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大手退魔会社のコンプラ室に異動したら、怪異被害は全部「人災」でした 〜安全装備を半分に減らした役員を、社内文書だけで失脚させます〜  作者: 氷室 累


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第45話:証拠がなかった

 椎名はゆっくりと話し始めた。八年、誰にも話さなかったことを。


 姉のアヤは、シンワ綜合ビルに入居していた、小さな商社の事務員だった。真面目で、少し心配性で、レイの四つ上。両親を早くに亡くした姉妹には、姉が半分、親のような人だった。当時、レイは二十歳。大学生だった。まだ法律も証拠も何も知らない、ただの妹だった。


 「姉は」椎名は言った。「亡くなる少し前から、言っていました。会社のビルが変だ、と。夜、残業していると、視界の隅に、いないはずの人影が映る。空気が重い。同僚が何人か、体調を崩している。……姉はそれを、総務に訴えました。何度も。ビルの管理会社に点検を頼んでほしい、と」


 サトルは黙って聞いた。


 「総務の答えは」椎名は言った。「『気のせいだ』でした。ビルの管理会社は、前の年に退魔の会社との結界保守契約を更新しなかった。コストの削減で。……その事実は、後で知りました。当時は誰も教えてくれなかった。契約を切ったことも。切ったせいで、結界が切れかけていたことも。全部、後から」


 「事故は」サトルは静かに聞いた。


 「残業中でした」椎名の声が、わずかに掠れた。「立入禁止になっていた、旧棟の区画。姉はそこで倒れていました。結界の切れた区画で。……会社は言いました。立入禁止の場所に勝手に入った、本人の不注意だ、と。なぜ姉がそこにいたのか。誰も調べませんでした。総務に何度も訴えていた記録も、『口頭だから残っていない』で消えました」


 サトルは九鬼を思った。日報に何度も、結界札、不足、と書いて、誰にも読まれなかった几帳面な男を。姉のアヤも同じだった。声を上げて、記録に残らず、そして本人の不注意で閉じられた。八年前に。九鬼よりずっと前に。同じことが起きていた。


 「私は」椎名は言った。「怪異のせいだ、と思いました。結界が切れていたせいだ、安全が足りなかったせいだ、と。……でも、二十歳の私には何もなかった。姉が訴えていた証拠も。契約が切られていた証拠も。結界が切れていた証拠も。何も握っていなかった。だから私がどれだけ、『怪異のせいだ』『会社のせいだ』と叫んでも――」


 椎名はそこで、一度言葉を切った。


 「誰も信じませんでした」椎名は言った。「『気のせいだ』『気持ちは分かるが、証拠がない』『怪異なんて非科学的だ』。……気の毒な事故として、姉は処理されました。私の言葉は、悲しみに取り乱した妹の戯言になった。証拠がなかったから。ただ、それだけの理由で」


 サトルはようやく分かった。この女がなぜ、怪異を頑として信じないのか。なぜ「かもしれない」を報告書に書かないのか。なぜ証言に依存せず、消せない文書だけで立証するのか。なぜ九鬼の通報を誰より律儀に文書へ翻訳しながら、死者からの通報という一通だけは、証拠から外したのか。


 「あんたは」サトルは言った。「怪異を信じてないんじゃない」


 「ええ」椎名は頷いた。その目が少しだけ濡れていた。だが、涙はこぼさなかった。「私は、怪異を信じないと決めたんです。……正確には、怪異を理由にすることを、自分に禁じました。あの日、私の『怪異のせいだ』は、姉を守れなかった。一ミリも。証拠のない真実は、無いのと同じだった。だから私は法律を学びました。証拠の集め方を覚えました。二度と『気のせい』で片付けさせないために。……怪異が本当かどうかじゃない。証拠があるかどうか。それだけが人を守る」


 窓口は静かだった。サトルは、椎名のその言葉の重さを受け止めた。手順です。報告書には書けません。素っ気ない、その口癖の一つ一つが、八年前のあの無力さから生まれていた。この女はたった一人で、証拠のない悲しみを抱えて、証拠の鬼になった。もう二度と、誰かを証拠がないというそれだけの理由で失わないために。


 「……九鬼さんの通報を」サトルは言った。「あんたが証拠にしなかったのは」


 「同じだからです」椎名は言った。「死者からの通報。怪異かもしれない一通。……それを証拠に据えれば、全部が『気のせい』にされる。八年前の私みたいに。だから絶対に載せなかった。あの一通を笑い話にさせないために。姉を二度、殺させないために」


 サトルはしばらく、何も言えなかった。それから静かに言った。


 「話してくれて、ありがとう」


 「いえ」椎名は、いつもの平板さを少しだけ取り戻して言った。「……話したのは、同情がほしかったからじゃありません。財前を倒すためです」


 サトルは顔を上げた。


 「あの男は」椎名は言った。「数字は罪にはならない、と言いました。名を残さなければ届かない、と。……八年前、姉を殺した会社も同じことを言いました。『指示した証拠はない』と。私はあのとき、負けました。証拠がなかったから。……でも、今度は違います」


 その目に、いつもの冷たい光が戻っていた。だが、その奥に、八年分の何かが燃えていた。


 証拠を誰より信じる椎名の八年が、名を残さない決裁者を追い詰める鍵に変わりはじめます。

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