第四話 血の味
引き戸の開く音に、千景が振り返った。
廊下の向こう、薄暗い玄関に、背の高い影が立っていた。黒いコートの襟を立てて、片手に買い物袋を提げている。袋の口から、ネギの青い先がのぞいていた。
昨夜、美月の太腿を貫いた男だった。
男は、廊下の床に広がったお湯と、転がった洗面器と、襖の前に立つ美月を、順番に見た。表情は、ほとんど変わらなかった。ただ、買い物袋を持つ指に、少しだけ力が入ったのが分かった。
「……灯真さん」
千景が、かすれた声で呼んだ。
灯真。
美月は、その名前を、口の中で一度だけ転がした。自分の脚に穴を開けた男の名前。知りたくなかった気もするし、知らなければいけなかった気もした。
灯真は靴を脱いで、上がり框に買い物袋を置いた。濡れた廊下を、靴下のまま歩いてくる。美月の横を通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ、視線が美月の右脚に落ちた。
「歩けるのか」
「おかげさまで」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
灯真は、何も言い返さなかった。襖を開けて、和室に入り、布団の横に膝をついた。
「起きてたんですか」
「いま、起きたところだよ」
老女は、枕の上で、ゆっくりと首を灯真の方に向けた。それから、また美月の方を見た。
「灯真。あの子は、青柳のお嬢さんだね」
「……はい」
「そう」
老女は、目を閉じた。長い息を吐いた。喉の奥が、細く鳴った。
「千景」
「……なに、おばあちゃん」
「そこに座りなさい。お嬢さんも、入っておくれ」
◇
六畳の和室に、四人が座った。
布団の頭の側に灯真。足の側に千景。美月は、襖の近くに、膝を揃えて座った。逃げようと思えば、いつでも逃げられる場所に。
枕元の盆の上で、小瓶が、西日を受けて赤く光っていた。
老女は、天井を見たまま、話し始めた。
「五十年くらい前にね、私は一度、死にかけたんだよ」
声は細かったけれど、言葉ははっきりしていた。
「お医者にも、もう長くないと言われた。そのとき、あの人が」
老女の視線が、床の間に向いた。そこには、古い写真立てがあった。若い男が、少し照れたような顔でこちらを見ている。灯真に、どこか似ていた。
「あの人が、狩りに出た。一族の言い伝えを信じて、夜の血を採ってきた。青柳の家の、若いお嬢さんから」
美月の指が、膝の上で強張った。
「それを、私に飲ませた」
老女は、少し笑った。
「美味しくはなかったよ。鉄の味がして、生臭くて。でも、飲んだ次の朝には、起き上がれた。一週間で、庭に出られるようになった。あの人は泣いて喜んだ。言い伝えは本当だったって」
「……じゃあ」
千景が、身を乗り出した。
「じゃあ、効くんだ。やっぱり」
「最後まで聞きなさい」
老女の声に、千景は口をつぐんだ。
「何年かして、また具合が悪くなった。あの人はもう一度、青柳の家に行った。二度目の血を飲んで、私はまた元気になった。でもね、その頃から、少しずつ、おかしくなっていったんだよ」
老女は、布団の上で、点滴の繋がった腕を、わずかに持ち上げた。紙のように薄い皮膚の下で、青い血管が、異様にくっきりと浮いていた。
「体の中で、何かが、ゆっくり腐っていくみたいな感じがした。元気なのに、芯の方が冷えていく。夜の血は、病を治すんじゃない。病を、先に延ばすだけなんだよ。延ばした分、後で、まとめて取り立てに来る」
和室の中が、静かになった。
窓の外で、どこかの家の子どもが、名前を呼ばれて返事をする声がした。
「あの人は、それに気づいた。自分が私に何をしたのか、分かった。それで、もう一度だけ、青柳の家に行ったんだよ。今度は、血を採らずに」
老女は、美月の方を見た。
「あなたのおばあさまに、頭を下げに」
美月の頭の中で、縁側の祖母の声が重なった。深く、謝るみたいに。何も言わなかったけど。
「あの人は、一族の狩りを止めた。青柳の家の記録を、全部封じた。だから、あなたのお母さまのところには、誰も行かなかったはずだよ」
「……はい」
美月は、それしか言えなかった。
老女の目が、千景に移った。
「千景。私がこうなったのは、あんたのせいじゃない」
千景の肩が、びくりと跳ねた。
「あんたを育てるのに無理をしたから、なんて、そんなことは一度も思ったことがないよ。これは、五十年前に、私が飲んだものの、取り立てなんだ。あの人と私が、誰かから奪ったものの、お釣りなんだよ」
「でも」
千景の声が、裏返った。
「でも、私が、お父さんとお母さんがいなくなって、おばあちゃんが一人で、働いて、私の」
「千景」
「私のせいじゃないなら、私、何のために」
言葉が、そこで千切れた。
千景は、膝の上で拳を握って、俯いた。結んだ黒髪が、肩から前に落ちた。その髪の陰で、ぽたり、と、畳に何かが落ちた。
一度落ちると、止まらなかった。
千景は、声を上げずに泣いていた。あの夜、刃を握って美月を睨んだときの目が、今、ただの十六歳の目になって、畳を濡らしていた。
◇
「灯真」
老女が呼んだ。
「あんたは、全部知っていたね」
灯真は、膝の上に置いた手を、握りしめた。
「……じいさんから、聞いていました」
「千景には」
「言えませんでした」
灯真は、そこで初めて、顔を上げた。千景の方を見て、それから、美月の方を見た。
「言えば、こいつは、全部自分が悪いと思い込む材料を失う。そうしたら、何を拠り所にすればいいのか、分からなくなる。だから、黙って、手を貸した。止める代わりに、せめて、殺さないように採ることにした」
灯真は、美月を見たまま、言った。
「お前の脚に穴を開けたのは、俺の弱さだ」
美月は、何も返さなかった。
返せる言葉が、なかった。
「一族の古い記録には、夜の血は人を喰う化け物の血だと書いてある」
灯真は、窓の外の、暮れていく空に目をやった。
「でも、俺はじいさんの代からの記録を全部読んだ。夜の血の一族が、人を喰ったという記録は、一つもなかった。あるのは、俺たちが、何十もの家から血を採って、死ぬまで採って、子どもからも採って、ひとつずつ途絶えさせてきた記録だけだった」
灯真の声は、昨夜と同じで、少しも急いでいなかった。
けれど、どこかが、ひどく疲れていた。
「喰ってきたのは、俺たちの方だ。化け物と呼んでいたのは、自分たちの姿を見たくなかったからだ」
和室の中で、千景の小さなしゃくり上げだけが、続いていた。
◇
美月は、自分の左の腕を見下ろした。
あの夜、千景に裂かれた腕。もう、跡形もない。
何十もの家が途絶えて、最後に残ったのが、自分の家だった。祖母も、祖母の母も、ただ狩られてきた。自分の脚も、昨夜、貫かれた。
それなのに。
布団の中の老女は、自分たちが奪ったものの「お釣り」を、たった一人で払っている。払いきって、終わろうとしている。
美月は、灯真の方に手を伸ばした。
「あの針、貸してください」
灯真の目が、わずかに見開かれた。
「何をする気だ」
「瓶の血は、もう冷えてるんでしょう。生きている体から流れた血でなければ、意味がないって、あなたが言った」
「やめろ。話を聞いていただろう」
「聞いてました」
美月は、灯真の目を、まっすぐ見た。
「だから、誰かに採られるんじゃなくて、自分で決めて、あげたいんです。私の血を、私が、自分で」
灯真は、長いあいだ、美月を見ていた。
それから、コートの内側から、あの細い金属の棒を取り出した。先端が、西日を受けて、細く光った。
美月はそれを受け取って、左の手首の、少し上に、先端を当てた。
息を、吸った。
引いた。
皮膚が裂ける、小さな音がした。熱い線が、腕の内側に走る。昨夜の太腿の痛みに比べれば、何でもなかった。赤い玉が、線に沿ってぷつぷつと浮かび上がり、すぐにひとつに繋がって、手首を伝い始めた。
鉄の匂いが、和室に広がった。
喉が鳴りそうになるのを、美月はこらえた。
膝で布団の横まで進んで、血の流れる腕を、老女の口元に差し出した。
「飲んでください」
老女は、美月の腕を見た。
赤い筋が、手首から肘へと伝っていくのを、静かに見ていた。
それから、紙のように薄い手を持ち上げて、美月の手首を、そっと押し返した。
「ありがとう」
老女は、言った。
「でも、いらないよ」
「……どうして」
「私はもう、十分に、長く生きてしまったからね」
老女の指は、驚くほど冷たかった。
「あの人が、あなたのおばあさまから奪ったもので、私は五十年、生かしてもらった。これ以上、誰かの体から何かをもらって、生き延びたくないんだよ。最後くらい、自分のままで終わりたい」
美月の腕から、血が一滴、布団の端に落ちた。
白い布に、小さな赤い花が咲いた。
老女は、その花を見て、それから、美月の顔を見上げた。
「お嬢さん。ひとつ、聞いてもいいかい」
「……はい」
「あなたは、その味が、好きなのかい」
美月の喉が、詰まった。
誰にも言ったことがなかった。母にも、祖母にも、真柴さんにも。爪を噛む癖みたいなものだと、二十四年間、自分に言い聞かせてきた。言葉にしたら、自分が化け物になってしまう気がしていた。
けれど、この人の前では、嘘をつきたくなかった。
「……好きです」
声が、震えた。
「自分の血の味が、好きです。美味しいと思ってしまうんです。気持ち悪いって、ずっと、思ってたけど」
老女は、目を細めて、笑った。
深い皺が、頬の上で、優しく折りたたまれた。
「なら、それは、あなただけのものにしておきなさい」
「……え」
「誰かを生かすためのものにしちゃいけないよ。薬にも、呪いにもしちゃいけない。ただの、あなたの好みにしておきなさい。好きなものは、好きなままでいいんだよ」
老女は、枕元の盆に手を伸ばした。震える指で、小瓶を掴んで、美月の手のひらに置いた。
ガラスは、ひんやりと冷たかった。
「これは、あなたのものだから。返すよ」
美月は、瓶を握りしめた。
手首の傷は、もう塞がりかけていた。
◇
その夜、美月は、灯真の運転する車で、駅まで送られた。
車の中で、二人とも、ほとんど喋らなかった。
駅のロータリーで車を降りるとき、灯真は運転席から降りてきて、美月の前に立った。
それから、深く、頭を下げた。
謝るみたいに。何も言わずに。
五十年前に、祖母の前で、誰かがそうしたのと、同じように。
美月は、それを黙って見ていた。
許す、とは言わなかった。許せるかどうかも、まだ分からなかった。
ただ、コートのポケットの中で、冷たい小瓶を、強く握っていた。




