第三話 千景の家
祖母の家までは、電車を二回乗り継いで、二時間かかる。
土曜の朝、美月は始発に近い電車に乗った。昨夜の傷は、もう太腿の裏に薄い桃色の線が残っているだけだった。歩くと、肉の奥がまだ少しだけ引きつる。それも、昼までには消えるだろうと分かっていた。分かっていることが、嫌だった。
窓の外を、灰色の住宅街が流れていく。やがて建物の背が低くなり、田んぼが増え、稲を刈り終えた後の土の色が広がった。
祖母に会うのは、正月以来だった。
電話で「今日行ってもいい?」と聞いたとき、祖母は少しだけ間を置いて、「おいで」と言った。理由は聞かれなかった。
◇
祖母の家は、駅から歩いて二十分の、山の裾にある古い平屋だ。祖父が亡くなってから十年、祖母は一人でここに住んでいる。庭には柿の木があって、今年も枝が重そうにしなっていた。
「よく来たね」
玄関で迎えた祖母は、正月より少し小さくなっていた。背中が丸くなって、髪はほとんど白い。けれど目だけは、昔と同じで、こちらの奥まで見通すような静かな色をしていた。
縁側に座布団を二枚並べて、祖母は熱いほうじ茶を淹れてくれた。湯呑みを両手で包むと、指先がじんわり温まる。庭の柿の葉が、風に揺れて乾いた音を立てた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「おばあちゃん」
美月は、湯呑みを見下ろしたまま言った。
「私、狙われた」
祖母の手が、湯呑みの上で止まった。
「黒い服の女の子と、背の高い男の人。私の名前を知ってて、血をもらうって言われた」
太腿のことは、言えなかった。言ったら、本当にあったことになってしまう気がした。
祖母は、ゆっくりと湯呑みを縁側の板に置いた。
それから、美月の顔ではなく、美月の膝のあたりを見た。スカートの上から、ちょうど太腿の傷のあるあたりを。
「痛かったろう」
それだけだった。
美月の喉の奥から、何かがせり上がってきた。昨夜、地面の上で殺した泣き声の続きが、今になって出てきそうになって、美月は唇を噛んだ。
「……なんで、分かるの」
「私も、昔、同じところをやられたからね」
祖母は、自分の右の腿を、着物の上から軽く撫でた。
◇
青柳の家は、代々狩られてきた。
祖母は、それを天気の話でもするような声で話した。
祖母の母も、そのまた母も、若いうちに一度は狙われた。黒い服を着た者たちが、ある日ふいに現れて、血を採っていく。殺されはしない。ただ、生きている体から流れた血を、小さな瓶に受けて、持ち去っていく。
「長生きの薬だと、信じていたんだろうね」
祖母は柿の木を見ながら言った。
「夜の血を飲めば、病が治る、寿命が延びる。そういう言い伝えが、向こうにはあるらしい」
「本当なの」
「さあ。私は飲ませたことがないから、知らないよ」
祖母は、少しだけ笑った。
「私が狙われたのは、二十八のときだった。それから、三十四のときにもう一度。それで、終わり」
「終わり?」
「ぱったり来なくなった。私の母のときも、何度か来て、ある時期からぱったり。だから私は、もう終わったんだと思っていたよ。お前の代には、来ないものだと」
祖母は、そこで言葉を切って、湯呑みに口をつけた。
「最後に来た人のことは、よく覚えてる。若い男の人でね。私の血を採って、瓶に栓をして、それから、なんでかね、私に頭を下げていった」
「頭を?」
「深く、ね。謝るみたいに。何も言わなかったけど」
庭の柿の実が、ひとつ枝から落ちて、土の上で鈍い音を立てた。
祖母は、それを見ていた。
「それから、もうひとつ教えておかなきゃいけない」
祖母は、美月の方に向き直った。
「夜の血はね、体から離れても、ある程度の量があれば、それがどこにあるか分かるんだよ」
「……分かる?」
「呼ばれる感じ、と言えばいいかね。遠くで、誰かが自分の名前を小さく呼んでいるような。私は二度とも、採られた瓶のありかが分かった。行かなかったけどね」
「なんで、行かなかったの」
祖母は、しばらく答えなかった。
「行ったら、向こうの事情を知ってしまうから」
それだけ言って、祖母は空になった湯呑みに、またほうじ茶を注いだ。
◇
帰りの電車の中で、それは来た。
二時間の道のりの、半分を過ぎたあたりだった。車窓の田んぼが住宅街に変わり始めた頃、美月は、右の太腿の奥に、かすかな疼きを感じた。
傷は、もう塞がっている。痛みではない。
もっと、遠いところから引っ張られるような感覚。体の一部を、細い糸で、どこか見えない場所に結びつけられているような。
目を閉じた。
呼ばれている、と思った。
祖母の言う通りだった。遠くで、小さな声が、自分を呼んでいる。言葉ではない。音でもない。ただ、方角だけがはっきり分かる。電車の進む方向の、少し右。たぶん、自分のアパートよりも、ずっと北。
美月は、乗り換えの駅で、いつもとは違うホームに降りた。
行ったら、向こうの事情を知ってしまう。
祖母の声が、耳の奥で繰り返された。
それでも、知りたかった。なんで自分がこんな目に遭わなければいけないのか。その答えを、あの瓶が持っているなら。
◇
辿り着いたのは、日が傾きかけた頃だった。
古い住宅街の、さらに奥。細い路地を何度も曲がった先に、その家はあった。生け垣に囲まれた、黒い瓦屋根の一軒家。門柱の表札は、雨風で文字が擦れて読めない。庭は手入れされていなくて、夏の雑草が枯れたまま立ち尽くしている。
呼ぶ声は、この家の中からしていた。
門は、少しだけ開いていた。
美月は、自分が何をしているのか分からないまま、門を押した。軋む音が、夕方の静けさに大きく響いた。玄関の引き戸に手をかける。鍵はかかっていなかった。
家の中は、薄暗かった。
線香の匂いがした。千景の後ろから漂っていた、あの匂い。乾いた草と、古い箪笥の奥の匂い。それに混じって、もうひとつ、美月の知っている匂いがあった。
病人の部屋の匂いだった。
廊下の奥の襖が、少しだけ開いていた。呼ぶ声は、そこからしていた。
美月は、襖の隙間から、中を覗いた。
六畳の和室に、布団が一組敷かれていた。
その中に、老女が横たわっていた。
痩せていた。布団の膨らみが、ほとんど平らに見えるほど。頬の骨が浮き出て、唇は乾いてひび割れ、閉じた瞼は落ち窪んでいる。枕元に置かれた点滴の袋から、細い管が、紙のように薄い腕に繋がっていた。呼吸のたびに、喉の奥がかすかに鳴る。その音が、ひどく遠かった。
枕元の盆の上に、あの小瓶があった。
栓は、閉じたままだった。
中の赤い血は、一滴も減っていなかった。
「……なんで」
背後で、声がした。
美月が振り返ると、廊下の暗がりに、千景が立っていた。
黒いワンピースではなかった。灰色のジャージに、エプロン。手には、湯気の立つ洗面器とタオルを持っていた。看病をしている人の格好だった。
千景の手から、洗面器が落ちた。
お湯が、廊下の板に広がった。
「なんで、ここにいる」
千景の声は、あの夜よりもずっと震えていた。
「出ていけ。おばあちゃんに、近づくな」
「その瓶」
美月は、枕元を指さした。
「私の血でしょう。使ってないの」
千景の顔が、歪んだ。
「……飲んでくれないんだよ」
吐き出すような声だった。
「おばあちゃんが、飲んでくれない。いらないって。そんなもの、飲みたくないって。私が、どれだけ」
千景は、そこで言葉を詰まらせた。拳を握って、肩を震わせて、それでも涙は落とさなかった。
「お前のせいだ」
「私の?」
「お前が最後の一人だからだ」
千景は、顔を上げて、美月を睨んだ。
「夜の血の家は、昔はもっとたくさんあった。何十も。狩る者が、その血を採って、一族を守ってきた。でも、だんだん減って、ひとつずつ途絶えて、今はもう、お前の家しか残ってない」
美月の背中が、冷たくなった。
「……途絶えた、って」
「狩りすぎたんだ」
千景は、当然のことのように言った。
「昔の狩る者は、加減を知らなかった。殺さないように採る、なんて決まりは後からできた。それまでは、一人から何度も、死ぬまで採った。子どもからも採った。夜の血は、人を喰う化け物の血だから、それでいいって」
千景の声は、まっすぐだった。疑いのない声だった。
「だから、お前の血が、最後なんだ。お前の血でしか、おばあちゃんは助からない」
美月は、千景の顔を見ていた。
この子は、自分が何を言っているのか、分かっていない。
人を喰う化け物。夜の血の一族は、そう呼ばれてきた。けれど、自分の先祖が誰かを喰ったという話は、一度も聞いたことがない。祖母も、祖母の母も、ただ狩られてきただけだ。何十もあった家が、ひとつずつ、狩る者の手で途絶えていった。子どもまで、死ぬまで血を採られて。
喰われてきたのは、どっちだ。
美月は、自分の指を見た。血の味が好きなだけの、この指を。
化け物は、どっちだ。
「……あなたの、せいだって」
美月は、ゆっくりと言った。
「あの男の人が、言ってた。あなたは、自分のせいだと思ってるって」
千景の顔から、色が抜けた。
あの夜、自分で斬った美月の腕を見たときと、同じ顔だった。
布団の中で、老女の喉が、小さく鳴った。
閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。濁った目が、天井を見て、それから、襖の隙間に立つ美月の方を向いた。
老女の乾いた唇が、何かを言おうとして、動いた。
「……青柳の」
かすれた声だった。
「青柳の、お嬢さん、かい」
千景が、息を呑んだ。
その背後の玄関で、引き戸の開く音がした。




