第38話:社外に、出た人災
これまでの、相手は、みな、社内に、いた。
大鷲も、財前も、黒瀬も、退魔株式会社の、名札を、下げていた。だから、追う、こちらにも、社内の、規程が、使えた。内部通報規程。情報開示請求。監査役ルート。敵の、いる場所と、こちらの、武器が、同じ、建物の、中に、あった。潰されるのも、規程で、だったが、闘えるのも、また、規程で、だった。
今度は、違った。
森下和也は、退魔株式会社の、社員では、ない。立花物流の、在庫管理課、夜勤担当。うちの、名簿には、載っていない。人事の、権限も、届かない。異動で、飛ばすことも、できなければ、面談ガイドで、通報を、取り下げさせることも、できない。森下和也と、その、家族は、退魔株式会社の、統制の、外に、いた。
サトルは、その、ことの、意味を、二つの、面から、考えた。会社は、社外の、被害者を、規程で、黙らせられない。だが、同じ、理由で、こちらも、社外の、被害者に、規程で、手を、伸ばせない。森下和也は、この、盤の、上には、いなかった。盤の、外で、倒れて、まだ、目を、覚まさない、でいた。
相良に、連絡を、取ったのは、椎名だった。
社外取締役の、相良とは、二か月前、九鬼の、一件で、一度だけ、深く、繋がった。あのとき、相良は、取締役会に、特別調査の、動議を、上げた。自分の、席を、賭けるように、して。その、相良が、指定したのは、本社から、離れた、駅の、静かな、喫茶店だった。役員が、部下でもない、調査員と、会う。それだけで、いまの、相良には、慎重さが、要るのだと、サトルは、知った。
「先に、申し上げておきます」相良は、コーヒーに、口を、つける前に、言った。「私が、動けるのは、文書に、対してだけです。それは、二か月前と、変わりません。……いや。二か月前より、私の、席は、軽く、なりました。あの動議で、私は、使える、力を、ほとんど、使い切った。もう一度、同じことを、するだけの、重さは、いま、ここには、ありません」
万能の、助っ人では、ない、と、その、言葉は、言っていた。サトルは、頷いた。むしろ、その、正直さが、相良という、人を、信じられる、理由だった。できないことを、できると、言わない。
「ただ」相良は、続けた。「一つ、あなたたちに、有利な、ことが、あります。……森下さんは、うちの、社員では、ない。だから、うちの、規程は、あの人には、効かない。あなたたちを、黙らせた、面談ガイドも、情報管理規程も、社外の、人には、振るえない。会社が、握り潰せるのは、社内の、声、だけです。外に、出た、声は――」
相良は、そこで、少し、間を、置いた。
「外に、出た、声は、うちの、規程の、外に、あります。潰す、道具が、ない」
相良は、鞄から、一枚の、紙を、出して、テーブルに、置いた。手書きではなく、印字された、メモだった。文書に、対してだけ、動く、人らしい、と、サトルは、思った。口約束を、しない。できることと、できないことを、紙に、して、渡す。
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面談メモ(社外取締役 相良)
日付:2026年6月18日
同席:木村サトル/椎名レイ(コンプライアンス室 内部通報窓口)
〔確認事項〕予防退魔サブスクにおける点検周期の間引き、及び契約先・立花物流株式会社での人身事故の疑いが、内部通報として係属していることを確認した。
〔当職ができること〕
・提出文書に不備がなければ、監査役会に情報提供を行う。
・ただし取締役会への付議の可否は監査役会の合議による。当職単独では確約できない。
〔当職ができないこと〕
・契約先の被災者・ご家族への、会社としての接触、及び補償交渉への関与。
・調査権限を持たない部署による、契約先への独自調査の追認。
※本件は社外に及んだ人身事故を含むため、社内案件として処理し切ることはできない。
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「最後の、一行が」椎名が、その、メモを、見て、言った。「大事だと、思います。……社内案件として、処理し切れない。会社は、この件を、いつもの、机の、上で、閉じられない。社外に、出た、被害が、あるから」
「そうです」相良は言った。「だから、私は、慎重に、なっている。……社外に、及んだ、人身事故は、いずれ、うちの、経営の、問題として、必ず、表に、出ます。労災。行政。あるいは、報道。そのとき、会社が、どう、振る舞ったかが、問われる。私が、いま、あなたたちに、できるのは、その日まで、文書を、一枚も、腐らせずに、置いておくこと。それだけです」
森下和也の、妻から、退魔株式会社に、問い合わせが、入っていた、と、サトルが、知ったのは、その、翌日だった。
立花物流の、契約先である、退魔株式会社の、代表窓口に、一件の、電話。倉庫の、結界の、点検は、本当に、行われていたのか。夫が、倒れた、あの、区画に、点検は、来ていたのか。それだけを、確かめたい、という、問い合わせだった。営業部が、対応に、困って、コンプラ室に、回してきた。社外からの、問い合わせは、通報では、ない。だが、内容は、あの、通報の、芯に、触れていた。
サトルは、慎重に、森下加奈に、会った。
森下加奈は、三十を、少し、過ぎた、くらいの、人だった。事故から、ひと月が、経っていた。夫は、まだ、意識が、戻らない。四歳の、娘は、祖母に、預けてきた、と、言った。声を、荒げる人では、なかった。ただ、言葉を、選びながら、静かに、話した。その、静かさの、下に、行き場の、ない、ものが、溜まっているのが、サトルには、分かった。
「主人は」加奈は言った。「立入禁止の、ところに、勝手に、入るような、人じゃ、ないんです。……几帳面で。夜勤を、選んだのも、昼間、娘と、いられるからで。ルールを、破って、得を、しようなんて、考えない、人でした。それが、なんで、あんな、区画に、一人で……」
言葉が、途切れた。
「会社からは」加奈は、鞄から、一枚の、書面を、出した。「これが、来ました」
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労働災害に関するご説明(立花物流株式会社)
文書番号:TR-2026-0533
作成日:2026年6月2日
作成部署:立花物流株式会社 総務部 安全衛生課
宛先:森下和也 ご家族 様
〔事故の位置づけ〕本件は、被災者が立入注意表示を無視し単独で立ち入ったことによる、本人の重大な過失に起因する事故と、当社は認識しております。
〔労災保険について〕上記のとおり本人の重大な過失が認められるため、休業補償給付等について給付が制限される場合があります。当社としては、下記の見舞金により円満に解決いたしたく存じます。
〔見舞金〕金50万円(一時金・示談成立を条件とする)
〔付記〕当該区画の結界設備については、専門業者による直近点検で異常なしとの報告を受けており、設備上の瑕疵はございません。
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サトルは、その、書面を、二度、読んだ。
付記の、一行に、目が、止まった。専門業者による、直近点検で、異常なし。……専門業者とは、退魔株式会社の、ことだった。予防退魔事業部が、三月九日で、止まった、点検を、「異常なし」と、書き延ばした、あの、対応記録。それが、立花物流の、手に、渡り、いま、森下加奈への、書面の、いちばん、下で、盾に、なっていた。設備上の、瑕疵は、ない。うちが、そう、言ったからだ。
削られた、安全の、ツケが、どこへ、行ったのかを、サトルは、初めて、目で、見た、気が、した。数字の、上では、とうに、消えていた。契約数は、伸びた。点検実施率は、参考値に、なった。……だが、ツケは、消えて、いなかった。会社の、外の、一つの、家庭の、机の、上に、五十万円の、見舞金と、示談書と、意識の、戻らない、夫と、四歳の、娘の、形で、届いていた。
「森下さん」サトルは、慎重に、言葉を、選んで、言った。「ご主人が、注意を、怠ったのでは、ないかもしれません。……あの、区画の、結界は、二か月半、点検されていませんでした。効き目が、切れていた、可能性が、あります。もし、そうなら、あの夜、あそこに、立った人は、誰であっても、危なかった。ご主人が、ルールを、破ったから、倒れたんじゃ、ない。安全が、先に、そこから、抜かれていた。……順番が、逆なんです」
加奈は、しばらく、黙っていた。それから、小さく、言った。
「結界とか、退魔とか」加奈は言った。「私には、よく、分かりません。……ただ、点検が、来ていたのか、来ていなかったのか。それだけは、知りたいんです。来ていなかったのなら、主人は、守られる、はずの、場所で、守られなかった。それを、本人の、不注意だと、言われるのは……」
加奈は、そこで、初めて、声を、詰まらせた。怒りではなく、困惑に、近い、詰まり方だった。守られる、はずだった、という、その、一点を、誰にも、認めてもらえない、人の、詰まり方だった。
サトルは、二か月前の、九鬼を、思った。九鬼の、「本人の、不注意」は、社内の、示談書の、一行で、閉じた。会社が、決裁し、会社が、値切り、会社が、しまい込んだ。……だが、森下和也の、「本人の、不注意」は、閉じきれて、いなかった。閉じた、はずの、その、一行の、下から、森下加奈という、一人が、問いを、手に、立っていた。会社の、規程が、一つも、届かない、場所に。
初めて、財前の、数字に、外側から、罅が、入る、気が、した。面談ガイドでは、加奈を、黙らせられない。情報管理規程も、彼女には、振るえない。彼女は、盤の、外に、いる。そして、盤の、外から、盤を、見て、「おかしい」と、言っていた。
ただ、と、サトルは、思った。
問いは、まだ、問いだった。点検が、来ていなかった、こと。結界が、切れていた、こと。それが、森下和也を、倒したこと。その、三つの、間を、一本に、繋ぐ、決定打が、まだ、無かった。加奈の、困惑も、相良の、慎重さも、それだけでは、財前の、机までは、届かない。罅は、入った。だが、罅は、まだ、罅だった。
会社に、戻ると、椎名は、まだ、席に、いた。端末に、点検ログの、写しを、開いて、一つの、行を、じっと、見ていた。間引かれた、周期の、いちばん、古い、日付。以前も、椎名の、指が、一瞬、止まった、あの、行だった。サトルが、声を、かけると、椎名は、少しだけ、遅れて、顔を、上げた。何でもない、というふうに。だが、その、目の、奥に、サトルは、これまで、見た、ことの、ない、色を、見た、気が、した。
外から、入った、罅を、財前まで、届かせる、一本は――まだ、椎名の、指の、下で、その、日付を、探していた。
人災の射程が、社外の一つの家庭に届いていました。意識の戻らない夫、四歳の娘、そして「本人の重大な過失」を理由に給付を制限し、五十万円の見舞金と示談で閉じようとする書面――その盾には、予防退魔事業部が書き延ばした「異常なし」が使われていました。社内の規程が一つも届かない場所に立つ森下加奈の問いが、財前の数字に、初めて外側から罅を入れます。社外取締役・相良は限定的に糸を繋ぎますが、できるのは「その日まで文書を腐らせずに置く」ことまで。
次回、点検の空白と事故を一本に繋ぐ決定打を求める調査の中で、椎名が、ある日付に、強く、反応します。
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