第二話 狩りの夜
裏道を使うのを、やめた。
駅までの八分を、美月は大通りの明るい歩道で歩くようになった。コンビニの白い光、居酒屋の呼び込み、信号待ちの人の群れ。人がいる場所なら、あの黒いワンピースは近寄ってこない。そう信じるしかなかった。
腕の傷は、三日で跡形もなくなった。
裂けたカーディガンは、ゴミの日に出した。袋の口を縛るとき、乾いて茶色くなった袖の染みが目に入って、唾を飲み込んだ自分が嫌だった。
会社では、何も変わらなかった。真柴さんは相変わらず顔に全部出る人で、月曜は少し元気がなく、木曜には部長の愚痴で笑っていた。美月はそれに相槌を打ち、メールを返し、資料を作った。
誰も、何も気づかない。
それが救いで、同時に、ひどく心細かった。
「美月、今日もレバニラ?」
金曜の昼、定食屋の四人席で、真柴さんが言った。
「いえ、今日は唐揚げにします」
「珍しい」
「たまには裏切ろうかなと」
本当は、レバーを見るのが怖かった。あの夜から、赤いものを口に入れるたびに、腕の傷の匂いを思い出す。それが「美味しかった」ことを、思い出す。
唐揚げは、半分も食べられなかった。
美月が箸を置いたとき、カウンターの端で、いつもの男の人が、ふっと目を上げた。日替わりの鯖の味噌煮をつつく手を止めて、ほんの一瞬だけ、こちらを見た。すぐに視線は皿に戻った。
気のせいだと思った。
「残すの? もらっていい?」
「どうぞ」
真柴さんが唐揚げをひとつ攫っていく。美月は笑って、湯呑みのお茶を飲んだ。お茶は、何の味もしなかった。
◇
あの男が来たのは、その夜だった。
美月のアパートは、駅から歩いて十二分の、古い住宅街の奥にある。二階建ての、外階段のついた木造。大家さんの家の裏手にあって、家賃が安い代わりに、夜は本当に静かになる。
最後の角を曲がったところで、美月は足を止めた。
街灯の下に、男が立っていた。
背が高い。黒いコートの襟を立てて、両手をポケットに入れている。顔は影になって、口元しか見えない。二十代の後半か、三十に届くかどうか。ただ立っているだけなのに、そこだけ空気の温度が低い。
匂いが、しなかった。
あの夜、千景の後ろから感じた気配と、同じだった。
「青柳美月」
千景と同じ呼び方だった。けれど声は、少しも震えていなかった。
美月は、一歩下がった。
「誰、ですか」
「名乗る必要はない」
男がポケットから右手を出した。握られていたのは、細い金属の棒だった。長さは三十センチほど。先端だけが、鋭く削られている。刃物というより、編み物の針を太く長くしたような、ひどく静かな形をした道具だった。
「殺しはしない」
男は言った。
「血を少し、もらうだけだ」
美月は、振り返って走った。
ヒールが邪魔だった。二歩目で片方が脱げた。構わずに走った。ストッキングの裏に、アスファルトの冷たさと小石の痛みが刺さる。来た道を戻れば大通りに出る。人がいる。人がいれば、きっと。
角まであと十メートルのところで、右の太腿の裏に、何かが入ってきた。
最初は、痛くなかった。
衝撃だった。誰かに強く押されたような、膝の裏を蹴られたような。体が前に傾いて、手をつく前に、地面に倒れ込んでいた。顎を打った。口の中が切れた。
それから、来た。
太腿の裏から表へ、一本の熱い線が、肉を貫いて通っている。焼けた鉄の棒を、脚の中に差し込まれたような。息が、吸えなかった。叫ぼうとして、声の代わりに、喉の奥からひゅう、という音だけが漏れた。
見下ろすと、スカートの下で、太腿の前側から、金属の先端が五センチほど突き出ていた。
自分の脚から、自分のものではない形が生えている。
それを理解した瞬間、痛みが、本当の形になって全身を走った。
「あ……っ、ああ……っ」
声にならない声が、喉から溢れた。爪がアスファルトを掻く。涙が勝手に出る。脚を動かそうとすると、肉の中で金属が擦れて、目の前が白くなった。
足音が近づいてくる。急いでいない足音。
男が、美月の横にしゃがみ込んだ。コートのポケットから、小さなガラスの瓶を取り出す。指の長さほどの、栓のついた透明な瓶。
「動くな。動くと、余計に裂ける」
男は、美月の太腿から突き出た先端の下に、瓶の口を当てた。
金属を伝って、血が流れていく。赤い雫が、ひとつ、またひとつ、瓶の底に落ちて溜まっていく。その音が、聞こえるはずもないのに、美月には聞こえた。ぽた、ぽた、と、自分の命が数えられていくような音。
「生きている体から流れた血でなければ、意味がない」
男は、瓶を見つめたまま言った。説明しているのか、独り言なのか、分からない調子だった。
「だから急所は外した。お前は、これくらいでは死なない」
「……なんで」
美月の声は、地面に吸い込まれそうなくらい掠れていた。
「なんで、私なの」
男は答えなかった。
瓶の中の赤が、半分を越えた。
そのとき、美月の鼻に、自分の血の匂いが届いた。
太腿から、腕を伝って、指先から、アスファルトに広がっていく自分の血。あの夜よりもずっと多い。ずっと濃い。痛みで霞んでいる頭の奥で、別の何かが、ゆっくりと目を開けた。
喉が、鳴った。
欲しい、と思った。
この血が欲しい。舐めたい。啜りたい。地面に広がっているものに、顔ごと押しつけて、全部飲みたい。
美月は、自分の指を噛んだ。血を舐めないように、噛んだ。痛みで、飢えを押さえつけた。
こんな体、いらない。
瓶が、いっぱいになった。
男は栓をして、瓶をコートの内ポケットにしまった。それから美月の太腿に手をかけ、ためらいもなく、金属の棒を引き抜いた。
肉の中を、逆向きに引きずられる感覚。
美月の背中が、地面の上で弓なりに反った。声は、もう出なかった。口を開けたまま、空気だけを吐いた。
傷口から、血が噴き出した。それもすぐに、勢いを失っていく。皮膚の下で、あの夜と同じむず痒さが、もう始まっている。
男は立ち上がって、引き抜いた棒を、ハンカチで拭った。
「……あの子は」
美月は、地面に頬をつけたまま、言った。
「千景って子は、なんで、こんなこと」
男の手が、止まった。
しばらく、何も言わなかった。遠くで、救急車ではないサイレンが鳴って、消えた。
「あいつは、自分のせいだと思っている」
男は、美月を見ずに言った。
「だから、何をしてでも取り返そうとしている。取り返せるものじゃないとしても」
「……何を」
「お前には関係ない」
男は踵を返した。二、三歩歩いてから、背中を向けたまま、もう一度だけ口を開いた。
「お前は、自分が何なのか、知らないのか」
答えを待たずに、男は角を曲がって、消えた。
美月は、地面に横たわったまま、動けなかった。
太腿の傷が、皮膚の下で、勝手に縫い合わされていく。痛みが引いていく速さが、怖かった。普通の人なら、きっと今頃、救急車の中で意識を失っている。自分は、あと一時間もすれば、きっと歩ける。
知らない。
自分が何なのか、知らない。
知りたくもなかった。血の味が好きなだけの、普通の会社員でいたかった。真柴さんの隣で、レバニラ定食を食べて、部長の愚痴に笑って、そういうふうに生きていたかった。
なんで。
なんで、私が、こんな目に。
脱げたヒールが、少し離れた街灯の下に、横倒しで転がっていた。
美月は、指先についた自分の血を見た。
舐めなかった。
その代わりに、声を殺して、泣いた。




