人分の幅しかない。並んで走れば端が崩れるぞ」
森側の一匹が前脚を踏み出した。それに合わせて、残りの二匹も距離を詰めてくる。
こいつら、こっちが逃げようとするのを待っているのか?
俺は足元の籠に目を向けた。
横に置いた網の中では、さっき捕まえた穴ネズミが暴れている。口は結んであるが、持ち運ぶには両手が必要だ。
「……籠は置いていくぞ」
「依頼はどうするの?」
「生きて帰らないと報告もできないだろ」
ミレアは網を籠の中へ収め、少し離れた固い地面まで押していった。
「これでいい?」
「ああ。依頼人にはあとで説明しよう」
「あとで、ね」
ミレアが短剣を抜き直す。
カイルも穂先を覆っていた布を外し、槍を低く構えた。
「来るぞ」
*
最初に飛びかかったのは、森側の右端にいた一匹だった。
地面を這うように走ってきたかと思うと、ミレアの足を目がけて跳ねる。
「っと!」
ミレアは半歩だけ体をずらし、右の短剣を振った。
刃が前脚をかすめる。フォレストハウンドは低く鳴き、畑の畝に着地した。
ミレアが追おうとする。
「深追いするな!」
カイルの声に、その足が止まった。
直後、二匹目が正面から飛び込んできた。
カイルが槍を突き出す。
相手は体をひねって穂先を避け、そのまま木の柄に噛みついた。
ぎり、と嫌な音がする。
「トウマ、横から!」
「分かってる!」
俺は片手剣を振り上げた。
だが、フォレストハウンドの体は槍の向こう側だ。無理に切り込めば、狼より先にカイルの武器を傷つけかねない。
だったら、少しだけ顔をそむけさせればいい。
「《ブリーズ》!」
風が地面をなでた。
固い土の上に残っていた乾いた砂が舞い上がり、フォレストハウンドの鼻先に当たる。
相手が目を細めた瞬間、カイルが槍を引き抜いた。
「助かった。だが、風を俺の方にも送るな」
「……すまん。方向は次から直す」
カイルも片目をこすっていた。
思った以上に砂が広がったらしい。
《ブリーズ》は畑のほこりを払うときにも使っている魔法だが、風向きを間違えると自分たちまで迷惑をこうむる。
味方を巻き込む攻撃は、ゲームでも嫌われるやつだ。
カイルが槍の柄を確かめた。噛みつかれた場所には、二本の歯の跡が残っている。
「まだ使える。だが、何度もやらせるなよ」
「了解!」
村側の一匹は、相変わらず土道を塞いでいた。残る一匹も森の手前からこちらを見ている。
四匹とも、同時には飛びかかってこない。
代わる代わる仕掛けて、俺たちの動きを見ているようだった。
「このままじゃ、ずっと囲まれたままだよ!」
ミレアが短剣を構え直す。
俺もそう思う。
逃げ道を開くには、少なくとも一匹を退かさなきゃならない。
正面から四匹を相手にするのは厳しい。なら、さっき調べた足場を利用できないだろうか。
俺は水路の縁を見た。
穴ネズミが掘り進めたせいで、土の下が空洞になっている。踏めば崩れるかもしれない場所だ。
それは俺たちにとって危険だが、フォレストハウンドだって同じはず。
「カイル、あそこの土はどのくらい弱ってる?」
「近づくなと言った場所か?」
「ああ。俺たちは固いところに残る。向こうが勝手に踏んでくれれば……」
カイルは水路と狼の位置を見比べた。
「落ちるかどうかは分からんぞ。崩れ方だって読めない」
「だったら、落ちなければ逃げるだけだ」
「……いい。ただし水路側へ踏み出すな。追い込まれてもだ」
そこは俺も譲れない。
敵を倒すために自分まで穴へ落ちたら、本末転倒だからな。
俺は剣を握り直し、固い土の上で足の位置を確かめた。
*
「こっちだ!」
俺が地面を蹴ると、さっき槍に噛みついた一匹が顔を上げた。
剣先を向けたまま横へ移動する。
水路へ近づきすぎないところで立ち止まると、フォレストハウンドが低く唸った。
一歩。
また一歩。
向こうも横へ動き、俺との距離を詰めてくる。
その後ろ脚は、水路の縁に近づいていた。
「トウマ、無理するな!」
「分かってる!」
フォレストハウンドが跳んだ。
俺は剣を斜めに立て、横へ受け流そうとする。
しかし、思ったより重い。
爪が刃の平らな部分を滑り、衝撃が手首から肩まで突き抜けた。
足が半歩ずれる。
まずい。
次に押されたら、俺の方が水路へ落ちる。
「下がれ!」
カイルの槍が横から伸びた。
穂先を避けようとしたフォレストハウンドが、着地する場所を変える。
後ろ脚が地面についた。
ぐずり、と土が沈む。
狼の体が傾いた。
次の瞬間、水路の縁が崩れた。
泥と草が水の中へ落ち、フォレストハウンドの後ろ脚が滑る。
前脚を伸ばして這い上がろうとするが、土がまた崩れた。
「今だ!」
カイルが固い地面に踏みとどまり、槍を突き込む。
穂先が胸元へ深く刺さった。
フォレストハウンドの体が一度大きく跳ねる。
カイルは槍を握ったまま踏ん張った。やがて相手の力が抜け、水路の縁に横たわる。
「……やったか?」
「動かん。だが、近づくなよ」
カイルが槍を抜こうとした。
ところが、穂先が引っかかったらしい。
強く引くと、木の柄がたわんだ。
みしっ。
さっき噛まれた辺りから、嫌な音がする。
「おい、カイル!」
「分かってる。引っ張るな」
カイルは力を緩め、穂先の向きを少しずつ変えた。
ようやく槍が抜ける。
その代わり、柄の表面には白い裂け目が走っていた。
「……まずいな」
「折れたのか?」
「まだ折れてない。だが、強く突けば次は分からん」
カイルは槍を持つ位置を変えた。
あれでは、さっきまでのように遠くから敵を止められない。接近される前に迎え撃つという、槍の強みが減ってしまった。
俺は思わず柄を見つめた。
武器の修理には金がかかる。
俺の片手剣だって、折れたら困る。命の次に大事なのは、働くための道具だ。
「カイル、槍の修理代は……」
「今は数えるな。まだ三匹いる」
「分かってる。だから、これ以上壊れる前に逃げたい」
カイルは一瞬こちらを見て、傷んだ柄へ手を添えた。
「……それなら、俺も賛成だ」
敵は一匹減った。
こちらは三人。残る狼も三匹。
数字だけなら互角になったはずなのに、槍が傷んだせいで、さっきより状況は悪くなっている気がする。
ゲームのようにはいかないものだ。
ミレアが俺の横に戻ってきた。
「トウマ、道の方は?」
「まだ一匹いる」
「じゃあ、あたしが回り込む。そいつを引きつけておいて」
「一人で行けるか?」
「ずっとここにいたら、また囲まれるでしょ」
ミレアは短剣を持ち直し、固い土の続く道筋を目で確かめた。
俺は村側の一匹へ剣先を向ける。
「よし。そいつが動いたら俺が止める。カイルは森の二匹を頼む」
「無理に倒そうとするなよ」
「ああ。道が開けば十分だ」
カイルは短く持った槍を構え、森へ向き直った。
ミレアが動き出す。
畑の畝は踏まず、乾いた土の上を選んで道の右側へ回る。俺は狼の注意を引くように、わざと一歩前へ出た。
すると。
村側のフォレストハウンドが、すっと後ろへ下がった。
「……ん?」
飛びかかってくると思っていたのに、相手は道の端へ移動する。
俺が剣を向けても、そこから近づいてこない。
まるで、道を空けてくれたみたいだ。
「逃げる気か?」
「違う」
カイルの声が鋭くなった。
「トウマ、森の方を見ろ」
言われて振り向く。
森側にいたはずの二匹のうち、一匹が見当たらない。
目に入るのは、森の手前にいる一匹と、村への道を空けた一匹だけだった。
倒した狼は、水路のそばに横たわっている。
四匹いた。
一匹倒した。
残りは三匹。
なのに、二匹しか見えない。
「……ミレア、止まれ」
俺がそう言った直後だった。
かつん、と小石が転がる音がした。
音は、俺たちのすぐ後ろから聞こえた。




