第40話:組織を締める
その日、西野はいつもより早く来ていた。
室長席の明かりが、始業前から点いていた。サトルが窓口に入ると、西野は顔を上げて手招きした。声を落としていた。
「木村くん。……これを見ておいたほうがいい」
西野が自分の端末を、サトルのほうへ向けた。人事部から回付されてきた、一枚の起案だった。まだ正式決裁の前の案で、回覧の判がいくつか並んでいる。表題を読んで、サトルは手を止めた。
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コンプライアンス室 機能見直しに関する起案(案) 起案番号:2026-K-0231
起案部署:人事部
起案者:戸倉(人事部主任)
回付先:経営企画部・総務部 法務コンプライアンス課・各室長
〔背景〕
近年、内部通報窓口の受理件数が増加し、一部案件において、
経営方針・経営判断に関わる事項への立入調査が見受けられる。
調査範囲の適正化、および経営と現場の役割分担の明確化が求められる。
〔見直し方針〕
1. 内部通報窓口を、総務部 法務コンプライアンス課へ統合する
(コンプライアンス室は廃止し、1課の1係とする)。
2. 通報の受理に先立ち、付議の可否を判断する「事前審査会」を新設する
(構成:人事部・経営企画部・法務コンプライアンス課)。
経営方針に関わる案件は、受理前に事前審査会が振り分ける。
3. 主任調査員の専任配置を見直し、他業務との兼務とする。
4. 室長の案件決裁権を、事前審査会へ移管する。
〔期待効果〕
調査資源の適正配分。越権的調査の抑止。役割分担の明確化。
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サトルは、その四行を二度読んだ。
一行目で、窓口が消えた。二行目で、通報は受け付けられる前に止められるようになった。三行目で、専任の調査員がいなくなった。四行目で、西野の判が要らなくなった。四行。ただそれだけで、この窓口は骨を抜かれていた。
「事前審査会」椎名がいつの間にか背後に立って、画面を読んでいた。指がそっと伸びて、その五文字を辿った。「……通報を受理する前に、これは付議していい案件か、経営企画も入って決める。つまり」
「経営に都合の悪い通報は」サトルは言った。「受理番号が振られる前に、消える」
窓口は静かだった。だが、その静けさが寒かった。二か月前、九鬼の事件で勝ち取ったものが、一つ思い浮かんだ。受理番号は、受付と同時に自動で振られる。取り下げても、番号は消えない。声が番号を持てるようになった。あの三行の通達が、この事前審査会という一段で上書きされる。番号が振られる前に審査ではねれば、その声はそもそも、記録に残らない。
「うまい」椎名が平板に言った。だが、その平板さの下で、声がわずかに硬かった。「握り潰す必要がありません。受け付けなければいい。潰した痕跡すら、残らない。……九鬼さんのときは、受け付けたあとで取り下げさせた。四十五件全部に、面談の記録が残った。だから私たちは、それを束ねられた。今度は、その記録が最初から生まれない」
サトルは、起案者の欄を見た。戸倉。人事部主任。二か月前、サトルを「私怨の問題社員」だと自分の名で社内に流した、あの男だった。今度も自分の名で起案している。だが、サトルには分かった。戸倉がこれを思いついたわけではない。戸倉はいつも、誰かの代わりに名を貸す側の人間だった。
「西野さん」サトルは言った。「これは、どこから降りてきたんですか」
西野はしばらく答えなかった。疲れた目で、画面を見ていた。それから、低く言った。
「回付先の二番目を見なさい。経営企画部。……起案は人事だ。だが、この事前審査会の構成に経営企画を入れたのは、人事の発想じゃない。人事にこの絵は描けない。これは経営の機構を知っている人間の絵だ」
サトルは、その行を見た。経営企画部。名はなかった。部署の名しかなかった。財前とは、どこにも書いていない。稼働の目標のときと同じだ。承認欄でもなければ、議長でもない。ただ回付先の一つとして、部署の名があるだけ。この起案のどこにも、財前の名はなかった。
「あの人だ」サトルは言った。確信だけがあった。「財前が締めに来た」
その午後、内線が鳴った。役員フロアの小会議室。前と同じ部屋で、財前は前と同じ穏やかな顔で座っていた。
「忙しいところ悪いね」財前は言った。「一つ確認したくてね。木村くん。……きみたちは最近、経営企画のKPI設計にずいぶん関心があるようだ。予防退魔事業部の契約数目標。全社のガイドライン。あれは経営判断だよ。取締役会で決めた方針だ。それを、一人の調査員が審査している。……それは越権ではないかな」
「人が死んでます」サトルは言った。「客先で。森下さんは、まだ目を覚まさない」
「気の毒だ」財前は静かに頷いた。「本当にそう思うよ。だが、それは事故報告書の範疇だ。安全衛生の部署が扱う。きみの仕事は内部通報の処理であって、経営方針の当否を決めることじゃない。……役割というものがある。人事がそれを整理しようとしている。私はいいことだと思うよ。組織は役割で動く。役割をはみ出した調査は、組織を壊す」
語気は、一度も荒がらなかった。数字も脅しもない。ただ役割という言葉だけが、静かに置かれた。サトルは、そのなめらかさに、また寒気を覚えた。財前はサトルを飛ばそうとはしなかった。異動も懲戒も、口にしない。二か月前、それは報復人事だと無効にされた。だから今度は、人を飛ばさない。
人を飛ばすのではなく、人を飛ばせる部署の力を削る。窓口を課の一係にして、専任を兼務にして、受理の前に審査を挟む。次に声を上げる者が、そもそも届かないように。仕組みのほうを締める。誰も報復しない。ただ、通報が届く道が一本、静かに細くなる。
「あなたは」サトルは言った。「この起案にも名前を書いていない」
財前は微笑んだ。少しだけ面白がるように。
「私は機構の話をしているだけだよ」財前は言った。「効率の悪い部署があれば整理する。当然の経営だ。……起案したのは人事だ。私は回付を受ける一人に過ぎない。木村くん。きみはいつも私の名前を探すね。だが、名前で動いているわけじゃないんだ、組織は。……そういうふうにできている」
窓口に戻ると、椎名が待っていた。起案の写しをもう印刷して、机に広げている。角をきちんと揃えて。
「西野さんは」椎名が言った。「表では、この起案の回覧に判を押します。押さなければ、次は室長職のほうが消される。……でも、さっき私に、事前審査会の設置には規程改正が要ると教えてくれました。規程改正には日数がいる。決裁前なら、まだ窓口は生きている。……つまり、押しながら時間をくれるということです」
サトルは頷いた。西野はまた板挟みになっていた。二か月前、寝返って室長の席に残ったあの人が、今度は表で判を押し、裏で日数を稼ぐ。それだけのことしかできない。だが、その、それだけが時間だった。
「締められる前に」サトルは言った。「動くしかない」
「相手は名を残しません」椎名が言った。「稼働目標も、KPIも、この起案も。どこにも財前の名はない。……大鷲は印を押しすぎたから倒せた。財前は押さない。仕組みで来る。仕組みで殺しに来る相手を、私たちはまだ文書で倒したことがない」
サトルは、机の上の起案を見た。それから、視線を別の綴りに移した。予防退魔事業部の点検ログ。黒瀬の名の、営業目標通達。実行役の名が残った、一枚。
「黒瀬だ」サトルは言った。「財前は名を残さない。でも、黒瀬は残してる。……そして、財前がこの事前審査会で窓口ごと締めに来たってことは。黒瀬もいずれ切られる。大鷲と同じだ。あの男が自分も尻尾だと気づく前に、こっちが先にそれを教えてやる」
椎名の指が、通達の黒瀬の名の上で止まった。それから、静かに頷いた。窓口が締められるまでの、日数。その内側で動かせる駒が、一枚だけあった。
締められるまでの日数の内側で動かせる駒は一枚だけ。実行役・黒瀬に、自分もいずれ切られる尻尾だと教えにいきます。




