第44話:いつか話します
その夜、窓口には二人しかいなかった。
財前を文書で倒す。その道が、見えなかった。大鷲は四十五件の決裁に、名を残していた。だから倒せた。黒瀬も営業目標通達に、名を残していた。だから切られた。だが、財前は何も書かない。方針を示し、承認欄に判を押す。それだけだ。「安全を削れ」と書いた紙は、この世に一枚もない。名を残さない男を、消せない文書で、どう追い詰めるのか。二か月掛けても、答えは出なかった。
サトルは、机に突っ伏したくなるのをこらえた。
「木村さん」
椎名が言った。いつもの平板な声だった。だが、その日は少しだけ、その平板さの下に、何かを抱えているように聞こえた。
「以前、私、言いましたね」椎名は言った。「私が手順にこだわる理由。……いつか、話します、と」
サトルは顔を上げた。情報管理規程違反の照会を、正規のログで崩した、あの日。椎名は確かに、そう言った。いつか、話します。今は、これを通すことだけ。
「覚えてる」サトルは言った。
「今が、そのいつかかもしれません」椎名はそう言って、自分の鞄から、一枚の古い印刷物を出した。ずっと持ち歩いていたような、折り目のついた紙だった。
それは、あの事故事例集のコピーだった。相良から渡された、業界の古い事故の綴り。この前、椎名の手が止まった、あの資料。彼女は、その一行を指で示した。
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業界安全連絡会 事故報告 綴り(抜粋)
No.13
発生:2018年10月
施設:都内・シンワ綜合ビル
被害:入居企業 従業員 1名 死亡
保守:前年度に結界保守契約の更新を見送り
処理:本人の不注意(立入禁止区域への立入)
備考:怪異との因果は確認されず
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「この一行を」椎名は言った。「私は八年、探していました」
サトルは、その一行を見た。二〇一八年十月。シンワ綜合ビル。従業員一名死亡。前年度に、結界保守契約の更新を見送り。本人の不注意。因果は確認されず。――九鬼と同じだった。森下と同じだった。安全を削って、人が死んで、本人の不注意で閉じられた。同じ常套句。同じ設計図。ただ、八年前の。
「探していた?」サトルは聞いた。「八年、これを?」
「ええ」椎名は頷いた。「この綴りに載っているとは、思っていませんでした。相良さんがこれを出してくれたとき……私は、自分が何を見ているのか、しばらく分かりませんでした。ずっと探して、どこにも無くて、諦めた記録が。まさか業界の事故の一行として、こんな所に残っていたなんて」
椎名の声が、少しだけ早口になった。指が、その一行の上で白くなった。サトルは、前にも見たその所作を、今度は目をそらさずに見た。触れれば崩れる硬さ。それでも椎名は、自分からその硬さのほうへ、踏み込もうとしていた。
「木村さん」椎名は言った。「このシンワ綜合ビルで死んだ、従業員一名。……名前は載っていません。ただの一名です。番号すら、ついていない。取り下げられた通報と同じです。無かったことにされた、声」
サトルは待った。椎名が続けるのを。
「その一名は」椎名は、その紙から指を離さずに言った。声はもう、平板ではなかった。「椎名アヤ、といいます。二十四歳でした。……私の姉です」
窓口の蛍光灯が、じい、と小さく鳴った。サトルは、その一行をもう一度見た。従業員一名死亡。そのそっけない四文字の裏に、名前があった。椎名アヤ。二十四歳。証拠を頑として信じ、怪異を頑として信じない、この女の姉の名前だった。
「……八年前です」椎名は言った。「私がこの仕事を選んだ理由の全部が、この一行にあります」
椎名が証拠だけを信じるようになった、その八年前の話をします。




