第29話:トカゲの尻尾
その日の、審議は、長かった。
特別調査委員会の、設置。付議者は、社外取締役の、相良。彼は、多くを、語らなかった。ただ、一言だけ、卓に、置いた。
「社内の、手続で、社内の、不正は、正せません」相良は言った。「だから、社外の、目が、要る。私の、椅子が、その代償なら、安いものです」
自分の、再任を、賭けた男の、静かな声だった。サトルは、その横顔を、見て、思った。この人は、味方に、なったのではない。文書が、正しいことに、賭けた。それだけの、人だった。
採決は、可決だった。特別調査委員会の、設置。第三者を、含む、独立した、調査。九鬼の、死と、四十五件の、取り下げと、装備の、削減について。もう、社内の、誰にも、握り潰せない場所へ、案件は、移った。
そして、人事担当役員・大鷲の、進退。
夕刻、社内ポータルに、一枚の、通知が、載った。
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役員人事に関するお知らせ(2026年4月28日)
当社 人事担当役員 大鷲は、本日付をもって、役員の職を、辞任いたしました。
あわせて、当社は、独立した特別調査委員会を、設置し、過去の
安全装備の配備、通報対応、および関連する人事措置について、
全面的な、調査を、開始いたします。
安全は、すべてに優先する。この理念に、揺らぎは、ありません。
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辞任。引責。サトルは、その二文字を、しばらく、見ていた。留飲が、下がる、というより、静かな、疲れが、来た。温和な笑顔で、四十五人を、飛ばし、九鬼を、死なせた男が、卓を、去る。だが、九鬼は、戻らない。倒したのは、隠蔽の、達人だった。倒せたのは、彼が、印を、押しすぎたからだった。
「一つ、片付きました」椎名が、通知を、見て言った。声は、平板だった。「大鷲は、自分の名を、四十五件の、決裁に、残した。だから、倒せた。名を、残した人間は、文書で、倒せます」
「ああ」サトルは、頷いた。それから、財前の、席の、あった方を、見た。「……あっちは」
その、疑問に、答えるように。翌朝、財前から、内線が、来た。役員フロアの、小会議室。前と、同じ、部屋だった。
財前は、前と、同じ、穏やかな顔で、座っていた。狼狽は、どこにも、なかった。
「大変な、ことに、なったね」財前は言った。まるで、他人事のように。「大鷲くんは、残念だった。彼は、真面目すぎたんだ。現場のことを、抱え込みすぎた。……台帳の、こまかい運用まで、一人で、決めていたとはね。私は、知らなかったよ」
「知らなかった」サトルは、繰り返した。
「経営企画は、大きな、方針を、示すだけだ」財前は、静かに言った。「稼働を、上げる。コストを、適正化する。それは、経営として、当然の、判断だ。その方針を、現場で、どう、実行するか。装備を、どう、配るか。台帳に、何を、書くか。……それは、人事と、現場の、仕事だよ。私は、数字の、目標を、置いた。それを、人の命で、払った人間が、いたのなら――それは、実行した、彼らの、責任だ」
サトルは、その、論理の、なめらかさに、寒気を、覚えた。
稼働効率化目標150%。承認、財前。その一行は、確かに、あった。だが、財前は、その上で、「目標を、置いただけ」と、言う。目標と、人災の、間には、大鷲の、決裁が、里見の、面談が、郷田の、沈黙が、いくつも、挟まっている。財前は、その、間に挟まった、実行役たちを、まるごと、切り離した。しっぽを、切る、トカゲのように。頭は、無傷で、逃げる。
「あなたが」サトルは言った。「安全投資抑制方針を、決めた。稼働を、一・五倍にすれば、安全工程が、削られることは、分かっていたはずだ」
「『分かっていたはず』」財前は、微笑んだ。「それは、きみの、推測だね、木村くん。文書に、あるかな。私が、安全を、削れと、指示した文書が。稼働の、目標なら、ある。だが、目標を、掲げることは、罪じゃ、ない。……立証、できるかい。きみたちが、得意な、文書で」
サトルは、答えられなかった。財前の名は、稼働目標の、承認欄と、あの議事録の、〔議長〕の、欄に、しか、ない。方針を、示した。承認した。それだけだった。「安全を、削れ」と、書いた紙は、どこにも、なかった。名を、残さない男。それが、大鷲との、違いだった。
「今日は」財前は、立ち上がった。「忠告に、来たんだ。きみは、大鷲くんを、倒した。大したものだよ。本当だ。……でも、そこまでだ。数字は、罪には、ならない。これ以上、上を、見上げても、きみが、掴めるものは、ない。……九州は、いい所だそうだよ。海が、近い」
部屋を、出ていく、その背中を、サトルは、見送った。留飲の、あとに、残ったのは、もっと、冷たいものだった。実行役は、倒した。だが、その実行役に、数字を、渡した男は、無傷で、役員室に、座っている。人災を、決めた「最適解」は、まだ、消えていない。
窓口に、戻ると、椎名が、待っていた。
「異動は」椎名が言った。「撤回されました。さっき、人事から、通知が。報復人事は、特別調査の、対象ですから。会社は、いま、あなたを、飛ばせません」
サトルは、頷いた。的場も、守られた。西野は、寝返りが、実を結び、室長の席に、残った。篠田の、三年前の、証言も、無駄には、ならなかった。守るべきものは、守れた。倒すべき、実行役も、倒した。
「でも」サトルは言った。「本丸は、残った」
「ええ」椎名は、静かに、言った。「大鷲は、しっぽでした。財前が、頭です。……名を、残さない頭を、どう、文書で、倒すか。それは、たぶん、大鷲の、比じゃ、ありません」
サトルは、財前の、去り際の、笑みを、思った。数字は、罪には、ならない。そう、言い切った、あの顔を。次は、あの男が、卓の、こちら側に、来る番だった。
特別調査委員会の設置が可決され、人事担当役員・大鷲は引責辞任。装備削減も通報潰しも、社外の目に委ねられました。サトルの異動は撤回され、的場も、西野も、守られた。実行役の隠蔽は、彼自身が押した印によって、倒された。
だが、経営企画の財前は「私は方針を示しただけ」と、実行役ごと切り離して、無傷で残る。名を残さない決裁者を、どう文書で倒すのか――それは、次の戦いへ。
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