第20話:まだ、上が、いた
その日、サトルの内線に、聞き慣れない番号が灯った。
出ると、秘書室の女性の、抑揚のない声だった。経営企画担当役員の財前が、少し話したいと言っている。今日の、夕方。窓口ではなく、役員フロアの、小会議室で。
サトルは、受話器を置いてから、しばらく動けなかった。財前。稼働効率化目標を承認した、あの名前。大鷲の、上。名前だけは、何度も文書で見てきた。だが、会ったことは、一度もなかった。
「呼ばれたよ」サトルは言った。「財前役員に。俺一人で」
椎名は、手元の端末から、目を上げた。何も言わなかった。ただ、開きかけていた資料のフォルダを、静かに閉じて、いつでも記録に残せる姿勢に、指を置いた。それが、彼女の返事だった。
夕方の役員フロアは、静かだった。小会議室のドアを開けると、財前は、もう座っていた。五十がらみの、痩せた男だった。上等だが地味なスーツ。眼鏡の奥の目は、穏やかで、疲れていた。机の上には、書類も、端末も、何も、なかった。
「木村くん」財前は、立ち上がりもせず、椅子を、勧めた。「忙しいのに、すまないね。座ってくれ」
声が、静かだった。大鷲の、あの微笑む温度とは、違った。大鷲は、こちらを説き伏せようとする熱があった。財前には、それすら、なかった。ただ、事実を、確認しに来た人の、声だった。
「きみのことは、報告で、読んでいる」財前は言った。「結界札の配備数、台帳の更新履歴、示談の額。……よく、調べたね。数字の、扱いが、うまい。現場にいた人は、違う」
褒めているのか、値踏みしているのか、分からなかった。サトルは、黙って、座った。
「一つ、聞かせてくれ」財前は、指を、机の上で、軽く組んだ。「きみは、何を、止めたいんだ」
「人が、死んでいる」サトルは言った。「安全を削って、削った分だけ、人が、死んでる。九鬼さんも、その一人だ」
財前は、頷いた。否定しなかった。それが、かえって、恐ろしかった。
「そうだね」財前は、静かに言った。「削れば、死ぬ。削らなくても、死ぬ。……木村くん。人は、いつか、必ず、死ぬ。問題は、何人を、いくらで、守るか、だ。私は、その、最適解を、出しただけだよ」
サトルは、息を、止めた。
声は、荒れていなかった。恫喝も、懐柔も、なかった。財前は、ただ、自分の信じている、計算の答えを、口にしていた。人ひとりの命を、単価と、頭数に、置き換えて。そして、その置き換えを、少しも、疑っていなかった。
「一人の退魔師を、守るために、いくらかかる」財前は、続けた。「結界札を、規定どおり、全班に、二十枚。点検を、規定どおり、毎月。要員を、規定どおり、二人一組。……全部、足すと、会社は、傾く。傾けば、もっと、大勢が、路頭に迷う。私は、その天秤を、預かっているんだ」
「あんたは」サトルは、机の上の、何もない天板を、見た。「一人も、現場を、見ていないな」
「見ないよ」財前は、あっさりと、認めた。「見たら、割り切れなく、なる。木村くん、それは、私の仕事じゃ、ない。私の仕事は、顔を、見ないことだ。顔を見れば、一人を、助けたくなる。一人を助ければ、その裏で、名前も知らない十人が、割を食う。……見ない方が、公平なんだよ。冷たいと、思うかね。だが、情で、目盛りを、動かす方が、よほど、罪が深い」
サトルは、返す言葉を、探した。見つからなかった。財前の理屈は、どこにも、破れ目が、なかった。人を、数として扱うことを、優しさだと、信じきっている。その、完成された、閉じた円が、恐ろしかった。
「その天秤は」サトルは、ようやく、声を、絞り出した。「あんたが、勝手に、決めた目盛りだろう」
「私が、決めたわけじゃ、ない」財前は、初めて、わずかに、首を振った。「決めたのは、会議だ。私は、方針を、示しただけ。目盛りを、動かしたのは、みんなの、合意だよ」
その言い方に、サトルは、ぞっとした。大鷲は、「会社のため」と、自分の言葉で、語った。財前は、自分の言葉すら、会議に、預けていた。誰も、決めていない。だから、誰も、悪くない。そういう、逃げ方だった。
会話は、それで、終わった。財前は、脅しも、取引も、持ち出さなかった。ただ、「きみの熱意は、惜しい」とだけ言って、部屋を、出ていった。何も、残さずに。
窓口に戻ると、椎名が、待っていた。サトルが、財前の言葉を、そのまま伝えると、椎名は、しばらく、黙っていた。それから、端末を、開いた。
「稼働効率化目標の、上に、何かが、ある」椎名は言った。「財前は、『方針を示した』と、言ったんですね。目標ではなく、方針。……開示請求を、かけていた分に、経営会議の議事録が、一件、含まれていました。今朝、開示が、下りています」
彼女は、その一枚を、画面に、映した。
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経営会議 議事録(抜粋) 管理番号:2025-BM-014
開催日:2025年1月8日
議長:財前
付議事項:全社中期コスト構造の見直しについて
〔決定事項〕
全社「安全投資抑制方針」を承認する。
安全関連投資(結界設備・定期点検・現場要員)を前年度比で抑制し、
これを稼働効率化目標(前年比150%)の原資とする。
〔議事〕
議長より、上記方針の提案があった。
各担当役員より、異議は述べられなかった。全会一致で承認。
〔備考〕
実施要領・数値目標は、各担当部門にて策定する。
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サトルは、その一枚を、何度も、読んだ。
稼働効率化目標の、前年比一・五倍。あれは、目標に、すぎなかった。その上に、「安全投資抑制方針」という、全社の、大きな器があった。安全を、コストと呼び、削ることを、あらかじめ、決めた器。九鬼の結界札が、二十枚から十枚に減ったのも、点検が間引かれたのも、この一枚の、下流だった。
怪異が、人を、殺したのではなかった。この、一行の方針が、先に、人を、選別していた。誰を、いくらまでで、守るか。その計算の、外に置かれた者から、順に、死んでいた。数字が、怪異より、先に、来ていた。
サトルは、思い出した。財前の、あの声。荒げも、しなかった。脅しも、しなかった。ただ、天秤を、預かっていると、言った。その天秤の、外側に、九鬼はいた。的場も、篠田も、いた。そして、これを見ている、自分も。この一枚の方針は、社員一人ひとりを、守る側と、切り捨てる側に、静かに、仕分けていた。誰も、手を、下していない。ただ、数字が、そう、決めていた。
「見てください」椎名が、画面の、一点を、指した。「この議事録に、財前の名前が、出てくるのは、ここだけです」
その指の先には、〔議長:財前〕の、四文字だけが、あった。
方針を提案したのも、「議長より」。承認を諮ったのも、「議長より」。財前という個人は、この文書のどこにも、いなかった。ただ、「議長」という、椅子の名前だけが、そこにあった。決めたのは、会議。動いたのは、方針。名を持つ人間は、一人も、いない。
「大鷲は」サトルは、呟いた。「実行役、だったんだ」
台帳を書き換えさせ、通報を握り潰し、示談を値切った。あの、憎むべき、温和な男。だが、その大鷲すら、この一枚の、下流にいた。決めたのは、財前。それは、もう、分かっていた。
だが、財前は、その決定に、自分の名を、残していなかった。「議長」という、空席の、名の下で。
「……まだ、上が、いた」サトルは、言った。「そして、その上は、一番大事なところに、自分の名前を、書かない」
椎名は、答えなかった。ただ、その議事録に、いつもの手つきで、タイムスタンプ付きの、控えを、取った。消せない場所に、一枚。それが、彼女の、返事だった。
稼働効率化目標のさらに上に、全社「安全投資抑制方針」があった。安全をコストと呼び、削ることをあらかじめ決めた一行。怪異ではなく、その計算が、先に人を選別していた。決めたのは大鷲ではなく、その上の財前――だが財前は、議事録に「議長」の二文字しか、残していない。
次回、名を残さない男を相手に、通報する側が通報される側にされた椎名は、どう反撃するのか。手順の人の、真骨頂。
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