第14話 街道の移動は車輪一つで止まるらしい
「兄ちゃん、これ忘れてる!」
出発する荷馬車の荷台に足を掛けたところで、リナが家から飛び出してきた。
差し出されたのは、布で包んだ朝飯だった。母さんからはもう受け取っている。なのに妹は、俺の鞄へ押し込もうと両手を伸ばしてきた。
「食料ならあるぞ」
「知ってる。これはおやつ!」
「朝飯食ったばっかりなんだけど」
「じゃあ昼に食べて!」
押し問答していると、荷馬車の御者が手綱を持ち直した。俺たちのほかにも荷を運ぶ予定がある。ここで出発を遅らせれば、最初の街道宿へ着く時刻までずれてしまう。
包みを受け取り、荷台の隅へ置いた。
「ちゃんと食べてね。それと、もう一つ!」
「今度は何だ」
「ルーヴェルの紙!」
リナは両手で大きな四角を作った。
「こっちの紙より、もっと大きくて、つるつるしたやつ。絵をいっぱい描けるのがいい!」
「そんなに大きかったら持って帰れないぞ」
「折ればいいじゃん」
「絵を描く紙を折ってどうするんだよ」
「じゃあ折らずに持ってきて!」
注文の難易度が上がった。出発前から追加クエストとは、妹もなかなか容赦がない。
「売ってたら探すよ」
「約束だからね!」
小指を差し出されたので、右手で引っ掛けた。リナは満足したらしく、ようやく荷馬車から離れてくれる。
母さんは俺の左腕を見ていた。
「まだ重いものを持っちゃ駄目だからね。傷が閉じても、中まで全部治ったとは限らないんだから」
「分かってる。右手を使うよ」
「左手を使わなきゃいいって話じゃないよ」
「……はい」
横からミレアが笑った。
「ちゃんと見ときます」
「ミレアちゃんもよ。肩、無理に動かさないこと」
「……はい」
今度は俺が笑う番だった。
父さんは荷台に積まれた俺たちの荷物を確かめていた。余計な道具は昨日のうちに減らしたから、網も予備の縄も必要な分しかない。
その横に、小さな布袋を置かれる。
「畑用の木杭だ。道端の枝よりは当てになる」
「昨日、荷物を減らせって言ったの父さんだろ」
「重いなら置いていけ」
袋を持つと、思ったほど重くない。使い道も分かる。
鞄の横へ収めると、父さんは俺の腰の剣に目を移した。
「ボルドに直してもらったんだな」
「うん。ちゃんと使える」
「短くなった分、前と同じ間合いで振るなよ」
「分かってるって」
「それと、折る前に帰ってこい」
そう言って、畑の方へ歩いていった。
俺がまだ何か言おうとしているうちに、父さんはもう作業を始めている。出発の見送りも、農家の朝仕事までは休ませてくれないらしい。
「トウマ、乗るよ!」
ミレアが先に荷台へ上がった。
俺も続き、御者に声を掛ける。荷馬車が動き始めると、リナが大きく手を振った。
「兄ちゃん! 紙、忘れないでよ!」
「分かったって!」
「いい紙だからね!」
「値段も考えてくれ!」
最後の言葉は、車輪の音に負けた。
*
荷馬車での移動は、思ったほど楽ではなかった。
板張りの荷台は道の凹凸を拾うたびに跳ねる。尻の下に畳んだ布を敷いても、座る場所を間違えれば木箱の角が背中に当たった。
「前世の乗り物はもっと快適だったんだけどな」
「またその話?」
「座ってるだけで遠くまで行けたんだぞ」
「これも座ってるだけでしょ」
「尻が痛い」
「歩く?」
「……今のままでいい」
ミレアは鼻で笑い、道の向こうへ視線を戻した。
ハルディンから離れるにつれて、畑よりも旅人の姿が増えていく。荷車を引く商人、背中に道具を担いだ職人、馬を連れた旅人。みんな同じ道を使っているのに、歩く速さも持っている荷物も違った。
道が狭くなると、向こうから来た荷車を通すためにこちらが止まる。
そのたび御者は馬を道端へ寄せ、すれ違う相手に短く声を掛けていた。
「ここ、もう少し広くならないのか?」
尋ねると、御者は車輪の通った深い轍を見下ろした。
「雨が続けばもっとひどくなるぞ。広げたって、道を直す人間がいなきゃ同じだ」
「じゃあ、直せばいいんじゃないか」
「誰が?」
「……誰だろうな」
俺は口を閉じた。
前世の道路は、誰かが直していたはずだ。少なくとも、穴が開いたまま何年も放っておくものではなかった。
ただ、その誰かがどうやって金を受け取っていたのか、思い出せない。
そんなことを考えているうちに、午後から雨が降り始めた。
最初は小さな雨粒だったが、しばらくすると荷台を覆う布が重たく垂れ下がってきた。御者は馬の様子を見ながら速度を落とし、早めに街道宿へ入ると言った。
軒下で荷物を下ろすころには、俺の靴もミレアの尻尾も湿っていた。
「野宿ならもっと節約できたのに」
「薪が濡れてるでしょ」
「《イグナイト》なら火はつけられる」
「つけても消えるって。それに、あんたの腕で薪集めするつもり?」
言い返せずにいると、宿の女将が入口から顔を出した。
「泊まるなら早く決めとくれ。ほかの荷馬車も来るよ」
空いていたのは寝台が二つある小部屋だった。
ミレアは真っ先に窓の鍵を確かめ、寝台の片方に荷物を置いた。俺は部屋代を思い浮かべながら、乾いた布で鞄を拭く。
階下から煮込みの匂いが上がってきた。
「……飯、頼めるかな」
「さっきまで野宿って言ってなかった?」
「食事は別だ。体力回復は優先事項だろ」
「都合のいいときだけそういうこと言う」
結局、温かい夕飯を頼むことになった。持参した乾燥肉は、明日も食べられる。
食堂には荷運びの男たちがいて、翌日の天気や、途中の坂で車輪を傷めた商人の話をしていた。女将は客の荷の量を見ながら、馬を休ませる場所まで案内している。
ハルディンの宿屋では、こういう光景をほとんど見たことがない。
うちの村にも宿はある。けれど泊まる旅人が少なければ、女将がどれだけ料理を作れる人でも、食べる客がいない。
俺は食後、鞄から小さな覚え書きを取り出した。
「また何か書いてんの?」
「ハルディンに足りないものだよ」
「さっきの道も?」
「うん。あと宿屋の客」
紙に二つの項目を足したところで、視界の端に青白い文字が浮かぶ。
【拠点メモ:ハルディンに足りないもの】
・街道
・宿屋の客
おお、追加されてる。
やっぱり拠点の施設を増やすには、周りの環境も整えないと駄目らしい。
「何笑ってんの」
「拠点強化の条件が見えてきた」
「雨、止むかなあ」
ミレアは窓の外を見ながら答えた。
会話が噛み合っていない気もするが、こいつも明日の移動が気になるんだろう。
寝る前に鞄を整理していると、朝リナが押し込んだ包みの中から折り畳まれた紙が出てきた。
『ちゃんとごはん食べて。リナ』
裏には、欲しい紙の大きさが描いてある。
「……これ、持って帰る方が難しそうだな」
ミレアが覗き込み、吹き出した。
「あんた、妹にも仕事増やされてるじゃん」
*
翌朝、宿を出た荷馬車が街道の坂へ差しかかったところで、前方から木の割れる音がした。
先を走っていた荷車が、右へ大きく傾いている。
「止まって!」
声を上げたのはミレアだった。
こちらの御者が馬を止めるのとほぼ同時に、前の荷車から女の怒鳴り声が飛んでくる。
「そっちへ寄せるな! 坂の下へ落ちる!」
積んであった木箱が傾き、一つが地面へ落ちた。箱の角が割れ、乾燥した根菜が道へ転がっていく。
俺は反射的に荷台から飛び降り、箱を受け止めようとした。
右の肩紐が急に引かれる。
「待ちなさいって!」
ミレアだった。
「あんたの腕、まだ治ったばっかりでしょ!」
「あ、そうだった」
「そうだったじゃない!」
転がった根菜は坂の途中で止まったが、荷車の右後輪は少しずつ外側へずれていた。
御者の女は二頭の荷引き魔物を止め、車輪へ石を噛ませる。短く切った髪には、朝から土埃が付いていた。
「留め木が割れたか……」
車軸の先を押さえる木の留め具が、根元から欠けている。
そのまま走れば車輪が外れかねない。
「何か手伝えること、ありますか?」
近づいて声を掛けると、女はまず俺の左腕を見た。
「車体の下に入れるかい?」
「すみません。怪我が治ったばかりなんです」
「じゃあ入るな。後ろから荷車が来ないか見てて」
俺の仕事は一瞬で決まった。
ミレアはもう坂の上へ向かい、後続の荷車に手を振っていた。左肩を大きく動かさず、右腕だけで合図している。
「そっちの道、少し空けて! 車輪が壊れてる!」
俺たちを乗せてきた荷馬車の御者も降り、馬を安全な位置へつないだ。
壊れた荷車の女はクレナと名乗った。ルーヴェルへ保存食を運ぶ途中らしい。
「昼までに納めないと、相手がほかから仕入れちまう。参ったね」
「修理できそうですか?」
「留め木だけなら。でも車軸にも傷が入ってる。荷を全部積んだままじゃ危ない」
クレナは車輪が動かないように石を追加し、荷引き魔物を道脇の杭へつなぎ直した。
ようやく縄を緩めたところで、後ろから来た別の御者が顔を出す。
「まだ動かないのか?」
「手を貸してくれたら早いよ」
「こっちだって荷があるんだぞ」
「ここが塞がってたら、あんたも進めないだろ」
男は不満そうだったが、荷車を降りてきた。
重い箱を下ろすのは御者たちに任せ、俺は小さな箱の荷札を確かめる。最初に掴もうとした箱は重すぎたので、左手を添える前に諦めた。
クレナは荷台から長い棒を引き出した。
その棒を車軸の下へ差し込み、平たい石を支点にする。男たちが棒を押すと、少しだけ車体が持ち上がった。
「そのまま押さえて!」
クレナは外へずれた車輪を軸の奥まで戻した。
俺は横から傾きを見る。
「もう少し奥です。……そこ!」
車輪は元の位置へ戻ったものの、留め木がなければまた抜ける。
「替えはないんですか?」
「昨日までは割れてなかったんだよ。予備なんか積んでない」
そこで父さんの木杭を思い出した。
鞄から一本取り出し、車軸の穴へ当ててみる。
「これなら……」
入らない。
細すぎた。
二本束ねれば太さは近づくが、一本だけ外れたら意味がない。無理に押し込んでも、途中で割れるかもしれない。
「駄目だな。これじゃ止まらない」
「そうだね。穴に合う一本を作った方がいい」
クレナは迷わず杭を返してきた。
「道端で真っすぐな枝を探して。硬いのがいい」
俺が枝を探している間に、彼女は割れた留め木を外し、穴の形を確認していた。
持ってきた枝を削るのもクレナ自身だった。
小刀を少しずつ動かし、穴に差しては抜き、引っ掛かる部分をまた削る。最後に外側を太めに残して通し、革紐で抜け止めを掛けた。
「これで走れる?」
ミレアが戻ってきて尋ねる。
「試してからだね」
クレナは支えを外す前に車輪を手で回し、荷を載せていない状態で少しだけ車体を動かした。
一度止めて留め木を押す。
もう一度、ゆっくり動かす。
それでも車軸には傷が残っている。
「全部積み直したら、また壊れるかもしれない」
クレナは下ろした木箱の山を見た。
朝から急いで運んできた商品だ。ここで置いていけば、届け先との約束に間に合わなくなるものもある。
「坂の下に荷物を預かるところがあったよ」
ミレアが道の下を指さした。
「そこに一部を置いて、別の荷車に運んでもらえば?」
「預け賃も運び賃も掛かるよ」
「車輪が完全に壊れるよりは安いと思うけど」
クレナは箱の荷札を見ながら、しばらく黙った。
やがて腰に付けた小さな帳面を取り出し、届け先ごとに荷物を分け始める。
「今日どうしても届ける分と、明日でも何とかなる分を分ける。預かり場に空きがあるか聞いてきてくれる?」
「あたしが行く」
ミレアが坂を下っていく。
残った俺は荷札の番号を読み上げ、クレナと御者たちが箱を分けるのを手伝った。
やがて預かり場から低い手押し台が運ばれてきた。係の男は荷札を一つずつ確かめ、クレナと運送便の相談を始める。
「昼過ぎの便へ載せられないかい?」
「空きがあるか先に調べる。積める量で料金も変わるぞ」
「分かった。傷んだ車輪で全部運ぶよりはましだ」
俺たちが口を出せる話は、そこまでだった。
クレナは必要な荷だけを積み直し、右後輪に重さが偏らないよう左右の縄を締める。
車輪をもう一度回してから、ようやく息をついた。
「よし。町まではゆっくり行くよ」
クレナの荷車が動き出すと、道を塞がれていた荷馬車も順番に進み始めた。
手伝ってくれた御者たちは、それぞれの荷へ戻っていく。
俺たちも元の荷馬車へ戻ろうとしたところで、クレナに呼び止められた。
「二人とも、手伝い賃は要るかい?」
「欲しいです!」
即答すると、隣から肘で小突かれた。
「何でそんなに嬉しそうなのよ!」
「いや、金は必要だろ!」
「必要だけど、もうちょっと遠慮しなさいよ!」
「遠慮したら貰えないかもしれないじゃん!」
クレナは声を上げて笑った。
それから割れた箱のそばへ行き、売り物にならなくなった根菜を袋へ詰めてくれる。
「金は車輪の修理代に残しておきたいんだ。食べられるところはあるから、これで勘弁して」
「ありがとうございます!」
俺は袋を受け取った。
売り物にならない根菜でも、調理すれば食費を減らせる。こういう節約は馬鹿にできない。
ただ、魔法鞄を買う金は増えなかった。
クレナは俺たちの荷物を見て、さらに言った。
「荷物が軽くて助かったね。あんたたちまで大荷物だったら、こんなに動けなかったよ」
「昨日、持ってくるものを減らしたんです」
「そうかい。旅慣れてるねえ」
俺は胸を張った。
「準備が大事ですから」
昨日、父さんとミレアに荷物を減らされたことは黙っておこう。
*
ルーヴェルの外壁が見えたのは、日が傾き始めたころだった。
「……でか」
ミレアが小さく呟いた。
石造りの壁が道の先を塞ぐように続き、その奥から建物の屋根がいくつも突き出している。
門へ向かう荷車の列は、ハルディンの広場で見た人の数よりずっと多かった。
俺たちは荷馬車を降りて歩行者用の列へ並び、登録証を出す。門番が札を確認している間にも、隣の荷車用の列では積み荷の検査が続いていた。
後ろから、聞き覚えのある車輪の音がする。
振り返ると、クレナの荷車だった。
門番に右後輪を見せ、道路の脇へ誘導されている。クレナはこちらに気づいて片手を上げたが、すぐに車輪の説明へ戻っていった。
こっちも手を振ってから、門をくぐる。
最初に目に入ったのは、道の両側に並ぶ店だった。
片側には給湯の魔道具を売る店。反対側ではドワーフの職人が金属箱を台車へ積み、通りの奥からは焼きたてのパンの匂いが流れてくる。
夕暮れなのに、店先の灯りはすでについていた。
「すげえ……」
俺は思わず立ち止まった。
直後、後ろから声が飛ぶ。
「おい、真ん中で止まるな!」
慌てて道の端へ寄る。
ハルディンなら、道の真ん中で考え事をしていても、誰かに邪魔だと言われることはほとんどない。
こっちは立ち止まるだけで荷車が詰まるらしい。
「まず宿!」
ミレアが先に歩き出した。
「待て。せっかくだから町の構造を調べよう」
「それは後!」
「いや、初めての町は地図を手に入れるのが基本だろ」
「部屋がなくなったら、地図を枕にして寝るの?」
「……それは困る」
宿探しを優先することにした。
冒険者ギルドへ通いやすそうな下町の宿で空き部屋を尋ねると、寝台が二つある部屋なら残っているという。
別々の部屋を借りる余裕はない。
ミレアは値段より先に寝台の数と戸の鍵を確かめ、俺は朝飯が付くかどうかを聞いた。
「何でそんなところまで聞くのよ」
「朝飯を外で買うより安いかもしれないだろ」
「食べることだけは抜かりないわね」
「食費を減らせば、その分だけ稼ぎが残る」
部屋を確保したあと、ようやく地図屋へ向かった。
店先には古い地図と新しい地図が並んでいる。古い方が安かったので手を伸ばしたが、ミレアが横から新しい方を取った。
「こっちでしょ」
「高いぞ」
「こっちは工事で通れなくなった道が直してある」
「古いのを買って、間違ってるところだけ覚えれば……」
「初めて来た町で、どこが間違ってるか分かるわけないでしょ」
そのとおりだった。
新しい地図を買い、宿へ戻って卓上に広げる。
冒険者ギルドの建物には、店の人が印を付けてくれていた。宿から歩いて行ける距離だが、道が思ったより入り組んでいる。
町の反対側には倉庫街があり、その先には大きな道が幾つも伸びていた。
前世の都会に比べれば、まだ不便なところは山ほどあるはずだ。
それでも、ここにはハルディンにないものが多すぎる。
明日から依頼を受けて稼ぎながら、一つずつ調べていけばいい。町づくりのための情報収集と金策を同時にこなせるなら、こんなに効率のいいことはない。
「ねえ、トウマ」
ミレアが地図の上を指で叩いた。
「明日、まず何の依頼を受ける?」
「そりゃ、稼げるやつだろ」
「一件ずつちゃんと確かめてよね」
俺はギルドの印を見つめた。
一つ受けるのも、いくつかまとめて受けるのも、同じ場所まで歩くなら大して変わらない。
「……なあ、ミレア」
「何」
「依頼って、一日に何件まで受けられるんだ?」
ミレアは地図から顔を上げ、俺をじっと見た。




