第46話:古い病
翌朝も、椎名はいつもの椎名だった。
皺一つないパンツスーツ。手元に開かれた資料。平板な声。昨夜、八年ぶりに姉のことを口にした人には見えなかった。ただ、一つだけ違った。証拠を繰るその指が、昨日より静かだった。急いでいなかった。何かを決めた人の手つきだった。サトルはそれを横目で見て、何も言わなかった。訊くことは、もう無かった。昨夜、全部聞いた。
机の上には、二枚の紙が並んでいた。
一枚は、あの事故綴りのNo.13。二〇一八年十月。シンワ綜合ビル。従業員一名死亡。前年度に、結界保守契約の更新を見送り。本人の不注意。――椎名アヤの二十四年が、四行に畳まれた紙。もう一枚は、財前の安全投資抑制方針に触れた、経営会議の議事録の写しだった。二〇二五年。安全工程の短縮。稼働効率化目標、一・五倍。
七年、離れていた。片方は、椎名の姉を死なせた他社のビルの話。もう片方は、退魔株式会社の役員室で決まった方針。直接繋がる糸は、どこにも無かった。財前が八年前のあのビルの契約に関わっていた証拠など、あるはずもなかった。それでもサトルは、その二枚を並べたとき、背筋が冷えた。書いてあることが、同じだったからだ。安全は後でいい。安全は削れる。安全はコストだ。……七年離れた二枚の紙が、同じ一行を抱いていた。
「木村さん」椎名が言った。「この二枚が、たまたま似ているだけなのか。それとも――」
「間に何かあるのか」サトルは言った。
「相良さんに会いに行きましょう」椎名は資料を閉じた。「あの綴りを私にくれた人です。あの人なら知っている」
相良は社外取締役だった。安全問題に関心を持つ数少ない役員で、慎重で、めったに動かない。文書に対してだけ動く人だった。証言や義憤では、指一本動かさない。だからこそ、この告発の細い糸は、その人に託されていた。
面会室で、相良は二人を静かに迎えた。サトルは机に、あのNo.13のコピーを置いた。
「この事故は」サトルは言った。「特別な一件だったんですか。前年度に結界保守契約を切って、人が死んで、本人の不注意で閉じた。……こんなことが二〇一八年に、そう何度も起きていたとは思えない」
相良はしばらく、その一行を見ていた。それから自分の鞄から、一綴りの紙を出した。
「思えない。……ええ、普通はそう思います」相良は静かに言った。「私も長く、そう思っていました。だから数えたんです。連絡会の綴りを遡って、一件ずつ」
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業界安全連絡会 事故報告 綴り 経年集計(相良 私的整理)
抽出条件:加盟施設で発生した怪異起因の重大事故のうち、
直前に「結界保守契約の更新見送り」または「点検周期の延伸」が記録された案件
2014年度:0件
2015年度:1件
2016年度:2件
2017年度:3件
2018年度:5件 うち No.13(10月・シンワ綜合ビル)
2019年度:7件
2020年度:10件
2023年度:15件
2025年度:19件
処理区分:全件「本人の不注意」または「個人の過失」
怪異との因果:全件「確認されず」
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サトルは、その数字の並びを見た。ゼロから始まって、一、二、三、五、七、十、……年ごとに増えていく。折れ線にすれば、右肩上がりの坂だった。安全を削って、人が死ぬ。それが年々増えている。そして、その坂の始まりのあたりに、二〇一八年があった。No.13。椎名アヤ。坂のてっぺんでは、なかった。……登り始めたばかりのところ。
「姉は」椎名が言った。その声は平板だった。だが、指が綴りの二〇一八の行を、そっと押さえていた。「早い方の一人だった、ということですか」
「ええ」相良は頷いた。「もっと前から火種はありました。ただ、このあたりからはっきり増える。……そして、増え方が止まらない」
サトルは、二枚の紙のことを思い出した。二〇一八年の事故。二〇二五年の方針。あの二枚は、たまたま似ていたんじゃなかった。同じ坂の、上と下だった。
「相良さん」サトルは言った。「これは……財前が始めたことなんですか」
相良はゆっくりと首を振った。
「いいえ。財前さんは、この坂を作っていません」相良は言った。「二〇一四年、財前さんはまだ、経営企画の担当役員ではありませんでした。……この坂は、財前さんより古いんです。安全をコストと呼ぶ考え方は――この業界に、ずっと前からありました。誰か一人が発明したものではない」
サトルは言葉を失った。敵は一人の男だと思っていた。財前を倒せば終わる、と。だが、この綴りは違うことを言っていた。財前は坂を作っていない。坂は、財前が来る前からあった。姉のアヤを死なせたあのビルの管理会社も、この坂の上にいた。九鬼を、森下を死なせた方針も、同じ坂の上にあった。……安全はコストだ、という古い一行が、業界の地面の下をずっと流れていた。
「じゃあ、財前は」サトルは言った。「何なんですか」
「一番上手い人です」相良は言った。「この古い考えを、一番無駄なく制度にした人。……安全投資抑制方針。あれは発明じゃない。昔からみんなが腹の中でやっていたことを、初めてきれいな文書にまとめて、全社の手順にした。それだけです。それだけが――一番恐ろしい」
「木村さん」相良は声を少し落とした。「これは一社の話じゃないんです。退魔株式会社だけが患っている病じゃない。この業界、全体の……」相良はそこで言葉を切った。「――いや。今日は、そこまでは言いません。今の私たちに手が届くのは、一社だけです。広げすぎれば、また何も掴めなくなる。姉さんのときと同じになる」
椎名の指が、ぴくりと動いた。だが、椎名は何も言わなかった。ただ、綴りの二〇一八の行から指を離し、二〇二五の行へ移した。過去から現在へ。……静かな手つきだった。取り乱してはいなかった。八年前の二十歳の妹は、もういなかった。
サトルは思った。怪異が人を殺すんじゃない。二〇一八年も今も、殺しているのは同じものだ。安全はコストだ、というたった一行の古い思想。それが坂の上から下まで貫いて、二〇一八年の椎名アヤを選び、二〇二六年の森下和也を選び、九鬼透を選んだ。怪異は引き金を引く道具にすぎない。指を掛けているのは、ずっとその一行だった。
「財前は」椎名が言った。もう平板な声に戻っていた。「病の発明者じゃない。……でも、今この業界で、その病を一番上手く実行しているのはあの男です。坂の一番高い所で、一番無駄なく人を選んでいる。倒すべきは、そこです」
「名を残さない男を、どうやって」サトルは言った。
椎名は綴りを閉じた。そして、あの二枚の紙の、二〇二五年の議事録を指で叩いた。
「発明者じゃなくても」椎名は言った。「その病をこの会社で一番最初に口にした瞬間は、あるはずです。方針はある日、突然文書になった。……なる前に、誰かが最初に言った。『安全はコストだ』と。その一番最初の口を探します」
サトルは椎名を見た。その目に、昨夜の濡れた光はもう無かった。乾いた決意だけがあった。証拠がなくて負けた二十歳の妹は、もういない。証拠で勝つ女が、そこにいた。
古い病には、発明者はいない。だが、この会社でそれを最初に声にした口は一つだ。その口を掴めば――届く。
名を残さない男に名を残させるため、二人は意思決定の逆算をはじめます。




