第3話:稟議書一枚で、役員室のドアは開く
人事部の役員決裁ライン。そこに名前を入れられる人間は、多くない。
「役員決裁の権限を持つのは、現在、三名」椎名が組織図を開いた。「うち、人事担当は一人だけです。人事担当役員――大鷲」
「大鷲」サトルは、その名を口の中で転がした。「顔は?」
「社内報の常連です」椎名が写真を表示した。五十代半ば、仕立ての良いスーツ。温和な笑み。「安全大会の挨拶を、毎年しています。『安全は、すべてに優先する』――例のポスターの言葉、あの人の発案だそうです」
サトルは、壁のポスターを見た。安全は、すべてに優先する。その言葉を作った男の決裁ラインから、結界札は半分に削られていた。
「決裁者本人の名前は、まだ物証じゃない」サトルは言った。「権限ラインが人事役員だってだけだ。大鷲が押したとは、記録上は言えない」
「言えます」椎名が、初めて、先回りした。「稟議書の、電子署名です」
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稟議書 起案番号:2025-J-0088
件名:第三事業部 消耗品費 四半期執行方針について
起案:人事部 労務管理課
趣旨:「各事業部の消耗品発注につき、四半期予算の実効性を高めるため、標準配備数の運用見直しを行う。安全備品を含む消耗品は、実配備実績に基づき最適化する。」
電子署名(決裁):大鷲 2025年1月9日 承認
備考:本方針は台帳上の標準値を維持したまま運用すること。
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「――『台帳上の標準値を維持したまま運用すること』」
サトルは、その一行を、二度読んだ。
「これは」椎名の声から、平らさが、少しずつ剥がれていった。「発注は実配備に合わせて減らす。でも、台帳の数字は、規定どおりのまま維持する。……つまり」
「帳簿の上では、規定を守っているように見せろ、と書いてある」サトルは言った。「大鷲の署名で。半年前に。九鬼さんが死ぬ、ずっと前に」
結界札を半分に減らす方針は、事故のあとに慌てて隠したものではなかった。事故の、半年も前から、文書で、正式に、決裁されていた。台帳を維持しろ、という指示と、ワンセットで。
「九鬼さんの死後に台帳を書き換えたのは」椎名が続けた。「隠蔽じゃない。この方針どおりに、記録を『整えた』だけ。指示された運用を、忠実に実行しただけなんです」
「その忠実さが、人を、死んだことにできる」
オフィスが、静かだった。
サトルは、稟議書の電子署名を、もう一度見た。大鷲、承認。日付。動かせない。人が押した判は、消せる。だが、電子署名のログは、消せない。物は、嘘をつかない。
「椎名さん」サトルは静かに言った。「この稟議書、押さえてくれ。原本のハッシュごと」
「もう、取りました」椎名は、すでにスクリーンショットを三枚、保存し終えていた。「……木村さん。私は、怪異を信じません。今も。でも」画面の署名を見たまま、彼女は言った。「これは、怪異じゃない。人が、判を押したものです。それなら、私の領分です」
その日の午後、サトルは、思いがけず、大鷲本人と会うことになった。
廊下で、向こうから歩いてきたのだ。役員が、コンプライアンス室のある階に。温和な笑みを浮かべたまま、大鷲はサトルの前で足を止めた。
「木村くん、だったね。元・現場の。……熱心に、調べてくれているそうだね」
声は、穏やかだった。決して、語気を荒げない。
「九鬼くんの件は、私も、胸を痛めているんだ」大鷲は言った。「気の毒な事故だった。だがね、木村くん。会社というのは、大勢の生活を背負っている。一人の不幸のために、全体を揺らすわけにはいかない。……安全は、すべてに優先する。だが、優先するためには、まず、会社が続いていなければならないんだよ。分かるだろう?」
サトルは、大鷲の顔を、まっすぐ見た。
「稟議書、拝見しました」サトルは言った。「起案番号2025-J-0088。あなたの署名で、結界札は半分になり、台帳は維持しろと決裁されていました」
大鷲の笑みは、崩れなかった。ほんの一瞬、目の奥だけが、動いた。
「……熱心なのは、良いことだ」大鷲は、静かに微笑んだまま言った。「だが、木村くん。文書というのはね、読み方で、いくらでも意味が変わる。気をつけたまえ。――きみ自身の、ためにも」
そして、何事もなかったように、歩き去った。
サトルは、その背中を見送った。留飲を、押し殺しながら。今、勝ったわけではない。だが、確かに、届いた。あの温和な笑みの奥に、一瞬の動揺を、こちらは見た。物証は、こちらの手の中にある。
席に戻ると、椎名が言った。
「顔、見ましたか」
「見た」サトルは椅子に座った。「あれが、九鬼さんを『気の毒な事故』にした顔だ」
「report に、書けますね」椎名が、初めて、ほんの少しだけ、口の端を上げた。「憶測じゃなくて。署名付きで」
物証は、揃いはじめた。だが、大鷲は役員で、こちらは調査員二人。稟議書一枚で、この男を止められるわけではない。
次回、二人は九鬼透という人間の「死後」を辿る。遺族に、会社が渡した一枚の書類が、次の入口になる。
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