第41話 図面の外にも水は流れる
グレンは青札三番の報告書に印を押し、当番の職員へ渡した。
第一層で岩甲虫の目撃が増えている。巡回の追加は必要だが、今日の担当は別に決まっていた。
「東保守路はどうするんです?」
「排水の出口を調べる。入口の巡回は任せた」
職員が報告書を抱えて去ると、石工経験のあるハーシュが測量棒を担いで入ってきた。
昨日外した封鎖石の向こうでは、古い図面にない格子を確認した。石を元に戻しても、その事実までは消えない。
「今日は外から追うのか。中の格子を調べれば早いだろ」
「点検溝は狭い。壊して広げる許可もない」
「壊せば修理代が出るってことか」
「修理代だけじゃない。水の流れを変えたら事故報告書も増える」
「トウマみたいなこと言うな。あいつも面倒が減るかで考えるぞ」
「悪いことか?」
「いや。お前が言うと余計に仕事が増えそうだ」
グレンは古い保守図面を筒へ入れた。
昨日の調査では、壁の奥に水の通った跡があり、現在も細い水が流れていた。どこへ出るかを知らずに、東保守路の再開日を決める気はない。
*
管理所の裏手には古い排水口が三つ並んでいた。
第一と第二の出口には鉄格子があり、その奥から細い水が絶えず流れている。端の第三排水口だけは土砂が積もり、出口の半分が埋まったままだった。
「第三排水口は何年も使ってないんだったな」
「ああ。掃除したという記録もない。古い図面の線はこの辺りへ来るんだが」
ハーシュが石の縁を指でなぞった。
第三排水口の前には乾いた土と湿った泥が混じっていたが、そこから水が流れ出たと分かる筋は見つからない。
「途中で完全に塞いだんじゃねえのか」
「その可能性はある」
「図面を書き間違えたとか」
「それもある」
「別の排水路へ付け替えたとか」
「否定できない」
「お前と話すと何も進んでない気がするな」
「どれかに決める前に確かめる」
グレンは革袋から赤い確認粉を取り出した。
管理所が排水路の流れを調べるときに使うものだ。飲み水には使えないため、使用できる場所は排水系統に限られている。
「東保守路の水に入れて、どの出口に色が出るかを見る。量と投入場所は記録する」
「遅い流れなら夕方までに着かんぞ」
「そのときは明日も見る」
「……頼むから今日出てくれよ」
ハーシュは三つの出口の位置を測り、グレンが古い図面に印を付けた。
第一、第二、第三。
どこに色が出たかだけでなく、出なかった場所も記録する。今はそれ以上のことを決められない。
*
東保守路の入口には、一般通行を止める仮設札が残っていた。
グレンたちは管理所の記録を済ませて中へ入る。
終点手前の右壁では封印泥が乾いていた。管理所の印に欠けはなく、目地に新しい工具の跡もない。
グレンは日付と状態を記録し、封鎖石には触れなかった。
「ここは開けないのか?」
「開けなくても調べられる場所がある」
少し手前の排水溝へ移る。
古い図面では、この溝から右壁の点検溝へ水が流れることになっている。ただし、現在もつながっているかは確認できていなかった。
ハーシュが水の流れを確かめる。
「ここからでいいんだな?」
「ああ。投入する量は記録した。下流側に人がいないことも確認してある」
グレンは指定した量の確認粉を上流側へ流した。
赤い色が水へ薄く広がり、石の溝を進んで暗がりへ消える。
「これで出口に出なかったらどうする?」
「途中で詰まっているのかもしれない。別の流路かもしれん。記録の位置が違う可能性もある」
「選択肢が増えただけじゃねえか」
「調査前に一つに決める方が危ない」
ハーシュは言い返さず測量棒を畳んだ。
二人は水が流れ続けていることを確かめてから、管理所の裏手へ戻った。
昼になっても第一排水口に赤は出なかった。第二も透明なままだ。第三には目立つ水の流れすらない。
「外へ出ていないな」
「まだそう書くな。到達していない可能性もある」
「じゃあここで待つのか」
「待っている間に古い記録を調べる」
何もせず出口の前に立ち続ける必要はない。
排水は急かしても速く流れない。
*
管理所の倉庫には、背表紙の外れた帳面が積まれていた。
湿気で紙の端が波打ち、表紙の文字が読めないものもある。倉庫番の女が棚の上から箱を三つ下ろした。
「昨日ので全部だと思ってた?」
「東の排水記録はまだあるのか」
「『排水』って書いてある箱が三つ。古い人は何でも残すから」
「今も似たようなものだろ」
「今は番号を付けてる。全然違うよ」
女は箱の側面を指で叩いた。
確かにそれぞれ札が付いている。札のない古い帳面よりは探しやすかった。
三人で担当を分けた。
ハーシュは修理記録、倉庫番は資材の出納、グレンは東保守路の閉鎖関係を読む。
紙をめくるたび細かな粉が落ちるが、誰も古い帳面を乱暴には開かない。
「これ、貸出札も残ってるよ」
倉庫番が細長い木札を並べた。
昔の資材貸出を記したものらしい。グレンが番号と品名を照らし合わせていると、ハーシュが一枚を読み上げた。
「『旧東縦坑・巻上げ鉤一、縄梯子二』。こっちの字はまだ読めるな」
「返却欄は?」
「鉤は戻ってる。縄梯子は一本だけだ」
貸し出した二本に対して、返却の印は一つしかない。
もう一本が紛失したのか、別の場所へ移されたのか、単に記入を忘れたのか。木札からは判断できなかった。
「二十年以上も前の借り物を私に聞かないでよ」
「まだ何も聞いてない」
「顔が聞いてる」
グレンは品名と貸出番号を控えた。
道具を借りた記録はあっても、入口の位置までは分からない。
「縄梯子が要ったなら、人が出入りする設備だったんだろうな」
「当時はな。今も使えるとは限らん」
「資材置き場の下だったりして」
ハーシュは冗談で言ったらしい。
グレンは現在の管理所の平面図を広げ、旧第三排水口から古い図面の線を延ばした。
途中で消えた線の先には、資材置き場の端があった。
「……明日、床を確かめる必要があるな」
「当たったら一杯おごれよ」
「仕事中に賭けるな」
そのとき、ハーシュが開いた修理帳のページを押さえた。
「こっちにも『旧縦坑』ってあるぞ」
東側排水格子の交換。
記録された年は二十七年前。古い図面が作られた後の作業だ。
腐食した格子を取り替えるため、鉄棒十二本と固定金具四個を用意し、三人で作業したとある。
その下に短い一行が残っていた。
『旧縦坑側より搬入』
「格子を外から運んだんじゃないのか」
「少なくとも、この記録を書いた者は縦坑側と書いている」
「で、場所は?」
「ここにはない」
グレンは帳面の番号と修理年を書き留めた。
格子を交換した記録は見つかった。しかし、昨日見た格子と同じものなのかは分からない。工事のあとに、さらに手を加えた可能性もある。
修理帳を閉じる前に、グレンは『旧縦坑側より搬入』の一行をもう一度確かめた。
資材を運び込んだ場所があったのなら、ほかの記録にも何か残っているかもしれない。
*
夕方前に二人は排水口へ戻った。
第一と第二の水はまだ透明だった。
第三の前でハーシュがしゃがみ、乾いた土の間を指した。
「グレン。こっちを見ろ」
水の見えなかった出口の下で、湿った泥だけが薄赤く染まっていた。
乾いた土には色が付いていない。
グレンは膝を曲げて位置を確かめ、記録した時刻を見直した。
「確認粉と同じ色だな」
「流れていないのに?」
「土砂の下を少し通ったのかもしれん。投入した水がこちらへ来た可能性は高い」
「じゃあ、東保守路から第三排水口までつながってるのか」
「少なくとも、投入した場所からこの付近まで確認粉が届いた。どの溝を通ったかまでは分からん」
ハーシュは測量棒を出しかけて手を止めた。
「勝手に掘るな、だろ」
「分かってるじゃないか」
「若い連中に言い続けてたら覚えたよ」
グレンは第三排水口の位置と、赤くなった範囲を測って記録した。
土砂は動かさず、そのまま残す。
排水口の上には古い石壁が続いていた。壁の向こうは管理所の資材置き場だった。
「そこに旧縦坑があると思うか?」
「候補には入る。確かめるまでは場所を決めない」
*
管理所へ戻ると、別の職員が東保守路の再開予定を尋ねに来た。
西側の通路が混んでいて、来週には東側を使いたいらしい。
「再開はいつになりますか?」
「安全確認が済んでからだ」
「来週までには必要なんです」
「知ってる。だが今は排水の行き先さえ全部確かめられていない」
「通路を使うだけなら……」
「床の下に何があるか分からない状態で日付は入れられん」
職員は一度口を開いたが、それ以上は言わなかった。
利用者を待たせれば不満が出る。
だからといって日付を先に決めてしまえば、それまでに調査を終わらせようと現場が無理をする。
グレンは今日の報告を一枚にまとめた。
『確認粉、旧第三排水口付近で検出。流路未確定』
『旧東縦坑の貸出札と格子交換記録あり。位置未確定』
次の作業予定には『旧縦坑資料確認』『資材置き場の床面調査』と書いた。
トウマたちに連絡するかは、そのあとで決める。
まず職員だけで確かめられることがある。
グレンは現行の地図を広げた。
排水口から延ばした線は、資材置き場の端で途切れている。
昨日までただの空白だった場所に、今度は古い道具の貸出番号が重なった。




