エピローグ 好きな味
瓶を捨てたのは、十二月の最初の夜だった。
あの日から、二ヶ月近く、美月は小瓶を部屋の棚の上に置いたままにしていた。本と本の間に、隠すように。目に入らないようにしているのに、部屋のどこにいても、それがそこにあることが分かった。
呼ばれる感じ、と祖母は言っていた。
本当に、そうだった。夜、布団に入って目を閉じると、棚の上から、小さな声がする。言葉ではない。音でもない。ただ、自分の一部がそこにいて、こちらを向いている。
捨てよう、と何度も思った。
ゴミ袋に入れようとして、手が止まった。土に埋めようかと考えて、どこかで誰かに掘り返されるところを想像して、やめた。
千景から手紙が届いたのは、十一月の終わりだった。
白い封筒に、角張った、まだ子どもっぽさの残る字で、美月の住所が書かれていた。どうやって住所を知ったのかは、考えないことにした。
中には、便箋が一枚だけ入っていた。
祖母が、十一月の半ばに亡くなったこと。最後まで、何も飲まなかったこと。苦しそうな日もあったけれど、最後の朝は、窓を開けてほしいと言って、庭の枯れた草を見ながら、静かに眠ったこと。
それから、最後の一行。
『ごめんなさい。ありがとう。もう、行きません』
それだけだった。
美月は、その手紙を、何度も読んだ。読むたびに、あの六畳の和室の、西日の色を思い出した。布団の端に落ちた、小さな赤い花を思い出した。
ごめんなさい、も、ありがとう、も、受け取るには重すぎた。けれど、もう、行きません、という一言だけは、美月の胸のどこかに、すとんと落ちた。
それで、決めた。
◇
台所の流しの前に立って、美月は瓶の栓を抜いた。
ポン、と、小さな音がした。
中の血は、二ヶ月の間に、黒に近い色になっていた。瓶を傾けると、底の方でゆっくりと動く。鼻を近づけなくても、鉄の匂いが、かすかに立ち上った。
喉が、鳴った。
美月は、少しだけ笑った。
好きなものは、好きなままでいい。
あの人は、そう言ってくれた。だから、これを美味しいと思ってしまう自分を、もう責めないことにした。責めないまま、これは、もう自分の中に戻さない。誰かを生かすためにも、使わない。
蛇口をひねった。
水が、銀色の流しを叩いて、細かい飛沫を散らした。
美月は、瓶を傾けた。
黒に近い赤が、細い糸になって、水の中に落ちていく。落ちた瞬間、水に触れたところから、ふわりとほどけて、赤くなる。赤が、流れに引かれて、薄紅になる。薄紅が、桃色になる。桃色が、排水口に向かう渦の中で、どんどん淡くなっていく。
最後の一滴が、瓶の口から離れた。
流しの底には、もう、ほとんど色がなかった。かすかに桜色がかった水が、くるくると回って、排水口に吸い込まれていく。それも、すぐに、透明な水に追いつかれて、分からなくなった。
美月は、空になった瓶を、水の下にかざした。
内側を、水がすすいでいく。ガラスについていた最後の赤が、溶けて、流れて、消えた。
蛇口を閉めた。
台所が、急に静かになった。
美月は、目を閉じた。
棚の上から聞こえていた、あの小さな声が、しなかった。どこを探しても、自分の一部が、もうどこにもいない。水に混じって、薄まって、川に流れて、海に出て、そうやって、誰のものでもない、何でもないものになっていく。
存在が、なくなっていく。
それで、いいと思った。
空の瓶は、洗って、燃えないゴミの日に出した。
◇
年の瀬が近づいて、会社は少しずつ慌ただしくなった。
その日の昼、真柴さんは会議が押していて、「ごめん、先に行ってて」と手を合わせた。顔に「今日は無理」と書いてあった。美月は笑って、一人で定食屋に向かった。
十二時を少し過ぎた店の中は、いつもより混んでいた。年末で、どこの会社も昼が詰まっているらしい。四人席は全部埋まっていて、カウンターも、端から二番目の席がひとつ空いているだけだった。
その隣、いちばん端には、いつもの男の人がいた。
紺のスーツを椅子の背に掛けて、湯呑みのお茶を飲んでいる。日替わり定食は、まだ来ていないようだった。
美月が「ここ、いいですか」と小さく聞くと、男の人は少し驚いたように顔を上げて、それから、いつものように軽く会釈をした。
美月も、会釈を返した。
ずっと、そういう関係だった。毎日同じくらいの時間に、同じ店にいる。顔は知っている。名前は知らない。目が合えば、会釈をする。それ以上は、何もない。
美月は、壁の短冊を見上げた。
焼き魚定食。生姜焼き定食。唐揚げ定食。
レバニラ定食。
あの夜から、一度も頼んでいなかった。唐揚げを頼んで半分残したり、焼き魚を頼んで味がしなかったり、そういう昼を、何度も繰り返してきた。
美月は、少しだけ迷って、それから、手を挙げた。
「レバニラ定食、お願いします」
店のおばさんが「はいよ」と答えて、厨房に声を通した。
隣で、男の人の湯呑みが、カウンターに置かれる音がした。
「……今日は、それなんですね」
低い、落ち着いた声だった。
美月は、思わず隣を見た。
男の人は、少し照れたように、目を逸らしていた。初めて聞く声だった。何ヶ月も同じ店にいて、会釈しか交わさなかった人の、初めての言葉。
「いつも、それだったから」
男の人は、湯呑みに視線を落としたまま、言った。
「最近、頼んでなかったので。ちょっと、気になってて」
美月は、しばらく、何も言えなかった。
見られていた、と思った。
あの夜から、自分が何を頼んで、何を残して、どんな顔で箸を置いていたのか。誰も気づかないと思っていた。真柴さんでさえ、何も言わなかった。それなのに、カウンターの端で、名前も知らないこの人だけが、レバニラを頼まなくなったことに、気づいていた。
怖い、とは、思わなかった。
不思議と、胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「……好きなんです」
美月は、言った。
自分でも驚くくらい、素直な声が出た。
「レバー。好きなんです、すごく。ちょっと、食べられなかった時期があっただけで」
男の人は、そうですか、と小さく頷いた。それ以上は、何も聞かなかった。
聞かないでいてくれる人だ、と美月は思った。
人には、聞かれたくない場所がある。この人は、それを知っている人なのかもしれない。
「お待たせ、日替わりね」
男の人の前に、鯖の塩焼きの定食が置かれた。少し遅れて、美月の前に、湯気の立つレバニラ定食が置かれた。
ニラの青い匂い。もやしの白。濃い茶色に照ったレバー。
美月は、箸を割って、レバーをひと切れ口に入れた。
火は、しっかり通っていた。本当は、もう少し生っぽい方が好きだ。それも、たぶん、一生変わらない。
それでいい、と思った。
鉄の味が、舌の上で、ゆっくりとほどけていく。
美味しかった。
隣で、男の人が、鯖の身を箸で丁寧にほぐしていた。
美月は、もうひと切れ、レバーを口に運んだ。
窓の外では、年の瀬の昼の光が、白く街を照らしていた。




