第8話:嘘つきな笑顔と、引き返すことのない波
神崎が東京へ戻るフェリーを見送ったその夜。
航は、いつものように居間でちゃぶ台に向かい合っていた。
テレビからは、気の抜けたようなバラエティ番組の笑い声が流れている。
母の春子は、夕飯の片付けを終え、古い座布団の上に胡座をかきながら、ほころびた網の繕い物をしていた。
漁協のパートで持ち帰ってきた内職だ。
「……おかん」
航の声に、春子は手を止めずに「んー?」と応えた。
「俺……東京に行くんよ。あの、神崎さんって人のところで世話になる」
網を通す太い針の動きが、ピタリと止まった。
バラエティ番組の笑い声だけが、やけに白々しく部屋に響く。
航は、膝の上で固く拳を握りしめ、母の次の言葉を待った。
怒られるだろうか。呆れられるだろうか。それとも、一人にしないでくれと泣かれるだろうか。
しかし、春子はゆっくりと顔を上げると、いつものように目尻に深いシワを寄せて、ふっと笑った。
「……そうね。今日の昼間、工房から出てきたあの男の人、えらいパリッとしたええ顔しとったもんね。航の木を、ちゃんと見てくれたんやろ?」
「……うん」
「なら、ええんよ」
春子は再び針を動かし始めた。
その手つきは、いつもと変わらず正確で、迷いがない。
「言うたやろ。航は、航の好きなように生きなさいって。あんたの手は、この島にはもったいない手ぇしとるけん。……東京でもなんでも、行っておいで」
「おかん……ごめん。俺、親父やお爺ちゃんが残した家を……」
「馬鹿言いなさんな。家なんか、私が元気なうちはどうとでもなる」
カラカラと笑う母の顔を見つめながら、航の胸の奥がギュッと締め付けられた。
反対されるよりも、こうして全肯定される方が、何倍も痛い。
自分は、この底なしに深い愛情から逃げ出し、自分勝手な野心のために母を一人この島に置いていくのだ。
「ゴホッ、ゴホッ……」
ふいに、春子が強く咳き込んだ。
今までの「むせた」ような軽いものではない。
胸の奥から絞り出すような、ひどく乾いた嫌な音だった。
「おかん、やっぱ風邪か? 病院……」
「大丈夫、大丈夫。ほら、網のホコリ吸い込んだだけよ。それより、東京行くなら準備せなねえ。結衣ちゃんには、もう言うたん?」
「いや……明日、言うつもりだ」
「そう。あの子、泣くかもしれんねえ」
春子は優しく目を細め、また一つ、網の結び目を強く締めた。
翌日の午後。
航は、港の端にある古い防波堤に座っていた。
海風が、容赦なく髪をかき乱していく。
「おーい、航! こんなとこにおったん」
背後から、明るい声が響いた。
結衣だ。
彼女は、よく冷えたジュースを二本抱えて走ってきた。
「はい、これ。作業場におらんかったけん、探したんよ」
「……サンキュ」
航はジュースを受け取り、冷たい水滴を手のひらで転がした。
結衣は航の隣に座り、足をブラブラとさせながら、眩しそうに午後の海を見つめている。
遠くでは、本土と島を往復するフェリーが、白い波の尾を引いていた。
「結衣」
「ん?」
航は、海を見つめたまま口を開いた。
「俺、島を出る。東京の神崎さんのところで、勝負することにした」
風の音が、一瞬だけ止んだような気がした。
結衣は海に向けた視線を動かさないまま、ピタリと動きを止めた。
ブラブラと揺れていた足も、中空で固まっている。
何秒、いや、何十秒経っただろうか。
やがて結衣は、ゆっくりと航の方へ顔を向けた。
「……そっか!」
弾けるような、太陽のような笑顔だった。
「すごい! すごいやんか、航! ついに東京かぁ……うちの島から、大先生の誕生やね! 神崎さんって人、ほんとに見る目あるわ!」
「結衣……」
「なに暗い顔しとるん! 航の夢が叶うんやけん、喜ばな! いつ行くの? 準備手伝うよ!」
結衣の声は、いつもより半音だけ高く、そして早口だった。
航は、結衣の膝の上を見た。
ジュースのペットボトルを握りしめる彼女の指先は、血の気が引くほど真っ白になって、微かに震えていた。
強がりだ。
この優しすぎる箱庭で、ずっと自分の隣で世話を焼き、笑いかけてくれていた幼馴染。
彼女は今、自分の心が張り裂けそうな寂しさを必死に押し殺して、航の背中を押そうとしている。
航の手を外の世界に知らしめたのは結衣だが、結衣自身は、航が本当に遠い世界へ行ってしまうことなど望んでいなかったはずだ。
(……俺は、この笑顔を裏切って、切り捨てて行くんだ)
航は、血の滲むような思いで前を向き、小さく頷いた。
「ああ。……十日ほどで、フェリーで、立つよ」
「あと十日!? あっという間やん! じゃあ、壮行会せなね! おばちゃんたちにも声かけて……」
明るく振る舞い続ける結衣の言葉が、なぜか航には、遠い国の言葉のように聞こえた。
防波堤に打ち付ける波の音が、今はひどく冷たく、そして残酷に響いている。
東京への切符は、確かに手に入れた。
しかしその代償として、航は自分の人生で最も温かかった二つのものを、自らの手でこの島に置いていくのだ。
後戻りのできない波が、静かに、しかし確実に、航の足元をさらい始めていた。




