第一話 昼休みの血
紙で指を切ったのは、十時を少し過ぎた頃だった。
コピー用紙の束を揃えようとして、縁が右の人差し指の腹を横に撫でた。痛みは遅れてやってきて、白い紙に小さな赤い点がひとつ落ちた。
「あ」
声を出したのは美月ではなく、隣の席の真柴さんだった。
「大丈夫? 絆創膏あるよ」
「平気です、浅いので」
美月は笑って、指を口元に持っていった。考えるより先に、そうしていた。
舌の先に、鉄と塩の味が広がる。
ほんの一滴。けれど、その一滴が舌の上でほどけていく感覚は、朝に飲んだ缶コーヒーよりも、昨日の夜に食べたコンビニのプリンよりも、はっきりと「美味しい」の形をしていた。喉の奥が、小さく鳴った。
美月はすぐに指を離した。
「ほら、やっぱり」
真柴さんが引き出しから絆創膏を出して、美月の手を取った。手際よく巻いてくれる指先を見下ろしながら、美月は自分の舌を、奥歯で軽く噛んだ。
美味しい、と思ってはいけないものを、美味しいと思った。
子どもの頃からそうだった。転んで膝をすりむけば、泣くより先に傷を舐めた。母親に「汚いからやめなさい」と叱られ、それ以来、人前ではやらないようにしてきた。癖みたいなものだと思っている。爪を噛む人がいるのと同じで、自分は血の味が好きなだけだ。
そう思っている。そう思うことにしている。
「美月、昼どうする?」
「真柴さんと行きます。今日、何の気分ですか」
「なんでもいい」
「なんでもいいが一番困るやつですよ」
結局、会社の裏手にある定食屋に入った。昼の十二時を回ると、近くのオフィスの人間で埋まる、カウンターと四人席が三つだけの店。壁に貼られたメニューの短冊は、油で少しだけ黄ばんでいる。
カウンターの端には、今日もいつもの男の人が座っていた。三十過ぎくらいの、紺のスーツを椅子の背に掛けて、黙って日替わり定食を食べている人。名前は知らない。会釈を返してくれるだけの、同じ時間に同じ店にいる人。
真柴さんは焼き魚定食を頼んだ。美月は少し迷ってから、レバニラ定食を頼んだ。
「美月、それ好きだよね」
「鉄分です。女子は不足しがちなので」
「健康的」
「でしょう」
運ばれてきたレバーは、火がしっかり通っていた。本当はもう少し生っぽい方が好きだ、とは言わない。レバ刺しを食べたことは一度しかない。大学のときにゼミの飲み会で出てきて、ひと切れ口に入れた瞬間、周りの声が遠くなるほど美味しくて、怖くなってそれ以上は食べなかった。
真柴さんは、魚の骨を箸で丁寧に外していた。
週明けの「普通」から、少しだけ日が経っている。大地さんの話は、あれから一度も出ていない。美月も聞いていない。聞かないでいることが、自分にできる一番の気遣いだと思っていた。人には、聞かれたくない場所がある。それを無理にこじ開けると、こじ開けた側もいつか同じことをされる。
美月には、それがよく分かる。
「美月ってさ」
真柴さんが、味噌汁の椀を置いて言った。
「なんか、隠し事うまそうだよね」
箸が、ほんの一瞬止まった。
「なんですか急に」
「いや、褒めてる。私、顔に全部出るから。この前も部長に『機嫌悪い?』って聞かれたし」
「真柴さんは分かりやすいです」
「でしょ。美月は分かんない。笑ってるけど、何考えてるか分かんない」
「何も考えてないですよ。レバー美味しいなって思ってます」
真柴さんは笑った。美月も笑った。
笑いながら、絆創膏の下の傷が、もう塞がりかけていることを指先で感じていた。
◇
美月の家系には、変な言い伝えがある。
祖母から一度だけ聞いた。ずっと昔、海の向こうから来た人が先祖にいて、その人は夜の人だったのだと。夜の人、という言い方が子ども心に妙に引っかかって、それは何かと聞き返すと、祖母は少し困った顔をして「血を好む人だよ」と言った。
吸血鬼、という言葉を知ったのは、もう少し後だ。
けれど美月は、自分が吸血鬼だとは思っていない。十字架のネックレスを友達とお揃いで買ったこともある。ニンニクたっぷりの餃子は大好物だ。夏は日焼け止めを塗り忘れて普通に焼ける。鏡にも映る。牙なんてない。歯医者で「綺麗な歯並びですね」と褒められたくらいだ。
違うのは二つだけ。
血の味が、どうしようもなく好きなこと。
それから、傷の治りが少しだけ速いこと。
少しだけ、と自分に言い聞かせてきた。中学のとき、体育で手首を捻挫して、翌日にはけろりと治っていた。保健の先生は「若いからね」と笑った。高校のとき、自転車で転んで膝を深く切った。三針縫うと言われたけれど、病院に着く頃には血が止まりかけていて、医者が首を傾げた。
そういうことが、何度かあった。
だから人前で怪我をしないように気をつけている。紙で指を切るくらいなら、誰も気にしない。
◇
その日の仕事は、定時を四十分過ぎて終わった。
真柴さんは先に上がっていた。美月はフロアの電気が半分落ちた中でパソコンを閉じ、エレベーターで一階に降りた。
外は、もうすっかり暗かった。十月の夜は、昼間の温度を急に手放す。薄手のカーディガンでは少し寒くて、美月は両腕を抱くようにして駅への道を歩き始めた。
駅までは、大通りを行けば八分。線路沿いの裏道を抜ければ五分。
美月はいつも、裏道を使う。
街灯の間隔が広くて、片側は古い住宅の塀、もう片側は線路のフェンス。電車が通るたびに、足元の砂利がかすかに震える。人通りは少ないけれど、何年も通っていて、怖い思いをしたことは一度もなかった。
その夜も、そうだと思っていた。
最初に気づいたのは、匂いだった。
線香のような、乾いた草のような、古い箪笥の奥のような匂い。夜の空気に混じって、どこからともなく漂ってくる。美月は足を止めずに、鼻先だけで匂いの方向を探した。
後ろ、だった。
振り返らずに、歩く速さを少しだけ上げる。ヒールの音が、塀に跳ね返って二重に聞こえる。
いや、二重じゃない。
自分のヒールの音の後ろに、もうひとつ、軽い足音が重なっている。
美月は、次の街灯の下で立ち止まった。振り返る。
少女が、立っていた。
十五か、十六か。中学生にしては背が高く、大学生にしては顔が幼い。肩までの黒髪を後ろでひとつに結び、季節外れの黒いワンピースを着ている。喪服みたいだ、と美月は思った。夜の中に溶けそうな黒の中で、少女の顔と、両手に握られたものだけが、街灯の光を白く跳ね返していた。
刃物だった。
包丁でもカッターでもない。柄に布を巻いた、細長い、短刀のようなもの。
「……あの」
美月が口を開くより先に、少女が言った。
「青柳美月」
フルネームだった。会社の人間しか知らないはずの、名字まで。
「お前の血をもらう」
声は、震えていた。
震えているのに、目だけは、まっすぐ美月の喉元を見ていた。
「何の、話ですか」
「とぼけるな。お前は、夜の血の末裔だ。夜の血を飲めば、長く生きられる」
美月の頭の中で、祖母の困った顔と、言葉が、急に繋がった。
夜の人。
血を好む人。
「人違いです」と言おうとした。言う前に、少女が地面を蹴った。
速くはなかった。
素人の動きだった。刃を前に突き出して、体ごとぶつかってくるだけの、子どもの突進。美月は反射的に半歩横にずれて、少女の手首を掴んだ。掴んだつもりだった。
刃先が、美月の左の前腕を、袖ごと裂いた。
熱い、と思った。痛い、より先に、熱い。
カーディガンの袖が裂けて、白い肌に一本の線が走り、その線からすぐに赤が溢れた。指先まで伝って、アスファルトに、ぽたり、ぽたりと落ちていく。
少女は、刃を握ったまま立ち尽くしていた。自分で斬ったくせに、その赤を見て、顔から色が抜けていた。
美月は、腕を押さえた。指の間から、まだ血が滲む。
そして、その匂いを嗅いだ瞬間、喉の奥がまた鳴った。
昼間の一滴とは、比べものにならなかった。濃くて、温かくて、鉄の中に甘さがある。押さえた指を、口に持っていきたい。舐めたい。自分の腕に唇をつけて、溢れてくるものを全部、舌で受け止めたい。
美月は、奥歯を強く噛んだ。
駄目だ。こんな場所で。こんな子の前で。
「……っ」
少女が、一歩下がった。刃先が揺れている。
「なんで、笑ってる」
言われて、美月は自分の口元に触れた。
笑っていた。
痛くて、熱くて、怖いはずなのに、口角が上がっていた。自分の血の匂いに、顔の筋肉が勝手に緩んでいた。
美月は、初めて、自分を気持ち悪いと思った。
「帰って」
絞り出した声は、自分のものじゃないくらい低かった。
「帰りなさい。今なら、誰にも言わないから」
少女の唇が、何か言いかけて、止まった。
そのときだった。
線路の向こう側、フェンスの影から、もうひとつの気配がした。
足音はしなかった。匂いもなかった。ただ、そこに誰かが立っていて、こちらを見ている、という感覚だけが、首の後ろの皮膚をざらりと撫でた。
美月はそちらを見た。
誰もいなかった。街灯の届かない暗がりが、あるだけだった。
けれど少女は、その暗がりの方を見て、はっきりと肩を震わせた。
「……千景」
暗がりから、男の声がした。
低くて、静かで、少しも急いでいない声だった。
「今日は終わりだ」
少女、千景は、唇を噛んだ。刃を下ろして、美月を一度だけ睨んだ。泣きそうな目だった。それから踵を返して、線路沿いの道を走っていった。黒いワンピースの裾が、闇に紛れて消えた。
暗がりの気配も、いつの間にか消えていた。
電車が通り過ぎた。
轟音が、美月の耳と、足元の砂利と、腕の傷を揺らして、遠ざかっていった。
◇
家に着いたのは、九時を過ぎていた。
玄関の鍵を閉めて、靴も脱がずに、その場に座り込んだ。裂けたカーディガンの袖をそっとめくる。
傷は、もう閉じかけていた。
一時間前に、あれほど血を流した線が、薄い赤い筋になって、端の方から肌色に戻り始めていた。触ると、内側がむず痒い。皮膚の下で、何かがせっせと糸を縫い合わせているような感覚。
美月は、それをしばらく見ていた。
少しだけ治りが速い。そう言い聞かせてきた二十四年分の言葉が、腕の上で、静かに剥がれていく。
指先に、乾いた血がこびりついていた。
美月は、その指を見つめた。
それから、ゆっくりと、口に含んだ。
美味しかった。
泣きたいほど、美味しかった。




