第56話:数字にできないもの
七月二十五日、午前十時。本社の役員会議室。
二か月前と、同じ部屋だった。だが、卓の奥の顔ぶれは変わっていた。大鷲は、もういない。代わりに、少し離れた席で、経営企画担当役員の財前が、静かに資料を繰っていた。狼狽も気負いも、なかった。参考人の椅子に着いたサトルを一度見て、微かに頷いた。まるで来客を迎えるように。
付議者の相良が、口火を切った。安全投資抑制方針の意思決定過程について、特別調査を求める。膨大な稟議と決裁経路を閲覧した、その結論として。
サトルは卓の上に、一枚の相関図を置いた。役員全員に、椎名が配った。
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安全投資抑制方針 意思決定 逆算 相関図(要旨)
⓪ 全社「安全投資抑制方針」(経営会議 2025-BM-014)
├→ 稼働効率化目標 150%(第三事業部)… 承認判:財前
└→ 契約数KPI(予防退魔事業部) … 承認判:財前
→〔結果〕九鬼透 死亡/森下和也 意識不明(立花物流)ほか
・決裁権限規程 第9条:本方針を上程できる立場は 経営企画担当役員 に限られる
・割付決裁 各葉に 財前の「確認判」
・方針の「発議者」欄:空白
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「方針は」サトルは言った。「誰も言い出していないことになっています。発議者の欄が空白だ。ですが、これを上程できるのは規程上、経営企画担当役員だけ。下流の全ての割付に、財前役員の確認判がある。……誰も発案していない方針が一人の判で全社に配られ、二人の人間が死ぬか、意識を失いました」
室内が、静まった。社長が、相関図の空白の欄を見た。
「財前くん」社長が言った。「これは」
財前はゆっくりと、資料を置いた。そして、笑わなかった。ただ、静かに言った。
「よくできた図です」財前は言った。「木村くんの熱意には感心します。……ですが、これは状況証拠です。私がこの方針を発案した、と書いた紙は、そこにありますか。ない。確認判は決裁の手続きにすぎない。役員が担当領域の書類に判を押すのは、当然の職務です。それをもって発案者だと断ずるのは飛躍だ。……議長、これは疑いであって、事実ではありません」
サトルは、そのなめらかさに寒気を覚えた。財前は束を一枚ずつ崩しに来ていた。確認判は職務。空白は偶然。相関は推測。一つ一つ、静かに外していく。八年前、椎名の訴えを「気のせい」で外した、あの手つきと同じだった。
「では」財前は続けた。「私からも一つ申し上げましょう。安全投資の適正化は、経営の責務です。限りある予算で最大多数を守る。全部に青天井で金をかければ、会社は潰れる。潰れれば、誰も守れない。……私はその最適解を追求した。結果として痛ましい事故があった。それは悼みます。本当に。しかし、それは経営判断の範囲内の選別であって、罪ではない。誰かがやらねばならない選別だ」
選別。その言葉が、卓の上に落ちた。何人かの役員が、頷きかけた。合理には、合理の筋があった。それは事実だった。
サトルは、立ち上がった。
「選別、ですか」サトルは言った。「その選別の外に弾かれた人間を、俺は知っています。九鬼透。二十九歳。日報に結界札が足りないと何十回も書いて、誰にも読まれずに死んだ。森下和也。三十四歳。立花物流の倉庫で夜勤中に倒れて、いまも意識が戻らない。妻と四歳の娘が待っています」
サトルは、財前を見た。
「あなたの相関図には、二人は数字で載っている。死亡、一。意識不明、一。……でも、九鬼さんが几帳面な字で日報を埋めていたことは載っていない。森下さんが娘と昼間いたくて夜勤を選んだことは載っていない。あなたは最大多数を守ると言った。じゃあ、この二人は。この二人はあなたの多数の外側だったから、削ってもいい数字だったんですか」
財前は答えなかった。初めて、その静かな顔に、ほんのわずかな間が生まれた。
「数字にできるものは削れる」サトルは言った。「稼働も、コストも、契約数も、全部数字だ。削っても痛まない。……でも、削られた先にいたのは数字じゃない。名前のある人間だ。それを数字にして選別した瞬間に、あなたは彼らをもう一度殺したんだ」
室内は、静まり返っていた。だが、サトルには分かっていた。この演説は、留飲を下げるだけの言葉だ。財前を追い詰める証拠には、ならない。財前は、それを知っていた。だから答えなかった。答える必要が、なかった。束は状況証拠。演説は感情論。設置の動議には、一枚足りない。
「議長」財前は静かに言った。「感動的なお話です。ですが、取締役会は感情で動くべきではない。……特別調査の設置は慎重に判断されるべきだ。証拠のない疑いで経営を混乱させるのは、それこそ株主への背信です」
卓の空気が、傾いた。財前のほうへ。サトルは、拳を握った。あと一枚。財前が最初にそれを口にした、その瞬間を写した一枚が無い。それが無ければ、この卓は閉じる。
そのとき。会議室のドアが、ノックされた。相良の秘書が、一枚の封筒を持って入ってきた。相良に耳打ちする。相良の顔が、変わった。
「議長」相良は言った。「監査役として閲覧を請求していた、予算関連の別書庫から。……たった今、一点届きました。二〇二四年の記録です」
名を残さなかった男が、ただ一度だけ残した、その一枚を開きます。




