表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大手退魔会社のコンプラ室に異動したら、怪異被害は全部「人災」でした 〜安全装備を半分に減らした役員を、社内文書だけで失脚させます〜  作者: 氷室 累


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
55/59

第54話:合理の檻

 包囲は静かに進んでいた。


 相良が監査役の権限で開かせた三年分の原本は、事務局の手で少しずつ束になりつつあった。的場が、篠田が、守られた証言者たちが、別の事業部の内部者を一人、また一人と窓口へ連れてきた。点検を間引かされた側の、良心の呵責を抱えた人間が、記録の切れ端を手のひらに載せて運んでくる。財前の四角の、その上の空白へ。それを埋めるための紙が、少しずつ集まりつつあった。


 その包囲が、財前に届いていないはずがなかった。


 内線が灯ったのは、そういう朝だった。抑揚のない秘書室の声。財前が少し話したいと言っている。今日の夕方。前と同じ、役員フロアの小会議室で。


 「呼ばれたよ」サトルは言った。「また、俺一人で」


 椎名は手元の端末から目を上げた。何も言わなかった。ただ、開きかけていた原本のフォルダを静かに閉じて、いつでも記録に残せる姿勢に指を置いた。それが、彼女の返事だった。


 夕方の小会議室は、前と何も変わっていなかった。財前はもう座っていた。痩せた身体に、上等だが地味なスーツ。眼鏡の奥の目は相変わらず、穏やかで、疲れていた。机の上には書類も端末も、何もなかった。名を残さない男は、机の上にも何も残さない。


 「木村くん」財前は椅子を勧めた。「よく来てくれたね。座ってくれ」


 サトルは黙って座った。


 「きみたちは」財前は指を軽く組んだ。「私のいない場所を探しているそうだね。私が名を書かなかった、その空白を。……相良さんが動いた。三年分の議事録。ずいぶん古いところまで掘るつもりらしい」


 やはり届いていた。サトルは財前の顔を見た。狼狽はどこにもなかった。前と同じだった。


 「止めに来たのか」サトルは言った。


 「いや」財前は首をわずかに振った。「止めに来たわけじゃない。……止められるとも思っていないよ。相良さんの権限は、私の諾否を待たない。原本は開く。それは、もう決まったことだ」


 では、なぜ呼んだ。サトルの、その問いを、財前は待っていたようだった。


 「一つだけ」財前は言った。「きみに見せておきたいものがある。倒される前にね」


 そして財前は話しはじめた。書類も見ずに。


 「森下和也」財前は言った。「三十四歳。立花物流、在庫管理課、夜勤。奥さんと四つの娘さんがいる。五月のあの夜から、まだ目を覚まさない。……知っているよ。全部」


 サトルは息を止めた。名も、歳も、家族も。この男は切り捨てた側のはずだった。その切り捨てた人間の娘の年齢まで、諳んじていた。


 「大鷲くんは」財前は静かに続けた。「顔を見なかった。見ないことを選んだ。見れば割り切れなくなるからだ。……私は違う。私は数えているよ、木村くん。一人も忘れていない。九鬼透。二十九歳。森下和也。三十四歳。名前も歳も、残らず覚えている。その上で私は、あの目盛りを動かさなかった」


 サトルは返す言葉を探した。この男は無関心ではなかった。目を逸らしてもいなかった。数え、覚え、抱えて、その上で切っていた。それは大鷲のあの微笑よりも、ずっと恐ろしかった。


 「限りある予算で」財前は言った。「最大多数を守る。……それのどこが悪いんだ、木村くん。全部に金をかければ、会社は潰れる。潰れたら退魔師は全員、職を失う。守られていた街も守られなくなる。私は一人を切って、万を守った。きみはその一人の顔を指さして、私を責める。だが、きみの正義が通れば、今度は万の顔が並ぶことになるんだよ」


 「その一人を切る目盛りを」サトルは言った。「あんたが勝手に引いた」


 「誰かが引くんだ」財前は言った。「引かなければ、会社ごと沈む。私はその汚れ役を引き受けた。……昔、これを書いたよ。信じて書いた。本気で書いたんだ」


 その言葉に嘘はなかった。少なくとも財前自身は、一片も疑っていなかった。人を単価と頭数に置き換えて、最も多くを守る。その計算を正義だと信じきっていた。閉じた円。破れ目のない、完成された円。


 サトルは思った。大鷲は「会社のため」を信じた。その正しさの檻の中で人を切った。財前は「最大多数のため」を信じている。合理の檻。どちらも悪意ではなかった。悪意で人を殺すやつなら、まだ憎めばいい。だが、この二人は違った。善意で最適解を出し、その計算の外にはみ出した一人を、静かに選別した。九鬼の几帳面な字も、森下が娘に何を買ってやるつもりだったかも、数字にはならない。ならないから切れた。──怪異が人を殺したのではなかった。善意で最適解を出した賢い人が、数字にならない一人を、そっと天秤から下ろした。それだけのことだった。


 憎しみだけでは、この男は倒せない。サトルはそう知った。同情など一片もしない。だが、憎むだけでは、この閉じた円には爪一つ立たない。


 「数字にならないものを」サトルは言った。「あんたは勘定に入れなかった」


 「入れられないんだ」財前は初めて、ほんのわずかに目を伏せた。「入れ始めたら、天秤が動かせなくなる。……私は動かす人間だ。それが私の仕事だよ、木村くん。冷たいと思うか。だが、情で目盛りを揺らす方が、よほど多くを殺す」


 その伏せた目が、財前の見せたたった一つの綻びだった。翻意ではなかった。改心でもなかった。ただ、この男も重さを知っていた。知っていて、なお動かさない。それが、この人の檻だった。


 「もう、いい」財前は立ち上がった。「行きなさい。……きみは私を恨んでいるだろう。恨んでいい。だが、恨みでは私は倒れないよ。私を倒したければ、数字で来なさい。私がいつもそうしてきたように」


 サトルは部屋を出た。留飲はなかった。冷たい何かが、腹の底に残った。


 窓口に戻ると、椎名が待っていた。サトルが財前の言葉をそのまま伝えると、椎名はしばらく黙ってから、逆算のために取り寄せた古い社内報の束から、一枚を画面に映した。


──────────────

全社メッセージ 「限りある力で、最も多くを守るために」

掲載:社内報 2023年1月号/経営企画担当役員 財前


 私たちの力には、限りがあります。

 結界札にも、退魔師にも、予算にも、数に、限りがある。

 だからこそ、私たちは、選ばなければなりません。

 その限りある力を、どこに、どれだけ、振り向けるか。


 〔基本の考え方〕

  1. 守るべき対象は、年々、増え続けている。しかし資源は、有限である。

  2. 一律に、同じ厚さの守りを、全てへ配ることは、できない。

  3. 限られた力を、最も多くの人が守られるよう、最適に配分する。


 〔私たちの使命〕

  全てを、完璧に守ることは、できません。

  しかし、限りある力で、一人でも多くを、守ること。

  それが、この会社が、明日も在り続けるための、唯一の道です。


              経営企画担当役員 財前

──────────────


 サトルは、その一枚を何度も読んだ。善意で書かれていた。一人でも多くを守る。誰が読んでも頷く、綺麗な文章だった。だが、この「最適に配分する」の目盛りの外側で、九鬼が死に、森下が倒れた。綺麗な理念の下流に、選別があった。


 「これは」椎名は言った。「思想です。立証にはなりません。財前が唯一、自分の名を書くのは、こういう綺麗な文章だけ。安全を削れ、と書いた紙には名を残さない。……人の心のいちばん見せていい部分にだけ、署名する男です」


 サトルは頷いた。合理の檻は、内側からは壊れない。財前自身が一片も疑っていないからだ。恨んでも詰め寄っても、あの円には爪が立たない。壊すには、この綺麗な理念の前にあったはずの生々しい瞬間を──「限りある予算で最大多数を」と美しく言い換えられる前に、誰かが最初に「安全を削れ」と口にした、その一点を──檻の外へ引きずり出すしかない。理念ではなく、その最初の一言を。


 「二週間の」サトルは言った。「原本が要る。あの綺麗な言葉になる前の、生の口が要る」


 合理の王を、恨みでは動かせない。ならば、その合理を、自分の卓に着かせるしかなかった。

 数字の帝国の王を、こちら側へ引きずり出す動議が整いはじめます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ