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大手退魔会社のコンプラ室に異動したら、怪異被害は全部「人災」でした 〜安全装備を半分に減らした役員を、社内文書だけで失脚させます〜  作者: 氷室 累


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第55話:卓に着かせる

 椎名が机に並べたのは、二か月分の成果だった。経営会議の議事録。その手前の稟議。稟議の手前の部会資料。相良が監査役の権限で開けた原本を、椎名が一段ずつ、時間の順に並べ直したものだった。大鷲のときに組んだ物証の束とは違った。あれは静止した事実の集まり。これは、意思決定が上流から下流へ流れていった順番そのものだった。


 「ここまで辿りました」椎名は、いちばん上流の一枚を指した。「決裁権限規程。『全社の安全に関する投資方針を、経営会議へ上程できる者』は、経営企画担当役員に限られています。……財前しかいません。そして、事業部別の目標割付決裁。ここにあの人の確認判がある。方針を示しただけの人は、事業部ごとの割付を一件ずつ確認しません。なのに、判がある。……方針と実行のあいだに、あの人がいた消せない一点です」


 サトルは、その連鎖を上流へ辿った。そして、一つの段で指が止まった。議事録2025-BM-014。安全投資抑制方針が可決された会議。だが、その会議に議題を載せた稟議の提起者欄が空いていた。誰も起案していないのに、翌週、方針が決まっている。


 「空白です」椎名は言った。「誰かが提起した。でも、名がない。……この空白も証拠です。ただ」椎名はそこで、一度言葉を切った。「これは、まだ間接証拠です」


 サトルは頷いた。分かっていた。決裁権限規程は財前しか上程できないと言うが、財前が上程したとは書いていない。確認判は割付への関与を示すが、安全を削れと言ったとは書いていない。空白は誰かが名を消したと匂わせるが、その誰かが財前だと指さす一枚は、まだ無い。すべてが財前を囲んでいた。だが、あの男の口から出た最初の一言を写した紙は、どこにも無かった。


 束がここまで厚くなったのは、二人の手だけではなかった。守った証言者たちが動いていた。的場が、篠田が、別の事業部の内部者を一人連れてきた。経営企画に近い席にいたその人物が、割付決裁の原本の在り処を教えた。証言は柱にはしない。椎名の原則は変わらない。だが、証言は、消せない紙がどこに埋まっているかを指し示す地図にはなった。地図を頼りに椎名は紙を掘り、紙だけを束ねた。九鬼の班の結界札が半分に減らされたのも、森下さんの点検が間引かれたのも、その割付の上流で決まっていた。怪異が二人を襲ったのではない。守りを数字で削った上流の意思が、二人を無防備な場所へ置いたのだ。


 その夜、あの社章のない貸会議室で、相良は束を最後までめくった。長い沈黙があった。


 「これは」相良は静かに言った。「完璧ではありません」


 サトルは黙っていた。一年前のあの夜、同じ机で、相良は逆のことを言った。文書に穴はありません、と。あのときの束は完成していた。今度の束は財前を囲んではいたが、仕留めてはいなかった。


 「向こうは」相良は続けた。「これを状況証拠だ、と言うでしょう。規程は上程できる者を定めているだけ。確認判は割付の事務。空白は記載漏れだ、と。……一枚ずつ、なめらかに崩してくる。私が財前さんの立場でも、そう崩す。この束だけでは崩し切られる」


 「では」サトルは言った。「早すぎますか」


 相良は束を閉じた。


 「いいえ」相良は言った。「間接証拠でも、特別調査を設置する理由には足ります。調査を始めるのに、有罪の証明は要らない。要るのは、疑うに足る事実だ。……この束は疑うに足る。財前さんを卓に着かせることはできます。そこから先――最初の一言を写した一枚を探すのは、卓に着かせてからでいい。公式の調査になれば、私が開けなかった席の扉も開く」


 「役員」サトルは言った。「あなたの再任は」


 相良の顔に、慎重な疲れがあった。


 「止められています」相良は言った。「次の株主総会で私を再任しないように、いくつかの大株主に話が回っている。……誰が回したかは書いていません。書かない人のやり方です。私の椅子は、もう次は無い」


 サトルは、その疲れた横顔を見た。二か月前、この人は大鷲を卓に出すために、一度椅子を賭けた。そして、いままた賭けようとしていた。今度は完璧ではない束で。負ければ、私怨に加担した愚か者として、二度、名が残る。


 「完璧な束を待てば」相良は言った。「私の椅子が先に無くなる。動議を上げられる監査役がいなくなる。……ならば、不完全な束でいま着かせる。着かせてしまえば、次の監査役が誰であろうと、調査はもう始まっている」


 時間は、二つの方向から削られていた。相良の椅子と、コンプラ室の席。事前審査会。あの機構改編は七月二十八日に発効する。その日、コンプライアンス室は課の一係になり、サトルと椎名はこの調査を続ける立場を失う。動議を上げられる取締役会は、その前に一度しか残っていなかった。七月二十五日。ぎりぎりの駆け込みだった。


 七月二十二日、社内ポータルに一枚の通知が載った。


──────────────

臨時取締役会 招集通知


 発信:取締役会事務局

 日付:2026年7月22日

 開催:2026年7月25日 午前10時/本社 役員会議室


 付議事項

  第1号議案 業務執行状況の報告の件(定例)

  第2号議案(臨時) 特別調査委員会の設置に関する件

   付議者:社外取締役(監査役) 相良

   件名:安全投資抑制方針の適正性および意思決定過程に関する特別調査

   概要:全社「安全投資抑制方針」(経営会議 議事録 2025-BM-014)の

      策定に至る意思決定過程について、独立した特別調査を求めるもの。

      監査役の業務監査(請求番号 AUD-2026-0072)により閲覧した

      稟議・決裁経路の記録に基づく。

──────────────


 その通知を見て、廊下で待っていた顔があった。総務部 法務コンプラ課の梶山。二か月前、大鷲を卓に出すあの議題のときも、規程集を抱えて同じ場所に立っていた男だった。


 「木村さん」梶山は穏やかに言った。「この動議の根拠は、状況証拠ばかりだと伺いました。決裁権限規程も確認判も、財前役員が方針を発意したことを直接示すものではない。……取締役会の貴重な時間を、証明のない疑いで使うのはいかがなものでしょう。付議の前に、事務局として疎明の程度を確認する必要が――」


 二か月前と同じ声だった。だが今度は、梶山の言っていることが半分当たっていた。束は状況証拠だった。それは事実だった。


 「梶山さん」椎名が静かに口を開いた。手には一枚の紙。「これは有罪を決める卓ではありません。調査を設置するかどうかの卓です。……有罪の証明は調査の結論に置くもので、入口に置くものではない。入口に要るのは、疑うに足る事実です。それは、ここにあります。決裁権限規程が上程者を一人に絞り、その一人の確認判が割付に残り、方針の提起者欄が空白になっている。……三つが偶然揃うことはありません。疎明としては十分です」


 梶山は口を開きかけ、閉じた。規程で人を黙らせてきた課が、今度は規程の言葉で黙らされていた。疎明。設置要件。入口と結論の違い。梶山の抱えた規程集には、それを覆す条文は無かった。


 サトルは隣の椎名を見た。この女は八年前、卓にすら着けなかった。姉が死んだとき、椎名の、安全が足りなかったという訴えは口頭で消され、証拠が無いという理由でどの卓にも載らなかった。入口の手前で握り潰された。……今度は違った。疎明はあった。不完全でも、疑うに足る束があった。卓に着かせることはできる。着かせてから、最後の一枚を探せばいい。八年前は、そこへ辿り着く前に終わった。今度は、辿り着いてから始まる。


 椎名は招集通知の第二号議案を指でなぞった。付議者、相良。件名、安全投資抑制方針の意思決定過程。その一行をなぞる指の先が白かった。八年前の事故報告を示したときと同じ白さだった。恐れではなかった。もっと古い何か。だが、その白い指は震えてはいなかった。二か月前より、ずっと静かだった。


 その指が一度、別の画面へ逸れた。通報システムの設定。送信ログ、保全期間、なし。二通の出どころが辿れなかった理由は、そこにあった。椎名はしばらくそれを見ていた。だが、触らなかった。事前審査会の規程が生きているあいだは、窓口の設定を勝手に変えられない。


 「これが済んだら」椎名は画面を閉じて言った。「ここを直します。……次にあの口が開いたときに、今度は何かが残るように」


 サトルは頷いた。次に開いたとき。椎名はもう、あれを二度で終わったものとして数えていなかった。


 サトルは役員会議室の卓を思った。大鷲のときのあの卓に着いたのは、温和な笑顔の男だった。今度着くのは、名を残さない男だ。数字で人を割り切り、どの紙にも判を残さなかった男。その男が初めて、自分の意思決定を他人に問われる席に着く。


 財前は崩しに来る。それは見えていた。状況証拠だ、と一枚ずつなめらかに崩してくる。束はそれに耐えるには、まだ一枚足りなかった。財前が最初にそれを口にした、その瞬間を写した一枚が。


 数字の帝国の王が、初めて卓のこちら側へ引きずり出される。だが、その口を割らせる最後の一枚は、まだ無い。

 取締役会。数字の怪物・財前との対決に入ります。

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