第41話:切られる側
その連絡は、向こうから来た。
予防退魔事業部の企画部長・黒瀬が、コンプラ室の木村を名指しで呼んでいる。西野室長を経由してその伝言が届いたとき、椎名が端末から顔を上げた。
「妙ですね」椎名は言った。「前は、こちらが押しかけました。今度は向こうが呼んでいる。……何かが動いています」
サトルにも、心当たりがあった。ここ数日、コンプラ室の空気が変わっていた。誰の名でもないどこかから、「内部通報窓口の機能見直し」という起案が、回り始めていた。調査の手を経営判断にまで伸ばすのは、越権だと。窓口を縮小し、人員を、事業部の内部監査へ振り替える。そういう図面が、静かに引かれていた。誰も、財前とは言わなかった。だが、稼働も契約数も、あの机から降りてきた。この起案にも、同じ机の匂いがした。
「向こうも締めに来てる」サトルは言った。「その同じ風が、黒瀬にも吹いてるのかもしれない」
十二階の企画部長室は前と同じだった。だが、黒瀬は違った。
前に来たときは、名刺を出すより早く立ち上がって、こちらへ来た。防御の言葉を、質問より先に並べる男だった。今日は、座ったままだった。机の上に、契約台帳の写しが積んであった。立花物流の事故報告書のコピーも、あった。文書番号、TR-2026-0517。黒瀬はそれを、指で押さえていた。
「座ってくれ」黒瀬は言った。声が前より低かった。「……立花物流の件だ。森下って人が倒れた、あの事故。役員会で話が出たらしい。経営企画が、原因の調査をうちの事業部に下ろしてきた。予防退魔事業部の管掌の事案だと。事業部でけじめをつけろと」
サトルは、その言葉の運びを量った。事業部の管掌。事業部でけじめ。……大鷲のときと、同じ風だった。上が、実行役に原因を下ろす。下ろされた実行役が、名前でそれを被る。黒瀬は、それを分かっていた。だから呼んだのだ。
「けじめ、というのは」黒瀬は言った。「俺の首だ。分かってる。……営業目標通達。差出人、黒瀬。工数を最適化しろと書いたのは俺だ。点検を間引かせたのは、俺の名前だ。事故が表に出れば、絵はもう描けてる。焦った部長が無理なノルマを現場に押しつけて、点検を削らせた。……その部長を切れば、会社は安全を取り戻したように見える。財前さんは痛くない」
早口では、なかった。一語ずつ確かめるように、黒瀬は喋った。自分の最期を先読みしている、男の喋り方だった。
「大鷲さんを」サトルは静かに言った。「覚えていますか。人事役員の。……あの人も稟議に名を残しました。台帳を維持しろと、自分の決裁印で。あの一件であの人は倒れた。引責辞任。第三者委員会。名を残した実行役が倒れて、会社は安全を取り戻したように見えた。でも、その上にいた財前役員は無傷で残った。私は方針を示しただけ。実行は現場だと。……大鷲さんを切って、財前役員はまた生き残ったんです」
黒瀬は答えなかった。
「あなたも」サトルは言った。「同じだ。いま同じことが起きようとしている。名を残したのは、あなただけだ。通達に。評価基準に。……財前役員の名はどこにもない。全社経営管理ガイドラインにも、承認は経営会議。策定は経営企画部。個人の名は一つもない。だから、あなたを切ってもあの人は痛くない。あなたを切って、また生き残る。大鷲さんと同じように」
黒瀬の指が、机の端を探した。前に来たとき、忙しなく机を叩いていた、あの指だった。だが、今日は叩かなかった。行き場をなくしたように、途中で止まった。
サトルは、その指を見た。この男は、数字で人を切ってきた。契約数という上がる数字と、実施率という下がる数字。その二つのあいだで点検を削り、安全を削り、削られた場所に立った誰かを、「本人の不注意」の下にしまってきた。森下和也を。三十四歳を。四歳の娘の父親を。……その男がいま、初めて、自分が数字で切られる側に立っていた。切る側の机から、切られる側の椅子へ。景色が反対を向いて、初めて、この男は、削られる者の目の高さを知ろうとしていた。
「一つ」黒瀬は言った。長い沈黙のあとだった。「……持っているものがある」
黒瀬は、机の抽斗を開けた。中から、一枚の紙を出した。印刷された社内文書では、なかった。罫の入ったメモ用紙に、黒瀬自身の字で書かれた、手控えだった。
「去年の三月だ」黒瀬は言った。「事業計画の折衝で経営企画に呼ばれた。目標を決める席だった。……そのときの俺のメモだ。誰にも見せていない」
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予防退魔事業部 目標設定折衝メモ(個人手控え)
日付:2025年3月14日
場所:経営企画部 会議室
出席:経営企画担当役員、経営企画部 事業管理課、予防退魔事業部 企画部長(黒瀬)
〔決定事項〕
・予防退魔サブスクを全社の成長エンジンと位置づける。契約数 前年比130%を必達とする。
・点検外注費・巡回工数は「適正化対象コスト」。契約獲得に人員を寄せること。
〔役員発言(聞き取り)〕
・「リソースは、伸びる所に寄せる。守りは、最小限でいい」
・「頻度は、事業部で決めればいい。私は、数字しか見ない」
〔備考〕
・上記は口頭。議事録には残さないとのこと。
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サトルは、そのメモを二度読んだ。〔役員発言(聞き取り)〕。守りは最小限でいい。頻度は事業部で決めればいい。……財前の声が聞こえるようだった。あのなめらかな合理。だが、サトルはすぐに、その弱さも見た。
「これは」サトルは言った。「あなたの字で書かれた、あなたのメモです。役員がこう言ったと、あなたが書いた。……財前役員はこう言うでしょう。それは黒瀬部長の私的な手控えで、私はそんな指示はしていない。議事録にもない。ガイドラインには数字しか書いていない、と」
「分かってる」黒瀬は言った。「だから、いままで出さなかった。これ一枚じゃ、あの人には届かない。……だが」
黒瀬は抽斗を閉じた。手はまだメモの上に置いたままだった。
「折衝は」黒瀬は言った。「口頭だけじゃない。あのあと経営企画は、事業部ごとに目標の割り付けを決裁で下ろしてる。各事業部にいくらの契約数を、いくらのコスト圧縮を割り当てるか。……その割付の原案には、担当役員の確認欄がある。合議の判が押されてる。俺は事業部長として、その決裁の連鎖にアクセスできる。経営企画の共有フォルダに部長権限で入れる。……その原本には、財前さんの判があるはずだ。方針じゃなくて、割付の確認に。数字を各事業部に割り振った、その判に」
サトルは、息を詰めた。それが鍵だった。財前が名を残さない男だとしても、全社の数字を割り付ける、その一点にだけは、確認の判を押していなければ、決裁は回らない。方針は部署の名で配れても、割付は、誰かが認めなければ動かない。認めた判があるなら、そこに初めて、あの男の名が残る。
「それを」サトルは言った。「見せてもらえますか」
黒瀬はすぐには答えなかった。メモの上の手が少し動いた。
「……渡せば」黒瀬は言った。「俺は終わりだ。経営企画を売った部長だ。この業界で二度と椅子はない。渡さなければ、俺は事故のけじめで切られる。……どっちに転んでも俺の椅子はない。違うのは、切られるときに財前さんを道連れにできるかどうかだけだ」
打算だった。正義では、なかった。この男は最後まで、自分の椅子のことを喋っていた。だが、その打算の底に、サトルは初めて、別の色を見た。使い捨てられる、と知った者の実感。数字を作る側だと信じていた男が、自分もただの数字の一つだったと気づいたときの、あの静かな崩れ方だった。
「考えさせてくれ」黒瀬は言った。「明日まで。……一晩だけ、くれ」
部長室を出て、廊下で椎名が端末を見ていた。歩きながら、社内システムの通知を繰っていた、その指が止まった。
「木村さん」椎名は言った。声がわずかに硬かった。「……経営企画からたった今、通達が出ています。全社共有フォルダのアクセス権、見直し。『情報管理の厳格化』。……事業部長の経営企画フォルダへの閲覧権限が、明日付で棚卸しされます」
サトルは足を止めた。
黒瀬が、鍵を握っている。その鍵を渡せば、財前に届く。割付の原本に押された、あの判に。……だが、その鍵のかかる扉を、財前はもう閉じに来ていた。黒瀬が一晩迷っている、そのあいだに。明日には、黒瀬の権限は消える。握った鍵は、ただの鉄の塊になる。
「一晩」サトルは呟いた。黒瀬は一晩くれと言った。財前は、その一晩を待ってくれない。
黒瀬の一晩が明けます。鍵はまだ生きているのか、それとも、ただの鉄の塊に変わっているのか。




