第35話 右の路地は、外れだったはずなのに
「一人で受けるんですか?」
受付の職員が登録札を見直した。
ミレアは頷いて依頼票を差し出した。トウマでもセオでもなく、自分の名前だけで依頼を受けるのは久しぶりだった。
「今日は一人。場所を知らせるだけならいいんでしょ?」
「はい。捕まえようとしないでください。驚くと走りますから」
「分かってる」
依頼は南市場で逃げた荷引き魔物の捜索。見つけた場所を知らせれば達成だ。報酬は高くないが、相手を倒す必要もない。
今日は三人で受ける依頼がない。トウマは朝からネイラの工房へ出かけ、セオは薬舗で包帯の入荷を確かめると言っていた。
宿で休んでいてもよかった。それでもミレアは、自分の足で掲示板の前まで来ていた。
昨日の青い石の壁が頭から離れない。
誰より先に危ない気がして下がった。そのあとグレンが石の浮きを見つけた。
前にも似たことはあった。森での捜索や魔物との戦い、ひびの入った魔石を見たとき。思い返せば気になる場面がいくつもある。でも、外れた勘だってあったはずだ。そっちを忘れているだけかもしれない。
トウマに相談したら、きっと名前まで付けてくれる。
そんなことをされたら、確かめる前に答えが決まってしまう。
*
「逃げたのは灰色で背中が丸い。首に革紐が残ってるはずだ」
南市場の荷置き場で依頼人の男が荷車を指した。空になった荷台には樽を載せていた跡がある。
「何があったの?」
「積んだ樽が落ちたんだ。大きな音に驚いて紐を切って逃げちまった」
「いつ?」
「朝の二番目の鐘より前だ」
もう時間が経っている。捜す範囲も広がっているだろう。
ミレアは荷車の横にしゃがんだ。乾きかけた泥に太い蹄の跡が残っている。
南の路地へ向かっていた。途中で足を滑らせたのか跡が一つ深い。壁の低いところには、引きずった革紐で擦れたような細い線もあった。
「……普通に分かるじゃん」
耳や鼻を使うまでもなく追える。肩の力が少し抜けた。
路地を抜けて石畳へ出ると蹄の跡が薄くなった。代わりに野菜の葉が一束落ちている。
近くの八百屋の店主が、ミレアを見るなり嫌そうな顔をした。
「灰色の荷引き魔物を見なかった?」
「見たよ。うちの葉物を食いやがった。あっちへ行った」
「追いかけなかったの?」
「野菜一束のために店を空けられるかい。代金を払ってくれるなら別だけどね」
「……ごもっとも」
店主が指した先へ向かう。
荷引き魔物は仕事に慣れた家畜だ。人の集まる市場で暴れ続けるとは思えないが、見慣れない者が追えばまた驚くだろう。
道が二つに分かれた。
右は木箱が並ぶ狭い裏路地。左は水路沿いの広い道だ。石畳にはどちらにも足跡が見えない。
ミレアは右を見た。
気になる。
理由は分からないのに、何度見直しても右へ目が向く。
「……試してみる?」
耳を澄ませる。
荷車の車輪、人の話し声、離れた工房の槌の音。魔物の鳴き声は聞こえない。市場の魚と香辛料の匂いが混ざり、鼻でも区別できなかった。
それでも右が気になった。
ミレアは裏路地へ入った。積まれた木箱の脇を通り、もう一つ角を曲がる。
行く手には高い壁。
荷引き魔物はおろか、抜け道もない。
「……外れじゃん」
何を期待していたのだろう。
壁を蹴りたくなったが、人の家の壁なのでやめた。引き返そうとして木箱の横を通りかける。
ふと足が止まった。
今度は上が気になる。
見上げても、壁に古い板が立てかけてあるだけだ。何に使う板なのかも、いつから置いてあるのかも分からない。
別に用はない。ミレアは一歩離れた。
ぱき。
板を支えていた細い木片が折れた。
長い板が傾き、石畳へ落ちる。
がたん、と乾いた音が響いた。
「危なっ……!」
さっきまで立っていた場所だった。
猫耳がびくりと動く。さらに一歩下がって板が動かないことを確かめると、落ちた端が割れていた。
そばに人がいなくてよかった。
ミレアは板と、折れた木片を見比べた。
今のを感じたのだろうか。
先に右が気になった理由もこれだったのか。でも板が倒れそうだと分かったわけじゃない。たまたま離れただけだと言われても言い返せない。
「……分かんないな」
路地の入口へ戻る途中、箱を運ぼうとしている住人とすれ違った。
「あの、奥の板が倒れてるよ。端も割れてるから気をつけて」
「えっ。誰か怪我したのかい?」
「してない。少なくとも、あたしが見たときは」
「そりゃよかった。片づけておくよ」
住人は荷物を置いて奥へ向かった。
板が倒れたことは確かだ。
それ以外は、まだ何も分かっていない。
*
「勘で探すのはやめ」
分岐まで戻り、今度は左の水路沿いへ進んだ。
湿った土が残る場所で、ようやく太い蹄の跡を見つける。革紐を引きずった細い線まで続いていた。
「最初からこっち見ればよかった」
間違えて歩いた分だけ時間を使った。
トウマなら『危険を避けるための特別な感覚だ』と喜ぶかもしれない。けれど荷引き魔物を探すために右へ行った判断は外れだった。
足跡を追って古い倉庫の裏へ回る。
途中で跡は途切れたが、壊れた柵の向こうで草の先が噛み切られていた。切り口はまだ新しい。近くの地面には水をこぼしたような跡もある。
柵へ近づくと、奥から鼻息がした。
灰色の荷引き魔物が草を食んでいる。背中は丸く、首には短い革紐が残っていた。
「いた」
魔物は顔を上げたが、すぐには逃げなかった。
ミレアが一歩進むと後ずさりしたので、足を止める。
「追わないよ。あんたも逃げなくていい」
話が通じるとは思わない。それでも低い声で話しかけながら目印を確かめた。
赤い屋根の倉庫。水路から二本目の道。壊れた柵。
依頼人をここへ案内できればいい。
戻りかけると魔物が鼻を鳴らした。
振り返っても、付いてくる様子はない。
「一緒に帰る?」
魔物は草を噛み続けた。
「だよね」
ミレアは依頼人の男を呼びに走った。
男は丈夫な縄と餌袋を持ってやってきた。魔物は餌袋の音を聞くと、自分から柵へ寄ってきた。
「ほら。こっちだ」
男が餌を見せる。
魔物は大人しく近づき、縄を掛けても嫌がらなかった。
「最初から餌を持って探したらよかったんじゃない?」
「どっちへ行ったか分からねえから依頼したんだよ。助かった」
「……それもそうか」
ミレアが場所を見つけなければ、男もここへ来られなかった。
壊れた柵から出てきた荷引き魔物を見送り、ギルドへ戻る。
受付では足跡と革紐の擦れ跡、八百屋の証言、それから発見場所を報告した。職員は聞き取った情報を依頼票へ記入する。
「発見した場所がはっきりしているので達成です。お疲れさまでした」
受け取った報酬袋は軽かった。
それでも自分で依頼を選び、捜して、見つけて帰ってきた。
右の裏路地へ入った話はしなかった。依頼とは関係がない。
*
昼を少し過ぎていた。
屋台で串焼きを一本買い、残りの肉を噛みながら宿へ向かう。
「ミレアさん。今日は別行動だったんですね」
救護鞄を肩に掛けたセオが追いついてきた。包帯の入荷を確かめてきたところらしい。
「街の依頼を一つやった。ちゃんと達成したよ」
「怪我はありませんか?」
「ないよ。捜して報告するだけだったし」
「それなら何よりです」
セオはそれ以上聞かずに歩きだした。
少し迷ってからミレアが呼び止める。
「ねえ。勘ってどのくらい信用する?」
「薬を選ぶときは信用しません」
「そういう話じゃなくて」
セオは足を止めた。
すぐには答えず、彼女の顔を見る。
「危ない気がするだけでも?」
「勘は逃げる理由には使う。進む理由にはしない。僕ならそう考えます」
「当たったかどうか分からなくても?」
「一歩下がるだけなら安いです。気になるからと知らない道へ進んだら、何があるか分かりません」
ミレアは串の最後の肉を食べた。
右の路地に魔物はいなかった。
あの感覚を信じて入ったのは自分だ。けれど板が落ちる前に下がったことまで、全部なかったことにはしたくなかった。
「……そっか」
「何かありましたか?」
「いや。ちょっと聞きたかっただけ」
セオは追及しなかった。
宿へ戻ると、女将から紙片を渡された。
「ネイラさんの工房から、トウマにって」
「また何か思いついたのかな」
広げると、ネイラの字で短い伝言が書かれている。
『台の仮組みは終わった。外で試せ。たぶん立つ』
「たぶんって何さ」
「それはトウマさんが聞くべきですね」
「喜びそうだけど。『屋外実装』とか言ってさ」
紙をテーブルへ置いたあと、ミレアはもう一度「たぶん」の二文字を見た。
ネイラでさえ、試していない道具に言い切ることはしないらしい。
右の路地で何があったかは誰にも話していない。
ミレアは自分の荷物を下ろした。
トウマが戻ったら、まず台が本当に立つのか確かめさせよう。
自分の勘が何だったのかは、まだ確かめようがなかった。




