第4話:遺族に渡された、一枚の示談書
九鬼透という人間のことを、サトルは何も知らなかった。同じ会社の、会ったこともない、二十九歳。
「経歴を出します」椎名が人事データを開いた。「九鬼透。新卒入社、七年目。第三事業部、関東第二班。勤怠は良好。むしろ――良すぎます。残業時間が、規定上限に、毎月ぴったり張りついている」
「上限に、張りついてる?」
「規定では、これ以上は働かせられない、という線です。九鬼さんは、毎月、その線まで働いていた。そして、線を、超えていない」椎名は淡々と言った。「きれいすぎます。台帳の、二十枚と、同じ匂いがする」
サトルは、その意味を、現場にいた体で理解した。上限を超えた残業は、記録に残せない。だから、記録の上では、超えない。超えた分は、どこかへ消える。数字は、いつも、きれいに整えられる。整えられた数字の下で、人は、すり減っていく。
「九鬼さんの、業務記録は残ってるか」
「本人のフォルダに、日報が」椎名がファイルを開いた。「几帳面な人ですね。毎日、装備の点検記録まで、自分でつけている」
九鬼の日報を、サトルは一日分ずつ、遡って読んだ。淡々とした、実直な記録。そして、事故の、二週間前の日付で、手が止まった。
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業務日報 記入者:九鬼透 ※本人フォルダ保存分(未提出)
本日、関東第二班 配備の結界札を実数確認。規定二十枚に対し、実配備十枚。班長に報告するも「上の方針」とのこと。
安全衛生委員会に、書面で改善を申し入れる予定。記録として残す。
――安全は、すべてに優先する、はずだ。
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「……申し入れる予定、で、止まってる」サトルは低く言った。「この二週間後に、九鬼さんは、死んだ」
九鬼は、気づいていた。結界札が半分しかないことに。声を上げようとしていた。書面で、記録として。だが、その書面が安全衛生委員会に届く前に、彼は現場で、たった十枚の結界札を持って、怪異と向き合い――帰ってこなかった。
椎名は、しばらく、日報の最後の一行を見ていた。安全は、すべてに優先する、はずだ。あのポスターと、同じ言葉。ただし、末尾に「はずだ」が付いていた。
「木村さん」椎名が言った。「これは、憶測じゃないですよね」
「ああ」
「九鬼さんは、自分が危ないと、知っていた。会社に、伝えようとしていた。それは、事実として、記録に残っている」
「残ってる」サトルは頷いた。「本人の、字で」
次に二人が辿ったのは、九鬼の「死後」だった。会社が、遺族に、何を渡したのか。
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示談に関する確認書(写し)
当社は、故・九鬼透氏の逝去につき、本人の判断ミスによる過失であることを前提に、以下の弔慰金をもって円満に解決したものとする。
弔慰金額:(労災の法定最低額に相当)
特記:本件に関し、当社の安全管理体制に瑕疵はなかったものとする。遺族は、本件につき、今後一切の異議申立を行わない。
起案・折衝担当:人事部 労務管理課/決裁:大鷲
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「本人の、判断ミス」サトルは、その一行を、指でなぞった。「規定の半分の装備で行かせて、死んだら、本人の判断ミス。弔慰金は、最低額。そのうえ、異議は申し立てるな、と」
「そして、この示談の、二日後です」椎名がログを並べた。「台帳が、二十枚に書き換えられたのは。示談で『瑕疵はなかった』ことにして、その裏づけに、記録を整えた。順番が、きれいに、揃っています」
サトルは、しばらく、何も言わなかった。
現場を辞めた日のことを、思い出していた。サトルの班にも、いた。真面目で、几帳面で、上限まで働いて、それでも「大丈夫です」と笑っていた、後輩が。装備の不備を、サトルは知っていた。上に言った。「予算の範囲で」と、返ってきた。次に言おうとした朝には、もう、遅かった。
サトルが現場を辞めたのは、怪異が怖かったからではない。怪異は、規定で祓える。祓えなかったのは、あの「予算の範囲で」の一言だった。あれを、祓う方法を、サトルは知らなかった。
「木村さん?」
「……いや」サトルは、顔を上げた。「九鬼さんは、俺じゃ、ない。今度は、間に合わせる」
椎名は、それ以上、聞かなかった。ただ、示談書の写しを、証拠フォルダに、静かに加えた。
「一つ、整理させてください」椎名が言った。「稟議書で、方針が決まっていた。日報で、九鬼さんが危険を訴えていた。示談書で、過失に付け替えられた。台帳で、記録が整えられた。――全部、文書で、繋がります」
「繋がる」サトルは頷いた。「あとは、これを、一つの形にするだけだ」
「ただ」椎名の指が、止まった。「一つだけ、繋がらないものが、あります」
彼女は、最初の通報のログを、もう一度、開いた。
「この、九鬼さんのアカウントから届いた通報。死後、一か月経ってから。……これだけは、どの文書とも、繋がらないんです」
サトルは、その通報文を、また、見た。
――先月の九鬼さんの事故は、本当に事故だったのでしょうか。調べてください。
「これを送ったのが、誰なのか」サトルは静かに言った。「それだけ、まだ、分からないままだ」
文書は、繋がった。九鬼透は、知っていて、訴えていて、そして、過失にされた。あとは、この証拠を、どこへ持っていくか。
次回、二人は調査を一本の報告書にまとめ、正式に受理する。だが、その報告書を「受理する」こと自体を、止めようとする力が、静かに動きはじめる。
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