第9話:熱の正体と、無邪気な背中押し
島を包む空気は、逃げ場のないネットリとした湿気と、むせ返るような濃い潮の匂いを含んでいた。
航は工房の片隅で首を振る、古びた扇風機の単調な機械音を聞きながら、巨大なクスノキの塊と対峙していた。
トタン屋根を焼く真夏の日差しが、埃っぽい室内をサウナのように蒸し上げている。
数日前、突然この埃っぽい工房に現れた、神崎という男の言葉が耳の奥にこびりついて離れない。
『君のその手は、こんな場所で腐らせていいものじゃない。私のところで、世界に向けて彫りなさい』
男が置いていった真っ白な名刺は、作業台の端でカンナ屑にまみれたまま放置されている。
島には不釣り合いな、シワひとつない上質なスーツを着た神崎の姿。
彼が持ち込んできた「世界」や「市場価値」という言葉の響きは、航の胸の奥底にあった何かを確実にざわつかせていた。
だが今の航には、そのざわめきの正体を冷静に分析したり、名刺を手に取ったりする余裕すらなかった。
ただ、この両手の中にある「彼女」を、一秒でも早く木の奥底から引っ張り出すことしか考えられない。
食事も睡眠もほとんどとらず、ただひたすらに重い木槌を振り下ろし、太いノミで荒彫りを進める。
クスノキの青々しい豊かな香りが、削りかすと共に工房の床にどんどん高く積もっていく。
汗が目に入り、視界が塩分で滲む。
力任せにノミの柄を強く握り続ける手はとうの昔に限界を超え、人差し指の付け根にある分厚いマメはひび割れ、微かに赤い血が滲んでいた。
だが、不思議と痛みは全く感じない。
それどころか、自分の手が今までで一番鋭敏になっているのがわかる。
(違う。結衣の頬は、こんなに硬くない。もっと柔らかくて、温かい)
大まかな輪郭が削り出され、いよいよ顔の造形に入る段階で、航は大きく息を吐き、ノミと木槌を床に置いた。
ここから先の繊細な命の造形に、力任せの道具は相応しくない。
航は作業台の奥から、使い古されたボロ布に包まれた一本の道具を取り出した。
祖父が遺した、使い込まれた小刀だった。
刃こぼれを何度も研ぎ直し、元の長さの半分ほどになってしまった鋭い刃先で、木に、温かい命を吹き込んでいた。
航はその小刀を右手に握り込み、クスノキの顔の部分へとそっと刃を当てた。
自分の指先が、手のひらが、結衣の輪郭を、体温を、微かな息遣いを完全に記憶している。
目をつぶっていても、彼女の少し癖のある髪のひと房、耳の曲線の角度、華奢な鎖骨のラインまで、すべてが手の中にあった。
笑う時、ほんの少しだけ緊張してえくぼができる頬の筋肉の動きまで、航の指は知っている。
小刀が木肌を薄く削り取るたびに、そこから結衣の魂が零れ落ちてくるような錯覚に陥った。
航の手と、祖父の小刀と、クスノキの境界線が完全に溶け合い、一つの生き物のように連動していく。
自分の意志を超えた、名付けようのない圧倒的な何かが宿っていく感覚。
この異常なまでの熱量の正体が、長年連れ添った幼馴染への「無自覚な恋心」であることに、航自身はまだ気づいていない。
ただの幼馴染の像を作るにしては、あまりにも執念深く、狂気じみている。
だが航は、ただ何かに憑かれたように、祈るように小刀を動かし続けた。
自分の指の腹で何度も木肌を撫で、結衣の肌の柔らかさと完全に一致する地点を探り当てる。
そして最後に、ふっと長く息を吹きかけ、表面に残った細かい木粉を吹き飛ばした瞬間。
そこに、今にも瞬きをしそうなほどの生々しさを伴って「結衣」が現れた。
圧倒的な静謐さと、今にも歩き出しそうな暴力的とも言えるほどの生命力。
「……できた」
声に出した瞬間、全身の筋肉の糸がプツリと切れた。
手から小刀が滑り落ち、カランと乾いた音を立てる。
航は工房の床にへたり込み、荒い息を吐きながら、自分が生み出した「奇跡」を呆然と見上げた。
「航ー、また根詰めとるんでしょ。お母さんがスイカ持っていきなって……えっ」
ガラリと乱暴に引き戸が開き、結衣が大きなタッパーを両手に抱えて顔を出した。
外の強烈な日差しを背負い、麦わら帽子の下で額に汗を光らせている。
「おう……サンキュ。悪いな、いつも」
かすれた疲れ切った声で応じる航には目もくれず、結衣の足はピタリと止まっていた。
彼女の視線は、航ではなく、工房の中央に立つ「自分の像」に完全に縫い付けられている。
結衣は無言のまま、持っていたタッパーを入り口近くの作業台にコトリと置いた。
そして、見えない糸に吸い寄せられるように、ゆっくりと像へと近づいていく。
サンダルが木屑を踏む微かな音だけが、工房に響いた。
「これ……私?」
像の目の前で立ち止まり、結衣は震える声で呟いた。
「あ、ああ。まあ、ちょっと練習っていうか……手が勝手に動いたというか、その」
あまりにも真剣な結衣の横顔に気圧され、航は照れ隠しで首の後ろを掻きながら、しどろもどろに答えた。
言い訳のような航の言葉など、結衣の耳には入っていないようだった。
彼女は像の顔を、髪を、まるで鏡の中の自分を見つめるように、食い入るように見上げている。
やがて、彼女の大きく見開かれた瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ゆ、結衣? なんで泣くんや、変やったか?」
航は慌てて立ち上がろうとしたが、足に力が入らずによろけた。
「すごい……。なんだか、見透かされとるみたい」
結衣は像から目を離さないまま、頬を伝う涙を拭おうともせずに言った。
「私の全部が、ここにおるみたい。航には、私がこんな風に見えとんの……?」
それは、単なる「よく似ている」というレベルの感動ではなかった。
自分の存在の根源を、誰かに丸ごと肯定され、永遠の形として残されたことに対する、魂の震えだった。
結衣は手の甲で乱暴に涙を拭うと、振り返って、航に向けて満面の笑みを向けた。
「すごいよ航! あんた、本当に天才かもしれん!」
泣き笑いのその無邪気な表情が、航の胸を激しく、そして強く打った。
自分の生み出したものが、一番大切な人の心をこれほどまでに揺さぶることができる。
その事実が、航の全身を駆け巡り、今までに感じたことのない圧倒的な全能感をもたらした。
「あのさ、この前東京から来たっていうスーツの人いたやん!」
結衣は興奮した様子で、航のそばまで駆け寄り、その両手をとって言った。
「あの人にこれ、絶対に見せるべきよ。こんなすごいもの、この島に隠しとくなんてもったいない! 航の才能は、世界に見てもらうべきやよ!」
一番見せたかった相手からの、その無邪気で心からの言葉。
大好きな幼馴染の夢を、純粋に応援しようとする彼女の真っ直ぐな瞳。
それは皮肉にも、航の胸の奥で燻っていた「世界への野心」と、彼女にふさわしい何者かになりたいという男としてのエゴに、取り返しのつかない小さな火をつけたのだった。




