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大手退魔会社のコンプラ室に異動したら、怪異被害は全部「人災」でした 〜安全装備を半分に減らした役員を、社内文書だけで失脚させます〜  作者: 氷室 累


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第37話:俺は、数字を作っただけだ

 二度目の、企画部長室だった。


 前に、来たときと、同じ、十二階。役員室の、ある、階の、一つ、下。黒瀬は、前と、同じように、座らずに、机の、端を、指で、叩いていた。ただ、その、間隔が、前より、短かった。サトルたちが、一度で、帰らずに、また、来た。それが、何を、意味するかを、この、男は、分かっているようだった。


 サトルは、一枚の、紙を、机の、上に、置いた。立花物流の、事故報告書。文書番号、TR-2026-0517。被害者の、欄に、名前が、印字されていた。


 「森下、和也さん」サトルは、穏やかに、言った。「三十四歳。立花物流の、在庫管理課。夜勤担当です。……五月二十二日の、午前二時四十分。御社の、点検先の、第二倉庫棟、B区画で、倒れました。意識は、まだ、戻っていません。妻と、四歳の、娘さんが、います」


 黒瀬の、指が、止まった。それから、また、動き出した。


 「その、件は」黒瀬は、早口で、言った。「前も、言ったはずだ。調査中でしょう。因果関係は、まだ、出ていない。点検を、飛ばしたから、あの人が、倒れた、なんて、誰も、証明していない。結界の、劣化は、目に、見えない。見えないものを、こっちの、せいには、できないはずだ」


 「B区画の、直近点検は」椎名が、隣で、端末を、開いた。声は、平板だった。「三月九日です。以降、点検の、記録は、ありません。事故は、五月二十二日。……二か月半、誰も、あの区画の、結界を、見ていない。規定なら、四月にも、五月にも、点検が、あるべきでした。それが、飛んでいます」


 「なのに」サトルは言った。「御社が、立花物流に、出した、対応記録には、『異常なし』と、書いてある。……見ていない、期間の、ことを、正常だと、言い換えて、あります。誰が、その、点検を、飛ばす、判断を、したんですか」


 黒瀬は、机の、向こうで、腕を、組んだ。若い、部長の、肩が、わずかに、上がった。


 「現場の、裁量だ」黒瀬は言った。「周期は、各エリアが、決める。俺は、周期を、間引けなんて、一言も、言っていない。効率的に、回せと、言っただけだ。あとは、現場が、どう、やり繰りするか、だ。……俺の、責任じゃ、ない」


 「上が、伸ばせと、言ったから」サトルは、静かに、繰り返した。前に、この、部屋で、聞いた、言葉だった。「そう、おっしゃいましたね。前に。……財前役員が、契約数を、伸ばせと、言った。あなたは、それに、応えた。だから、俺は、数字を、作っただけだ、と」


 「そうだ」黒瀬は言った。堰を、切ったように、喋り出した。「予防退魔サブスクは、成長事業だ。契約数が、事業部の、評価の、すべて。前年比、百三十パーセントを、四半期で、作れと、言われた。人員は、増えない。時間も、増えない。……だったら、どこかを、削るしか、ない。俺は、命じられた、数字を、作った。それの、どこが、悪い。悪いのは、そんな、数字を、下ろしてきた、経営企画のはずだ」


 サトルは、黒瀬を、黙って、見た。この、男は、また、財前の、名を、出した。自分から。責任を、上へ、投げる、その、素振りは、前より、なめらかになっていた。何か、あったら、こう、言う、と、二か月の、あいだに、決めていたのだろう。上が、言った。俺は、応えた、だけだ、と。


 「一つ、お見せします」サトルは言った。「あなたと、現場の、やり取りです」


 サトルは、二枚目の、紙を、机に、置いた。


──────────────

社内メール(予防退魔事業部 内) 抜粋


〔往信〕

 差出人:東部エリア 点検担当 峰岸

 宛先:企画部長 黒瀬

 日付:2026年4月3日

 件名:点検周期の件(ご相談)


 黒瀬部長

 東部エリアの既存契約先について、規定どおり月1回の点検を維持すると、新規営業へ回せる人員が確保できません。担当は現在62件、増員はなく、古い契約先の点検が回りきりません。実地に行けないまま、票だけ先に「異常なし」で起票している状態が続いています。増員をご検討いただけないでしょうか。


〔返信〕

 差出人:企画部長 黒瀬

 宛先:東部エリア 点検担当 峰岸

 日付:2026年4月3日

 件名:Re: 点検周期の件(ご相談)


 増員は今期はない。人は増えない前提で回してくれ。既存点検は、契約数の達成を最優先にした上での裁量でよい。周期は各エリアで詰めてくれて構わない。票の起票は、契約先が困らない範囲で運用を。評価は契約数で見る。点検実施率は期初に示したとおり参考値だ。まずは数字を作ってくれ。

──────────────


 部長室が、静かになった。


 「四月三日」サトルは言った。「事故の、七週間、前です。……峰岸さんは、あなたに、はっきり、伝えています。実地に、行けないまま、票だけ、先に、『異常なし』で、起票している、と。危ないと、分かって、いた人が、いた。あなたに、上げていた。そして、あなたは、こう、返した。まずは、数字を、作ってくれ、と」


 黒瀬は、その、メールを、見ていた。指が、また、机を、叩き始めた。今度は、速かった。


 「……それは」黒瀬は言った。「起票の、運用の、話だ。俺は、票に、嘘を、書けとは、言っていない。困らない範囲で、と、書いてある。常識の、範囲だ。……解釈の、問題だろう」


 「峰岸さんは」椎名が言った。「あなたの、返信を、受け取ったあと、実地に、行けなかった、B区画の、票に、『異常なし』と、書きました。三月九日を、最後に。その、区画で、森下さんが、倒れました。……解釈では、ありません。順番です。あなたが、まずは、数字を、と、返した。現場が、票を、埋めた。その、票の、先で、人が、倒れた」


 サトルは、二枚の、紙を、並べた。四月三日の、メールと、五月二十二日の、事故報告書。怪異が、森下を、襲ったのではなかった。まずは、数字を、と、返信された、その、瞬間に、危険は、もう、B区画に、置かれていた。効かなくなった、結界を、誰も、見に、行けないまま。あとは、あの夜、そこに、誰が、立つかだけの、話だった。


 「部長」サトルは言った。「このメールにも、あなたの、名が、あります。営業目標通達にも、ありました。差出人、黒瀬。点検より、契約数を、優先しろと、書いたのは、あなたの、名です。……財前役員の、名は、どこにも、ありません。伸ばせと、言った、方の、名は、一つも、残っていない。削れと、返した、方の、名だけが、残っている」


 黒瀬の、顔から、早口の、勢いが、抜けた。腕が、組まれたまま、こわばった。


 「財前さんに」黒瀬は言った。声が、少し、掠れた。「言えばいい。俺は、あの人の、指示で、動いただけだ。……あの人に、聞けよ」


 「聞いても」サトルは言った。「財前役員は、痛くない。方針しか、示していないからです。伸ばせ、としか、言っていない。どう、伸ばすかを、通達に、書き、まずは、数字を、と、現場に、返したのは、あなただ。……あなたが、財前役員を、指さしても、その、指の、先には、方針しか、ない。方針は、人を、倒せない。倒せるのは、名の、残った、指示だけです。あなたの、名の、残った」


 黒瀬は、答えなかった。若い、部長の、目の、奥に、サトルの、知っている、色が、また、よぎった。野心の、下に、薄く、敷かれた、不安。前に、来たときにも、見た、色だった。だが、今日は、それが、濃かった。この、男は、もう、気づいている。大鷲が、去ったのを、この、男は、一つ下の、階から、見ていた。名を、残した、実行役が、どう、切られたかを。そして、いま、自分の、机の、上に、同じ、形の、紙が、二枚、並んでいた。


 サトルは、少し、声を、落とした。


 「あなたは」サトルは言った。「数字を、作れと、命じられた。応えた。それを、悪いとは、言いません。あなたも、追われていた。……でも、数字を、作れと、命じられた側は、いつか、同じ、その、数字で、切られます。上手くいった、契約数は、手柄には、ならない。飛ばした、点検の、先で、人が、倒れたときだけ、あなたの、名が、残る。森下さんを、削った、その、設計の、いちばん、下に、いつか、あなたも、立たされる。大鷲さんが、そうだったように」


 黒瀬は、長いあいだ、何も、言わなかった。指は、もう、机を、叩いていなかった。組んだ、腕の、下で、その、指は、ただ、固く、握られていた。


 部長室を、出て、廊下で、椎名が、端末を、閉じた。


 「あの人は」椎名は言った。「今日は、財前の、名を、二度、出しました。前より、早く。……もう、切られる、順番が、来ることを、知っています。名を、残してしまったことも。何か、あれば、迷わず、財前を、指さすでしょう」


 「ああ」サトルは言った。「でも、指さされても、財前は、痛くない。……黒瀬は、名を、残した。だから、倒せる。大鷲と、同じだ。名の、残った、実行役は、文書で、倒せる。手順は、もう、俺たちが、知ってる」


 サトルは、十二階の、廊下から、一つ、上の、階を、見上げた。役員室の、ある、階。


 「でも、その、上は」サトルは言った。「財前は、方針を、示しただけだ。伸ばせ、としか、言っていない。どこにも、名を、残していない。……黒瀬を、倒しても、あの、机は、動かない。同じ、設計図を、また、次の、誰かに、渡すだけだ」


 椎名は、答えなかった。ただ、廊下の、窓の、外を、一度、見た。それから、静かに、言った。


 「なら」椎名は言った。「名を、残していない、相手を、どう、倒すか、です。……その前に、社外に、出た、この、一件を、社内だけで、閉じさせない。森下さんは、うちの、社員じゃ、ない。だからこそ、うちの、内側の、論理では、握り潰せない」


 サトルは、頷いた。森下和也。三十四歳。まだ、意識の、戻らない、一人。その、名は、もう、退魔株式会社の、通報番号の、中には、収まらなかった。被害は、会社の、塀の、外へ、こぼれていた。ならば、届ける先も、塀の、外に、ある。社外取締役の、相良。あの、慎重な、監査役の、糸を、もう一度、手繰る、時が、来ていた。

 サトルたちは二度目の対決で、黒瀬に立花物流の事故と、点検より契約数を優先させた社内メールを突きつけます。黒瀬は「上が伸ばせと言った、俺は数字を作っただけだ」と財前へ責任を投げますが、削れと返したメールにも通達にも、残っているのは黒瀬自身の名。名を残した実行役は倒せる――大鷲のときと同じ形が、二枚の紙の上に並びました。数字を作れと命じられた側も、いつか、その数字で切られる。黒瀬の目に、初めて濃い不安がよぎります。


 次回、被害が社外へ及んだ以上、この一件はもう社内だけの問題ではありません。二人は、意識の戻らない被害者の側と、慎重な社外取締役・相良へと、塀の外の糸を手繰り始めます。


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