第10話:プロの魔法と、木箱の温度
その日の夜。
すっかり静まり返った工房には、遠くの海岸から打ち寄せる波の音だけが、等間隔の低いノイズとなって微かに届いていた。
航は作業台の丸椅子に深く腰掛け、カンナ屑の中から拾い上げた一枚の名刺と、月明かりに照らされる「結衣の像」を交互に見つめていた。
真っ白な厚紙に、シンプルに印字された『新海出版 アート書籍編集部 神崎』の文字。
数日前に突然ここを訪れた神崎という男は、都会の人間特有の洗練された空気を纏いながらも、決して軽薄な人間ではなかった。
埃っぽい工房を嫌がるそぶりも見せず、航が削り出した木彫りの数々を、まるで古い知人に再会したかのような、静かで、しかし熱を帯びた眼差しで見つめていた。
『君のその手は、こんな場所で腐らせていいものじゃない』
神崎がそう言った時の、低く、腹の底に響くような落ち着いた声。
航は不思議と、その声と眼差しに、早くに亡くなった漁師の父や、生活のための手仕事を続けていた祖父の面影を重ねていた。
口数は少なかったが、自然という素材に対して誰よりも真摯に向き合っていた彼ら。
神崎が纏う空気には、分野は違えど「自分の仕事に対する絶対的な誇りと信念」が満ちているように感じられたのだ。
『あんた、本当に天才かもしれん』
そして今日、目の前で涙を流した結衣の震える声が、何度も頭の中でリフレインする。
彼女の涙を見た瞬間、航の中に生まれたのは、単なる達成感や満足感だけではなかった。
自分のこの手は、人の心を激しく揺さぶることができる。
神崎が本気で届けてくれるという「世界」で、自分は一体どこまで行けるのか。
この才能は、結衣が言うように、この小さな島に留めておくべきではないのではないか。
あの「神崎」というプロフェッショナルに自分を預ければ、もっと多くの人に自分の削った木を届けられるかもしれない。
航はゆっくりと息を吸い込み、指の腹にこびりついたクスノキの渋をジーンズで乱暴に拭うと、意を決してスマートフォンを手に取った。
名刺の番号を打ち込み、発信ボタンを押す。
深夜にもかかわらず、コール音は三回鳴っただけで、すぐに通話がつながった。
『はい、神崎です』
「……夜分にすみません。島でお会いした、航です」
電話越しに、神崎が小さく息を呑む気配がし、続いて、ひどく温かく、包み込むような声が響いた。
『航さん。こんな時間まで、ずっと起きて待っていましたよ。……答えは、聞かせてもらえますか』
「俺……東京へ行きます。神崎さんに、俺の木を預けます」
電話の向こうで、神崎が深く安堵したように、優しく笑うのがわかった。
その声色は、見出した才能を慈しむように、航の張り詰めていた緊張をふっと解きほぐしてくれた。
『素晴らしい決断です。歓迎しますよ、航さん。君からの連絡を信じて、すでに東京でのアトリエの手配や、出版企画の準備も進めていました』
「えっ、もうですか?」
『ええ。君の才能を一秒でも早く世に出したいですからね。早速ですが、来月発売予定の弊社の美術誌での巻頭特集と、君の初めての「作品集」の出版準備に入りましょう。出版記念の個展も連動させます』
神崎の仕事の早さと規模の大きさに圧倒されながらも、航は「自分は強烈に期待されているのだ」という確かな高揚感を感じていた。
『先日君が最近彫っていると言っていた、女性像の作品……もし完成しているなら、それを作品集の表紙と、特集のメインに据えたい。明日にでも、すぐにこちらへ送ってくれませんか』
「あ……はい。今日、ちょうど彫り上がったところです。……結衣の像が」
航が答えると、神崎は少しだけ思案するような間を空け、穏やかな声のまま続けた。
『結衣さんは君の幼馴染でしたね。あの像ですが、雑誌の特集や作品集のタイトルは「名もなき少女の祈り」として世に出そうと思います』
「……え? 名もなき、ですか? でも、あれは結衣を彫ったもので……」
『ええ、分かっています。君の個人的な、とても大切な感情が込められている。ですが、東京の読者や鑑賞者は、見ず知らずの「結衣さん」という個人の記憶や思いにお金を払うわけではないんです』
神崎の諭すような落ち着いた声が、静かに航の耳に流れ込んでくる。
『彼らは、美しい女性像の中に、自分自身の失われた青春や、手の届かない理想を投影します。「名もなき少女」という余白を作るからこそ、大衆はそこに自分の物語を重ね、熱狂できる。君の泥臭い純粋さを、消費者が受け取りやすい物語として再構築する。それが、編集者としての私の仕事であり、君にかける魔法の第一歩ですよ』
神崎の説明は、極めて理にかなっていた。
彼に悪意など微塵もなく、航の才能を最大限に輝かせるための、プロとしての真摯な提案なのだ。
航の頭はそれを完全に理解し、神崎への信頼が揺らぐことはなかった。
「……わかりました。神崎さんにお任せします」
『ありがとう。では、作品の到着を待っていますよ』
通話を終え、スマホを作業台に置いた後、航は小さく息を吐いた。
神崎の言葉は正しかった。
だが、胸の奥底がほんの少しだけ、チクリと痛んだ。
「名もなき少女」と編集された瞬間、結衣のあの体温や、笑うとできるえくぼの記憶が、急にのっぺりとした不特定多数のための「コンテンツ」にすり替わってしまったような気がしたからだ。
航はその微かな違和感を、「これがプロの世界へ行くための緊張なのだ」と自分に言い聞かせて、飲み込んだ。
翌日の昼下がり。
航は、結衣の像を東京へ送るための梱包作業を始めていた。
港の倉庫から譲ってもらった頑丈な木箱の底に、大量の緩衝材を敷き詰めていく。
祖父の小刀を握り、結衣の髪や頬の曲線をなぞるように彫っていた時の、あの「手が覚えている温かさ」。
それとは対照的に、緩衝材を切り裂き、テープでぐるぐると厳重に像を巻いていく作業は、ひどく機械的で、冷たいものだった。
丁寧に包まれ、完全に顔が見えなくなった像を木箱の中へ横たえる。
まるで大切なものを棺桶に納めているような錯覚に陥り、航は思わず息を止めた。
いや、違う。
これは棺桶なんかじゃない。
自分の力を世界に証明するための、新しいスタートなんだ。
航は自分を奮い立たせるように首を振り、分厚い木の蓋を被せると、四隅に太い釘を打ち込んでいった。
ガン、ガン、ガン。
重いハンマーが釘を打つ無機質な音が、埃っぽい工房に虚しく反響する。
昨日までこの空間を満たしていた、生命力あふれるクスノキの豊かな香りは、真新しい木箱の乾いた匂いと、粘着テープの化学的な匂いに完全に上書きされていった。
最後の一本の釘を力強く打ち終え、像が完全に暗い箱の中に姿を消した瞬間。
工房の空気が、ふっと温度を失ったように空虚に感じられた。
今までそこにあった圧倒的な熱量と、結衣の気配が、箱の中に閉じ込められ、自分から完全に切り離されてしまったのだ。
航は、ハンマーを持ったまま、打ち込まれた釘の頭を親指でぼんやりと撫でた。
初めて自分の魂を削り出した大作を手放す寂しさなのだと、頭ではわかっている。
神崎という頼れるプロの編集者に出会い、自分の才能がこれから一冊の「本」となり、大きく羽ばたこうとしているのだから、喜ぶべきことだ。
だが、心の奥底には、自分の一番大切な個人的な想いを、自らの手で「商品」という名の暗闇に閉じ込めてしまったような、得体の知れない不安が渦巻いていた。
航は冷たくなった木箱の表面に額を押し当て、微かに残る木の感触を、ただ無言で確かめ続けていた。




