第39話:手が、止まる
その、綴りは、十年、近く、前の、紙の、匂いが、した。
相良から、回ってきた、ものだった。社外取締役の、相良は、慎重な、人だった。文書に、対してだけ、動く。その、相良が、一つ、古い、綴りを、寄越した。「安全を、コストと、呼ぶ、考え方が、いつから、この業界に、あったのか。……気に、なるなら」と、短い、言葉を、添えて。
サトルたちは、財前の、方針の、根を、辿っていた。予防退魔サブスクの、契約数KPI。その、上に、ある、安全投資抑制方針。だが、それは、本当に、財前が、始めた、ものなのか。それとも、もっと、古い、どこかから、続く、流れの、末端なのか。名を、残さない、男を、追うには、その、流れの、源を、知る、必要が、あった。
綴りは、業界の、古い、事故の、事例集だった。退魔株式会社が、客先へ、退魔師を、送る、仕事柄、集めて、いた、記録。結界の、保守が、削られた、疑いの、ある、社外の、事故。年月順に、並んでいた。どれも、処理は、似ていた。設備の、不備では、なく、被災した、本人の、落ち度。そう、書かれて、いた。
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社外事故 参考事例(結界保守の削減が疑われた事案・抜粋)
出典:業界安全連絡会 事故報告 綴り/相良取締役 提供
No.11 2016年6月 都内・商業施設 警備員1名 被災 保守:点検周期の延長後 処理:本人の不注意(立入制限区域)
No.12 2017年3月 近郊・物流倉庫 作業員1名 被災 保守:更新見送り 処理:安全表示の見落とし
No.13 2018年10月 都内・シンワ綜合ビル 従業員1名 死亡(夜間) 保守:前年度より契約更新見送り 処理:本人の不注意(立入禁止区画への立入)
No.14 2019年8月 地方・工場 従業員2名 被災 保守:予算縮減 処理:手順不遵守
※いずれも施設側の保守削減と事故の因果は「確認されず」と結論。
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サトルは、上から、順に、読んでいた。No.11。No.12。どれも、同じ、形だった。保守を、削る。事故が、起きる。本人の、不注意で、処理する。九鬼と、同じ。森下と、同じ。……その、形が、十年、近く、前から、すでに、あった。
「昔から、同じ、手口ですね」サトルは、そう、言おうとして、隣を、見た。
椎名の、手が、止まっていた。
いつもの、椎名なら、この、種の、資料は、淡々と、写しを、取る。証拠に、なりそうな、行を、無言で、スクショに、収める。指は、止まらない。だが、その、指が、いま、止まって、いた。紙の、上の、一行に、置かれた、まま、動かない。No.13の、行だった。サトルの、位置からは、椎名が、その、行の、どこを、見て、いるのかは、分からなかった。日付なのか。施設の、名前なのか。処理の、言い回しなのか。分からなかった。ただ、指が、その、一行の、上で、白く、なっていた。爪の、先が、紙を、わずかに、押していた。
「椎名さん」サトルは、静かに、言った。
「……はい」椎名の、返事が、いつもより、半拍、早かった。「これは……いえ。何でも、ありません。続けましょう」
早口だった。ほんの、わずか。だが、確かに、早口だった。椎名は、その、行から、指を、離した。離す、動きが、少し、硬かった。次の、行へ、視線を、滑らせる。何事も、なかったように。だが、写しは、取らなかった。No.13の、行だけ、スクショを、取らなかった。証拠を、淡々と、集める、はずの、手が、その、一行だけを、飛ばした。
サトルは、視線を、綴りに、戻した。わざと、だった。椎名の、横顔を、見続ければ、椎名は、見られていることに、気づく。気づけば、余計に、硬くなる。だから、サトルは、自分の、手元の、紙に、目を、落とした。見ていない、という、顔を、作った。
その、数秒の、間に、椎名が、短く、息を、吸うのが、聞こえた。深く、ゆっくり。何かを、飲み下すような、呼吸だった。それから、キーボードを、叩く、音が、いつもの、速さに、戻った。乾いた、規則的な、音。椎名が、自分で、自分を、手順の、リズムに、押し戻して、いく、音だった。サトルは、顔を、上げなかった。
二度目だった。
サトルは、思い出した。数日前。九鬼の、事件と、予防退魔事業部を、並べた、あの、対照表。あの、とき、椎名の、指は、点検ログの、いちばん、古い、行の、日付で、一瞬、止まった。あのときは、一瞬だった。サトルは、手元に、留めるだけに、した。だが、今日は、止まった、時間が、長かった。そして、指が、白く、なっていた。
サトルは、それ以上、聞かなかった。聞けば、崩れる。そういう、硬さだと、分かって、いた。椎名という、人は、証拠が、すべての、人だった。「かもしれない」は、報告書には、書けない、と、言う、人。手順が、すべての、人。……その、手順への、こだわりが、どこから、来たのかを、サトルは、知らなかった。以前、椎名は、一度だけ、言った。私が、手順に、こだわる、理由。……いつか、話します、と。あのとき、椎名は、それ以上、言わなかった。今も、言わない、だろう。
だが、サトルには、一つ、分かった、ことが、あった。椎名の、あの、原則――証拠が、なければ、人は、守れない、という、あの、頑なさは。たぶん、理屈から、来た、ものでは、なかった。もっと、古い、どこかで、この人は、証拠が、なくて、誰かを、守れなかった。……そういう、傷から、来ている。今日の、あの、指の、白さが、それを、告げていた。
サトルは、開いた、ままの、綴りに、目を、戻した。No.11から、No.14まで。年月は、違う。施設も、違う。被災した、人も、違う。だが、処理の、欄には、同じ、言葉が、並んでいた。本人の、不注意。安全表示の、見落とし。立入禁止区画への、立入。……削った、側は、いつも、削られた、側の、落ち度に、した。
本人の、不注意。その、言葉は、何年も、前から、同じように、誰かを、切り捨てて、きた。九鬼を。森下を。そして、この、綴りの、中の、名前も、書かれて、いない、誰かたちを。同じ、言葉が、時代を、越えて、繰り返し、使われて、いた。いちばん、安く、済む、言葉。削った、事実を、消す、ための、常套句。……それは、財前が、発明した、ものですら、なかった。財前は、ただ、昔から、ある、その、言葉を、上手に、使って、いるだけだった。
「木村さん」椎名の、声が、いつもの、平板さに、戻っていた。「この、事例集は、使えます。十年、近く、前から、同じ、処理が、繰り返されて、いる。それは、財前個人の、思いつきでは、ない、という、こと。安全を、コストと、呼ぶ、考え方は、もっと、古い。……どの、事故が、どの、時期の、方針の、下で、起きたか。時系列で、並べれば、辿れます。手順です」
証拠の、話に、戻っていた。椎名は、そこへ、戻ることで、自分を、抑えて、いるように、見えた。手が、止まった、ことなど、なかったかのように。淡々と、次の、綴りへ、手を、伸ばす。ただ、No.13の、写しは、最後まで、取らなかった。
「そうだな」サトルは、合わせた。「時系列で、辿ろう。……源を、見つければ、財前の、方針が、どこから、続く、流れか、分かる」
サトルは、それ以上、椎名の、手のことには、触れなかった。触れないことが、いま、できる、唯一の、ことだった。
だが、机の、上に、開かれた、ままの、綴りの、あの、一行を、サトルは、覚えて、おいた。No.13。八年前。誰かが、削って、誰かが、死んで、本人の、不注意で、処理された、古い、事故。椎名の、指が、白く、なった、一行。
あの、反応は、何だったのか。今は、問えなかった。問えば、崩れる。だが、サトルは、ふと、思った。名を、残さない、男を、追い詰める、鍵は。案外、証拠を、誰より、信じる、この人が――椎名、自身が、握って、いるのかも、しれない、と。それが、まだ、何なのかは、分からないまま。
財前の方針の根を辿るうち、二人は十年ほど前まで遡る古い事故事例集に行き当たります。保守を削り、事故が起き、「本人の不注意」で処理する――その形は、財前より古くからありました。そして、ある一行で、証拠がすべてのはずの椎名の手が、止まる。写しを取らなかった、たった一行の理由を、サトルは今は問えません。
次回、追う側だった二人に、財前の側が動きます。反撃は、いつも、静かに。
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