第33話 六百リル返ってきても帳簿は閉じられない
「……まだ支払い済みにはできませんね」
朝食のパンを食べ終えたセオは、共同経費帳を開いた。
道標事件の負傷者二人に使った包帯と洗浄薬が、未精算の欄に残っている。管理所へ処置の報告を出したのは一昨日だが、費用の負担が決まったという連絡はまだない。
「お代わりは?」
宿の女将が空になった皿を見て声を掛けた。
セオは首を横に振り、帳面を閉じる。
「結構です。昼用のパンを一つ包んでもらえますか」
「昼も帰ってくればいいのに」
「仕事が済めばそうします」
女将は布にパンを包んで渡した。
代金は自分の財布から払う。食事まで共同経費に入れるつもりはない。
トウマとミレアには別の用事があるらしい。朝から三人で動く約束もなかったので、今日は一人で管理所へ行くことにした。
救護用品を補充する前に、申請した費用の明細を確認しておきたい。
支払われるかどうかは別として、記録が受け付けられていることだけは確かめておく必要がある。
*
北西迷宮管理所の窓口には、泥の付いた靴の冒険者たちが並んでいた。
受け取った番号札は十七番。
セオは壁際の椅子に腰を下ろし、順番を待ちながら経費帳を開いた。
「いってぇ!」
隣の男が膝を長机の脚にぶつけた。
包帯の巻かれた足を伸ばし、顔をしかめている。
「その足は無理に動かさないように言いましたよね」
「……あんたか」
男は道標の前で手当てした冒険者だった。
昨日の報告で名前を知った。ブラムという。
逆向きの出口表示に従って西の奥へ進み、岩甲虫に追われて膝を痛めた男だ。
「あんたに聞きたいことがある」
「何でしょう」
「治療代が俺に回ってくるって本当か?」
「誰から聞いたんですか?」
「酒場で聞いた。道標を動かしたやつが払わなけりゃ、怪我した本人から取るって」
「まだ決まっていません。僕は使った物の代金を管理所へ申請しただけです」
「じゃあ俺は払わなくていいんだな?」
「そこまでは言えません。決めるのは管理所です」
ブラムは口を曲げた。
足が治るまで運搬の仕事に戻れないらしい。椅子に座ったまま、足元の荷袋を何度も引き寄せている。
「いくら使ったんだ?」
セオは帳面を開いて見せた。
「洗浄薬が百四十リル。包帯二巻が三百六十リル。処置用の布が九十リル。合計五百九十リルです」
「包帯二巻も使ったか?」
「あなたに一巻。同行者にも一巻です。余った分は持ち帰ってもらいました」
「あいつ、昨日その包帯で荷物を縛ってたぞ」
セオは数字を指で押さえたまま顔を上げた。
「……傷に使うよう伝えてもらえますか?」
「何だよ。そんなにまずいのか」
「次の処置で足りなくなったら困るのは本人です。包帯を使い切ったからといって、治癒魔法だけで全部済むわけではありません」
「分かったって」
「清潔な布が必要になってから買いに行くのでは遅いですから」
「言っとく。ちゃんと言っとくから」
ブラムは気まずそうに鼻をかき、窓口の方を見た。
足を痛めて仕事を休んでいるのに、さらに治療代を請求されるかもしれない。落ち着かないのも無理はない。
ただし、だからといってセオが勝手に支払先を決めることはできなかった。
しばらくして十七番が呼ばれる。
担当職員は一昨日提出された処置の報告を取り出し、セオが持参した経費帳と照らし合わせた。
「洗浄薬一瓶、包帯二巻、処置用の布ですね」
「はい。合計五百九十リルです」
「負傷者のお二人には、改めて処置の内容を確認します。金額についても確認が必要です」
「支払いの見込みは?」
「まだお答えできません」
「では、申請を受け付けた控えに支払日未定と書いてください」
「……現在、確認中ということですが」
「確認中だから未定ですよね」
職員はセオの顔を見たあと、受領印の横へ日付と『支払日未定』を書き添えた。
セオは控えを受け取り、金額と記載内容を確かめる。
「ありがとうございます。確認が済んだら連絡をお願いします」
共同経費帳には、受領された日付だけを書いた。
五百九十リルは未精算の欄に残したままにする。
窓口を離れると、ブラムがまだ順番を待っていた。
「どうだった?」
「申請は受け付けられました。支払う人はまだ決まっていません」
「そうか……」
「必要なら僕の控えも見せます。金額が違うと言われたら、先に確かめてください」
ブラムは小さく頷いた。
勝手に請求が回ってこないと約束したわけではない。それでも先ほどよりは、足元の荷袋を動かさなくなっていた。
*
「包帯を二巻と洗浄薬を一瓶ください」
昼前に立ち寄った薬舗で注文すると、店主のリッカは棚から瓶を取り出した。
しかし包帯の置き場では手を止める。
「いつもの布は一巻しかないよ。次の荷が雨で遅れてるんだ」
「入荷はいつですか?」
「まだはっきりしないね。薄い方なら何巻かあるけど」
セオは差し出された布を指先で確かめた。
普段使っているものより薄く、強く引くと伸びてしまう。
「これを傷の固定に使うのは避けたいです」
「安いんだから仕方ないだろ」
「安くても必要なときに使えなければ困ります」
「説教するなら買わなくていいよ」
リッカは不機嫌そうに言ったものの、いつもの包帯一巻は取り置いてくれた。
セオは洗浄薬と一緒に買い、代金をいったん個人の財布から支払った。共同用に補充した分は、あとで帳面に記録して精算すればいい。
「入荷が分かったら教えてください」
「分かったよ。いつもの布だね」
「お願いします」
不足する包帯は、あと一巻。
手元の私物から一時的に回すことはできるが、それでは自分の予備が減る。次の依頼までにそろえばいいのだが。
セオが荷物をまとめていると、入口の鈴が鳴った。
「傷薬、いつものを一瓶」
振り返った先に立っていたのは、使い古した革鎧の男だった。
肩には新しい布の継ぎ当てがある。
「……セオ」
「ダン」
以前のパーティーでリーダーを務めていた男だ。
ダンは一瞬足を止めたが、そのまま店の台へ小さな革袋を置いた。
「薬をくれ。あと包帯も買えるなら欲しい」
「先に勘定だよ。この前も金が足りないって言ったろ」
「今回は持ってきた」
リッカの言葉に答えながら硬貨を並べる。
セオは店を出ようとしたが、ダンが声を掛けてきた。
「まだあの二人と組んでるのか?」
「今は三人です。正式に続けることになりました」
「治癒役を後から入れたのか。堅実だな」
「怪我をしてから薬代を相談するよりは」
ダンの手が止まった。
リッカは何も言わず、瓶を拭き始める。
以前の組でセオが立て替えた薬代は二千八百リルだった。
治療した本人に請求したいわけではない。共同で使うと決めた物の支払いを、誰も引き受けないまま残してほしくなかった。
「……六百なら返せる」
ダンは硬貨を寄せた。
「薬を買いに来たんでしょう?」
「明日から新しい組で護衛に出るんだ。今度は薬も自分たちで用意しろって言われてる」
「そうですか」
「あいつらにまで借りを作りたくねえ。お前の分も今のうちに少し返しておく」
「全部は払えないのに?」
「全部そろうまで待ってたら、また顔を合わせられなくなるだろ」
セオは差し出された硬貨を数えた。
間違いなく六百リルある。
個人用の薄い帳面を取り出し、日付と返済額を記入する。
二千八百リルから六百リルを差し引いて、残りは二千二百リル。
受領の控えを一枚書いてダンへ渡した。
「相変わらず細けえな」
「相変わらず払う前に文句を言うんですね」
「……そういうとこ変わらねえな」
「変える予定はありません」
ダンは苦笑いしながら控えを鎧の内側へしまった。
財布にはまだ薬を買うための硬貨が残っている。
「なあ。新しい組の連中に聞かれたら、俺と一緒に仕事したことがあるって話してくれないか」
「事実ですから話せます」
「逃げずに前へ出る男だってことも言ってくれ」
「聞かれたら言います」
ダンの顔が少し明るくなる。
「金を預けて大丈夫かと聞かれたら、今日六百リル返してもらったことも答えます」
「……残りも言うんだろ?」
「もちろんです」
ダンは口をへの字に曲げた。
しばらくして台に残った硬貨を数え直し、リッカへ向き直る。
「薄い方の包帯って何が違うんだ?」
「使う場所によるね。見せてやるから待ちな」
リッカが棚から布を出した。
新しい組で必要な道具なら、ダン自身で選べばいい。
セオは六百リルを個人の財布へしまい、薬舗を出た。
*
「セオ! ちょうどよかった」
店の外にトウマがいた。
石段の端に腰を下ろし、紙を広げて何か描いている。近づくと、折り畳み台の脚らしい絵が見えた。
「また改造するつもりですか?」
「ネイラの工房に寄った帰りだよ。夕方なら途中の形を見せられるってさ」
「もう完成ですか?」
「まだ。試作品ができるまで待つしかないらしい」
トウマは立ち上がってセオの手元を見た。
「包帯一巻だけ?」
「いつもの物が品切れです。次の荷が遅れているそうで」
「足りなくないか?」
「共同用としては一巻不足しています。今は僕の私物から一巻回せますが、その分は補充してもらいます」
「それなら任せるよ」
セオは経費帳を開く手を止めた。
前の組でも同じ言葉を聞いた。
任せると言われて薬を買い、いざ請求すると誰も金の話を覚えていなかった。
「トウマさん」
「何?」
「任せるというのは在庫を管理することです。代金を全部僕が出すという意味ではありませんよね?」
「当たり前だろ。三人で使う物なんだから」
「では後から立替分を請求します」
「うん。使った物が分かるように書いといて」
トウマは当然のように返した。
それから手に持っていた紙を裏返し、折り畳み台の絵の横へ何かを書き加える。
「道具の値段も書いておかないとな。完成してから追加で請求されたら困る」
「……試作費はトウマさんの個人負担です」
「分かってる。そこは俺の財布だ」
セオは経費帳の在庫欄を開いた。
共同用の包帯は一巻不足。私物から一巻貸し出し、入荷後に戻す予定。
誰が管理するかと、誰が支払うかは決まっている。
前の組では曖昧だった部分だ。
「そういえば、今日六百リル返ってきました」
「共同経費?」
「僕の個人の金です」
「じゃあ飯おごって」
「なぜです?」
「言ってみただけ」
「嫌です」
「即答かよ!」
そこへミレアが市場の方から歩いてきた。
紙袋から干し肉の匂いがする。
「何してんの?」
「セオが六百リル手に入れた」
「へえ。じゃあ干し肉代出してよ」
「二人とも何で僕の財布を当てにするんですか!」
セオが帳面を閉じると、ミレアは笑った。
トウマは干し肉の袋を覗き込み、どれが一番安かったのか聞いている。
「一番安いのは味が薄かったからやめた」
「値段だけじゃ決めないんだな」
「食べるのはあたしだもん」
そんなやり取りを横で聞きながら、セオは明日の共同在庫の欄に書き足した。
『包帯一巻不足。私物から一時補充。入荷確認』
その下には、今日買った洗浄薬と包帯の立替も記録しておく。
次に個人帳を取り出した。
ダンからの返済六百リルは今日の欄に記入済み。残る二千二百リルはまだ消さない。
トウマが横から個人帳を覗こうとした。
「何書いてるんだ?」
「個人の記録です」
「宝箱の場所?」
「僕の帳面にまで宝箱を探さないでください」
ミレアが吹き出した。
セオは個人帳を救護鞄の奥へしまった。
するとトウマが真顔で言った。
「でも二千リルもあれば、宝箱を探す装備くらい――」
「金額は教えていませんよね?」
「適当に言っただけだって!」
セオは今夜から個人帳の置き場所も考えることにした。




