第7話:海を渡ってきた男と、遠い日の幻影
翌朝、七時。
腹の底を震わせる始発のフェリーの汽笛が、いつもよりひどく重々しく鼓膜を打った。
航は土間の上がり框に腰を下ろし、小刀の刃を砥石で滑らせながら、その時を待っていた。
心の中は、ひどく矛盾した感情でぐちゃぐちゃに波立っている。
ここ数日、島のおばちゃんたちや、松井のようなブローカーから向けられた「金と欲」にまみれた視線。
それが航の心をすり減らし、外の世界への強い嫌悪感を植え付けていた。
東京の人間なんて、結局は自分の作品を金ヅルとして消費したいだけだ。
信用できるわけがない。
だというのに、航はどうしても神崎を突き放すことができなかった。
あのメッセージに綴られていた『生命力と技術に震えた』という言葉。
自分の「こだわり」の核心を、たった数秒の動画で見抜いた男が、本物を目の前にして何を語るのか。
それは恐怖に似た「怖いもの見たさ」であり、同時に、十九年間この島で燻り続けていた自分が、心の根底でずっと渇望していた「誰かに、本当の俺を認めてほしい」という青い飢えの裏返しでもあった。
「……ごめんください。航さん、いらっしゃいますか」
ふいに、引き戸の向こうから声がした。
ビクンと肩が跳ねる。
航は砥石から小刀を離し、ゆっくりと立ち上がって戸を開けた。
そこに立っていたのは、長身の男だった。
ブローカーの松井のような、いやらしいブランド物のスーツではない。
上質なリネンのシャツに、仕立ての良さがわかるスラックス。
飾らないが、隅々まで洗練された「都会の美意識」をまとっている。
年齢は四十代半ばだろうか。
しかし、航の目を釘付けにしたのは、男の服装ではなかった。
「初めまして。新海出版の神崎です」
差し出された名刺を受け取ろうとして、航は息を呑んだ。
日焼けこそ少ししかしていないものの、その手のひらは大きく、節くれ立っていて、分厚かった。
そして、男が動くたびに、風に乗って微かな匂いが鼻をかすめる。
――潮の匂いと、セブンスターのような古い煙草の匂い。
(……親父?)
五歳の時に肺がんで亡くなった父の記憶。
顔すらも曖昧なのに、抱き上げられた時のあの大きな手のひらの感触と、煙草の匂いだけが、航の脳裏に鮮烈にフラッシュバックした。
目の前に立つ神崎の、少し角張った顎の輪郭や、広くてがっしりとした肩幅が、記憶の中の「漁師だった父の背中」と、不気味なほどに重なって見えたのだ。
「……あ、どうも。上がってください」
航は動揺を隠すように視線をそらし、無愛想に工房へと招き入れた。
神崎は「失礼します」と短く言うと、工房に足を踏み入れた。
彼は松井のように、無遠慮に作品を小突いたり、値踏みするように辺りを見回したりはしなかった。
むせ返るような木の匂いを深く吸い込み、まるで神聖な場所にでも足を踏み入れたかのように、静かに、そして敬意を持って工房の中を見つめている。
「……素晴らしい空間だ。ここで、あの小箱が生まれたんですね」
神崎はそう言うと、作業台の端に転がっていた、失敗作の「椿の菓子切り」に目を留めた。
先日、刃が節に食い込んでささくれ立ってしまい、航が苛立ちに任せて放り投げたものだ。
「触っても?」
「……ええ」
神崎の大きな手が、ささくれた椿の木をそっと包み込む。
その丁寧な手つきは、明らかに「金になる商品」を品定めする業者のそれとは違った。
「椿ですか。これは手強かったでしょう。……ここまでは力任せに形を作ろうとして、木に反発された。でも、ここから先――」
神崎の指先が、航が木目を読んで「シュルリ」と削り出した、あの透き通るような曲線の部分を的確になぞる。
「……あなたは、木が持つ本来の歪みや抵抗を否定せず、その声を聞き入れた。だから、この数センチの曲線だけは、信じられないほどの生命力を放っている。違いますか?」
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
見透かされている。
自分が一人でこの薄暗い工房で格闘し、絶望し、そして歓喜したあの瞬間のすべてが、この男にははっきりと見えているのだ。
「……あんた、何者なんですか。木のことなんて、ただの編集者がわかるわけない」
航の声は、震えていた。
神崎は椿の木をそっと作業台に戻し、航の目を真っ直ぐに見据えた。
「私はただ、本物を探し続けるだけの人間です。……航さん」
神崎の声は低く、穏やかだった。
「この島は美しく、人々も優しい。しかし、あなたのその才能には、この箱庭は狭すぎる。……素晴らしい技術だ。私は、あなたの手仕事に敬意を表します」
――えらいな、航。よう頑張った。
記憶の中の父が、そう囁きかけてくるような幻聴に陥った。
ここ数日、島の人間の変貌に傷つき、頑なになっていた航の心の氷が、溶けていくのがわかった。
嬉しかった。狂おしいほどに。
自分のこだわりを、魂の奥底で削り出したあの熱を、こんなにも正確に理解し、言葉にして認めてくれる大人がいる。
その事実が、父を早くに亡くし、どこかで「大人の男からの承認」に飢えていた十九歳の航の心を、完全に捉えてしまっていた。
「東京に来て、私の雑誌で、あなたの特集を組ませてください。そして、東京のギャラリーで個展をやりましょう。あなたの芸術を、世界に叩きつけるんです」
神崎の提案に乗れば、この優しい箱庭には、もう戻れないかもしれない。
しかし、航にとってその提案は、ただのビジネスの誘いを超えた、絶対に逆らえない強烈な「引力」を持っていた。
航は断ることを躊躇し、
「……少し考える時間をもらえますか」
とだけ答えた。
その声が地を離れた瞬間、裏山からの蝉時雨が、狂ったように鳴り響きだした。
夏の終わりを告げるその音は、航の決断を促すかのような、強烈な圧力を持っていた。




