第57話:ただ一度残した名
封筒の中身がコピーされ、役員全員に配られた。
サトルは、その一枚を見た。二〇二四年。安全投資抑制方針が経営会議に諮られる、一年以上前の記録だった。
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2024年度 予算編成 事前打合せ 議事要旨(予算書庫 保管)
日時:2024年11月12日
出席:経営企画部(財前ほか)/財務部
議題:次年度 予算方針の骨子
(抄)
・安全関連投資について、財前より提案:
「安全関連は、聖域ではない。予防退魔、稼働、いずれも、
まず、そこを、圧縮する。事故は、確率の問題であり、
コストとの、見合いで、最適点を、決めればよい。」
・上記を 次年度方針の骨子とすることで合意。
確認:財前(署名)
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室内が静まり返った。
財前より提案。安全関連は聖域ではない。まず、そこを圧縮する。――そして、その要旨の末尾に、確認、財前、署名。名を残さない男の名が、そこにあった。
「二〇二四年、十一月」相良が静かに言った。「安全投資抑制方針が経営会議で正式に決まる、一年以上前です。この事前打合せで財前役員が自ら、『安全は聖域ではない』『まず、そこを圧縮する』と提案し、署名している。……発議者欄の空白は、偶然ではありませんでした。方針が正式な議題になる頃には、財前役員の名は、もうどこにも残らないよう消されていた。だが、一番最初の、この打合せの要旨だけは、予算書庫に残っていた」
サトルは財前を見た。初めて、その静かな顔から血の気が引いていた。
なぜ、この一枚だけ残っていたのか。サトルには分かる気がした。二〇二四年のこの打合せのとき、まだ誰も死んでいなかった。安全を圧縮する、という言葉は、まだただの予算の話だった。賢い経営判断の一つ。名を残しても、何も危険ではなかった。だから財前は署名した。いつもの職務として。――その一枚が死角になった。血が流れる前の、無邪気な一枚。大鷲がまだ人が死ぬと思わずに、四十五件の決裁に判を押したのと同じだった。名を残さない男も、たった一度、油断していた。人を殺すと知る前に。
「これは」財前は口を開いた。声がわずかに掠れていた。「……古い打合せのメモにすぎない。骨子の議論だ。正式な決定でも――」
「正式な決定ではない」椎名が言った。静かな声だった。「ええ。だからこそ、です。財前役員。正式な決定の場では、あなたは名を残さなかった。議長として、発議者として、一度も。でも、正式になる前のこの打合せでは、あなたは自分の言葉で提案し、署名した。……つまり、あなたは知っていたんです。正式な場では名を残してはいけない、と。だから消した。消したということは、残せばまずいと分かっていた、ということです」
椎名は、その要旨の一点を指で示した。指は白かった。だが、震えてはいなかった。
「発案していないものを、人は隠しません」椎名は言った。「あなたが後の全ての場から名を消したこと。それ自体が、この二〇二四年の一枚があなたの発案だったと証明しています。……状況証拠だと、あなたは言いました。ええ。一枚一枚は。でも、『名を残さなかった』という事実に、この『ただ一度、残した名』が加わったとき。それはもう、状況証拠ではありません」
サトルは、その横顔を見た。八年前、証拠が無くて卓にすら着けなかった女。証拠だけが人を守ると自分に課した女。その女がいま、名を残さない男のただ一つの綻びを、指で押さえていた。有りすぎる記録の中から、無いはずの一枚を探し当てて。
財前は何も言わなかった。反論の言葉が、あのなめらかな口から出てこなかった。二か月追っても掴めなかった、直接の一枚。それがいま、卓の上にあった。皮肉にも、財前自身がまだ誰も死んでいなかった頃に、無邪気に残した署名によって。
議長席の社長が、長い沈黙のあと、口を開いた。
「……この件は」社長は言った。「もはや、経営判断の範囲ではない」
卓の空気が完全に傾いた。今度は財前から離れる方へ。相良が静かに動議の採決を求めた。特別調査委員会の設置。独立した社外の目による、全面的な調査。
サトルは隣の椎名を見た。椎名は卓を見つめたまま、動かなかった。ただ、その白かった指がゆっくりと、要旨の上から離れた。八年、探していた一枚を、ようやく置くように。
数字の帝国の王の失脚と、全社を貫いた方針のその後を書きます。




