第10話 逃げ道は足元から崩れるらしい 2
「伏せて!」
ミレアに襟をつかまれ、俺は固い土の上を横へ引き倒された。
首のすぐ後ろを黒茶色の毛がかすめる。飛び込んできた何かが地面を引っかき、弾けた土が頬に当たった。
「うわっ!」
第9話で見失った――などと考えている暇はない。
さっき姿を消したフォレストハウンドだ。
俺の背中を狙って、茂みから飛び出してきたらしい。
ミレアは俺を引いた勢いのまま身をひねった。だが、魔物の前脚がその左肩をかすめる。
「っ……!」
革の服に三本の裂け目が走った。
傷口から赤いものが滲む。
「ミレア!」
「浅い! あたしより前を見て!」
ミレアは俺の襟を放し、右手の短剣を構え直した。
その向こうでフォレストハウンドが振り向く。
牙の間から唾液が糸を引いていた。
俺は起き上がり、片手剣を構える。
あと少し遅かったら、首を噛まれていた。
「カイル、後ろに一匹!」
「見えてる。そいつを前へ出すな!」
カイルは傷んだ槍を横に構え、狼と俺たちの間へ入った。
ただし、穂先を突き出すことはしない。柄には、さっきの戦闘でできた裂け目が残っている。
強く突けば、今度こそ折れるかもしれない。
残るフォレストハウンドは三匹。
こちらも三人。
人数だけなら互角だが、向こうには牙も爪もある。おまけに、俺たちが立っている場所は水路のすぐ横だ。
撤退戦だというのに、逃げ道の難易度まで高すぎる。
*
「トウマ、俺の足元まで下がれ!」
カイルが槍の石突きで地面を二度突いた。
「ここから先は固い。土の色が変わるところを踏むな!」
「分かった!」
俺は剣を構えたまま、一歩下がった。
ミレアも続こうとする。
その前へ、背後から回り込んできたフォレストハウンドが立ちはだかった。
低く身を沈める。
来る。
俺は剣を振った。
ところが相手は剣先の手前で止まり、すばやく横へ身を翻した。
「しまった!」
空振りした腕が前へ流れる。
その隙に、森側にいた一匹が走り込んできた。
左だ。
剣を戻すには間に合わない。
とっさに左腕を顔の前へ上げた。
熱いものが、肘から手首へ走る。
「ぐっ!」
爪が服を裂いた。
腕に細い傷が三本走り、血が袖の内側へ広がる。
痛い。
角ウサギを捕まえたときも、畑ネズミを罠に入れたときも、こんな痛みはなかった。
「下がれ!」
カイルが槍を差し込んだ。
穂先ではなく、反対側の石突きがフォレストハウンドの顎を打つ。
相手が顔をそむけた隙に、俺は固い土まで足を引いた。
「腕は!」
「切られた。浅いと思う!」
「手は動くか?」
指を曲げる。
動いた。
だが、力を入れようとすると痛みが走る。
「動くけど、力は入れにくい」
「なら左は使うな。剣は右で持て!」
「おう!」
俺は左腕を体へ寄せ、右手だけで剣を構え直した。
いつもより刃先が落ち着かない。
たった片腕を使えなくなっただけで、剣の重さまで変わったように感じる。
これで《超成長》の特訓だと言い張る気には、さすがになれなかった。
*
「トウマ、こっち!」
ミレアが俺の前へ出た。
左肩の服には血が広がっている。それでも足取りはしっかりしていた。
「お前も肩を動かすなよ」
「分かってる。でも、あたしの方が速い!」
「それは知ってる!」
「だったら、あんたは後ろ!」
ミレアは右手の短剣を低く構え、先ほど俺に飛びかかった一匹へ向かった。
狼が追ってくる。
ミレアは水路の手前で急に向きを変えた。
魔物も同じように曲がろうとする。
ところが、前脚が湿った土へ乗った瞬間、その体が横へ滑った。
ミレアは踏み込まず、届くところだけを短剣で払う。
刃が脇腹をかすめた。
「ギャンッ!」
フォレストハウンドが飛び退いた。
ミレアは追わない。
相手が態勢を立て直すより早く、俺たちのところへ戻ってきた。
「あいつ、あの土だと急に曲がれない!」
「見た。なら、固い道を使って――」
「残りの二匹がいる」
カイルが槍を構え直した。
村へ続く土道には、一匹がまだ残っている。
もう一匹は森側を歩き、俺たちの動きをうかがっていた。
三匹とも倒すのは無理だ。
カイルの槍は傷んでいる。ミレアの肩も、俺の左腕も切られた。
そもそも、今日受けたのは穴ネズミの駆除依頼である。
フォレストハウンドは依頼の対象に入っていない。
……何で俺たちは、契約にない仕事を命がけでやっているんだ?
「カイル、逃げるぞ!」
「そのつもりだ。だが、道の一匹をどかさないと通れん」
「なら、あいつだけでいい」
俺は村へ続く道を見た。
道の真ん中にフォレストハウンド。その左側は崩れかけた水路で、右側には人一人が通れそうな固い地面が残っている。
道そのものは、まだ使える。
「ミレア、あいつの右を抜けられるか?」
「道が空けばね」
「カイルは?」
「二人が先に通れ。俺が最後に下がる」
「槍が折れたら?」
「折れる前に追いつく」
カイルはそう言って、傷んだ槍を短く持ち直した。
……頼もしいが、できれば折れる前どころか、折れる気配すらないうちに帰りたい。
「よし。ほんの少しだけ隙を作るぞ」
*
「《ブリーズ》!」
俺はフォレストハウンドの手前にある乾いた土へ風を送った。
細かな砂が舞い上がり、魔物の鼻先へ流れる。
さっきはカイルまで巻き込んだ。今度は風の向きを確かめ、狭い範囲だけを狙う。
風そのもので相手を倒す力はない。
だが、砂が目に入れば、一瞬は顔をそむける。
狼が目を細めた。
「今!」
ミレアが右側へ走る。
短剣を低く構え、道の端から一歩だけ踏み込んだ。
フォレストハウンドがそちらを向く。
俺も剣先を前に出して、相手がミレアを追うのを妨げた。
その間に、カイルが槍を横へ差し込む。
三人で押し込むように、少しずつ道を開いていく。
「ミレア、先に抜けろ!」
「了解!」
ミレアが狼の右側をすり抜ける。
その直後、フォレストハウンドが俺へ顔を向けた。
牙が見える。
俺は剣を振り下ろしかけ――。
「トウマ、剣を引け!」
カイルの声で腕を止めた。
相手が飛びかかる。
俺は斬りつけず、後ろへ一歩下がった。
爪が空を切る。
着地した狼の前脚が、湿った土へ沈んだ。
相手が足を引き抜こうとする。その間に、カイルの槍が横から突き出された。
傷んだ柄を強く打ちつけないよう、穂先を相手との間に置く。
狼が槍を避け、半歩後ろへ下がった。
道が空いた。
「通れ!」
俺はミレアの後を追った。
狭い土道を抜け、数歩先で振り返る。
カイルが槍を構えたまま、後ろ向きに下がっていた。
フォレストハウンドは追いかけようとして一歩踏み出したが、槍の穂先を見て止まる。
カイルがもう一歩下がる。
森側にいた二匹も動き出した。
「カイル、早く!」
「走るな。足元を見ろ!」
返事と同時に、カイルが固い地面を選んでこちらへ下がった。
三人が土道へ出たところで、森側の一匹が短く吠えた。
脇腹を切られた個体が、先に茂みへ戻っていく。
残る二匹も、こちらを見ながら少しずつ後退した。
やがて三匹とも森の中へ姿を消した。
「……行った?」
ミレアが短剣を下ろしかける。
「まだ下ろすな」
カイルが言った。
「茂みの中までは見えん。村まで戻ってからだ」
俺たちは森へ背中を向けきらないよう注意しながら、土道を進んだ。
さっきまでは獲物を運ぶための道だった。
今は、自分たちの足だけでも重く感じる。
*
畑の柵が見えなくなるまで歩いて、ようやく足を止めた。
カイルが俺の左腕を見た。
「手当てをする。布はあるか?」
「……右手なら出せる」
俺は荷物から、まだ使っていない布を取り出した。
カイルは水筒の水で傷についた土を洗い流し、布を当てて押さえる。
「深くはなさそうだ。だが、無理に動かすなよ」
「分かった」
「村へ着いたら、ちゃんと見てもらえ」
次に、ミレアの肩を確かめる。
革の服は裂けているが、傷は表面をかすめた程度のようだった。
それでも左腕を持ち上げようとすると、ミレアの顔がゆがむ。
「痛むだろ」
「……少しだけ」
「少しでも痛むなら使うな。今日の仕事は終わりだ」
ミレアは言い返さず、短剣をしまった。
俺も荷物を確かめる。
そこで気づいた。
「あっ」
「何だ?」
「穴ネズミ」
捕まえた一匹は、まだ現場の籠に入っている。
網も縄も置いてきた。
あれを回収しなければ、依頼は終わらない。
「取りに戻るか?」
カイルが聞いた。
俺は来た道を振り返った。
フォレストハウンドは森へ戻ったが、どこにいるか分からない。
こっちは二人が負傷し、槍も壊れかけている。
今から戻って、また三匹に囲まれたら。
「……いや、やめる」
俺は首を横に振った。
「ギルドには正直に報告する。籠も網も、危なくなくなってから取りに行けばいい」
「いい判断だ」
「依頼は失敗になるかもしれないけどな」
「その判断はギルドに任せろ。危険があったことも、水路が崩れていることも伝えるんだ」
カイルは槍の裂け目を見た。
「俺も、まずはこいつを直さなきゃならん」
「修理代、かかるよな」
「そりゃな」
「……俺たちのせいで傷んだようなものだし」
カイルは槍を肩に担ごうとして、やめた。
「一緒に戦うと決めたのは俺だ。お前らだけのせいじゃない」
「でも――」
「無事に帰ったら、修理の相談には乗ってくれ。それでいい」
俺は頷いた。
今日の稼ぎは、おそらく赤字だ。
魔物を倒しても、依頼を終えられなければ報酬にはつながらない。
怪我をすれば仕事を休む必要がある。武器が壊れれば、修理代までかかる。
経験値稼ぎにも、経費というものがあるらしい。
しかも今回は、その経験値をもらえる保証すらない。
*
村の屋根が見えてきた頃、ミレアが隣へ並んだ。
「トウマ」
「ん?」
「あのときさ」
「どのとき?」
「最初に、後ろから飛びかかってきたやつ」
「ああ。助かったよ。お前が引っ張ってくれなかったら危なかった」
ミレアは歩きながら、自分の耳に手を当てた。
「……変なんだよね」
「何が?」
「音が聞こえたわけじゃないんだ」
「じゃあ、どうして分かったんだ?」
「分かんない」
ミレアは眉を寄せた。
「何か嫌な感じがしたの。後ろを向かなきゃっていうか、あんたを動かさなきゃっていうか……」
「……なるほど」
俺は顎に手を当てた。
これは、もしかして。
前世のゲームでいうところの、危険察知系スキル。
しかも本人にも自覚がないとなれば、隠し能力が目覚めかけている可能性もある。
「ミレア、お前――」
「変な名前をつけようとしたら怒るよ」
「……まだ何も言ってないだろ」
「顔に書いてある」
俺は口を閉じた。
ミレアはしばらく黙って歩いていた。
村の入口が近づいたところで、もう一度口を開く。
「ねえ、トウマ」
「何だ?」
「さっきの話なんだけど」
ミレアは歩く速度を落とした。
「あたし、あんたの襟をつかんでから、後ろを見たんだよ」




