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第11話:受け継いだ小刀と、線香の煙

結衣の像を厳重に封じ込めた木箱を、港の集荷場へと引き渡した翌朝。


航は、抜けるような真夏の青空の下、島の外れにある高台へと続く細い坂道を一人で登っていた。


足元の乾いた砂利が、一歩踏み出すたびにジャリッ、ジャリッと無機質な音を立てる。

 両脇には背の高い夏草が生い茂り、耳をつんざくような狂ったような蝉時雨が、まとわりつくような湿気と混ざり合って航の全身を包み込んでいた。

 額から流れ落ちた汗が顎を伝い、着古したTシャツの胸元に濃い染みを作っていく。


急な坂を登りきると、視界を遮っていた木々が不意に途切れ、目の前が一気に開けた。

 眼下に広がるのは、太陽の光を乱反射してギラギラと眩しく輝く、どこまでも青い海。

 その海風を真正面から受け止めるようにして、潮風で風化した古びた墓石がいくつも並んでいる。


ここはこの島で生きた人々が静かに眠る、小さな共同墓地だった。


航は手桶にぬるい水道水を汲み、そのうちの一つの前に静かに立った。

 『高木家之墓』と深く彫られた石。

 そこには、航が物心つく前に亡くなった父と、航にてしごとを教えてくれた祖父が眠っている。


柄杓で水を掬い、太陽に熱された墓石の頭頂部からゆっくりとかけた。

 ジュッ、と微かな音がして、水が石の表面で瞬時に白い蒸気となって消えていく。

 航は何度か水をかけ、石の熱を冷ましてから、ジーンズのポケットからマッチと線香の束を取り出した。


シュッ、と擦ったマッチの火薬の匂いが鼻をつく。

 火を移し、静かに線香を供えて目を閉じ、深く手を合わせた。

 立ち昇る白い煙が、容赦なく吹き付ける潮風に煽られ、ちぎれながら空へと溶けていく。


「……じいちゃん、親父。俺、東京に行くよ」


声に出して呟いた言葉は、耳に届く前に海風にさらわれて消えた。

 航の脳裏に、強烈な潮の匂いを纏っていた祖父の分厚い背中が蘇る。


祖父は、父と同じく、生涯を通してあの荒れ狂う海と向き合う漁師だった。

 夜明け前に家を出て、ディーゼルエンジンの排気臭と、むせ返るような磯の匂いを身体中に染み込ませて帰ってくる。

 その手は潮風と網の摩擦で深くひび割れ、岩のように硬く、そして信じられないほど分厚かった。


だが、海が荒れて漁に出られない日や、夕暮れ時の土間で、祖父はいつも何かをその手で生み出していた。

 破れた漁網を太い針で器用に繕い、乾燥させた藁を編んで丈夫な草履を作り、刃こぼれした包丁の柄を木切れから削り出してすげ替える。

 それは決して「作品」と呼べるような代物ではなく、不器用で無骨な、生活のための道具だった。


『自分の手で直せねえもんは、自分のもんじゃねえんだよ』


胡座をかいて藁を編みながら、祖父が口にしていた言葉。

 幼い航は、そのひび割れた太い指先から、魔法のように「生活」が紡ぎ出されていくのを、いつも飽きることなく見つめていた。

 特別な道具などない。

 ただ一本の小刀と、生きるために必要なものを作り出すという、切実で純粋なエネルギーだけがあった。


航はゆっくりと目を開け、合わせた自分の両手を見つめた。

 マメが潰れ、関節は太く変形し、爪の間に消えない木の渋が染み付いた手。

 この分厚く無骨な手の形は、間違いなく祖父から受け継いだものだ。


そして、祖父のあの「生活のための手仕事」を見て育ったからこそ、航の彫る木には、美術品のような冷たい美しさではなく、泥臭い「生きる熱」が宿る。

 それこそが、高木航という人間の血肉であり、この手に宿る確かなルーツだった。


けれど自分は今、彼らが命を懸けて愛したこの島の営みと、そのルーツを手放そうとしている。

 自らの才能を「世界」という名の巨大な市場に売り渡しに行くのだ。


それは、生活のためにただ無心に手を動かしていた祖父の「てしごと」に対する、決定的な裏切りではないのか。

 しかし一方で、航の胸の奥には、結衣の像を彫り上げた時に感じた、あの「圧倒的な全能感」の火種が、まだ消えずに熱を持って燻っていた。

 自分のこの手が、東京という場所でどこまで通用するのか見てみたい。

 もっと多くの人の心を暴力的に揺さぶってみたいという、若く、抗いがたいエゴイズム。


航はジーンズのポケットに手を入れ、指先で布にくるまれた一本の古い道具に触れた。

 結衣のあの息を呑むような表情を削り出し、命を吹き込んだ、祖父の小刀だ。


漁網を切り、木を削り、何十年も生活を支え続けたその鋭い刃。

 木の柄の部分は長年の使用ですり減り、祖父の親指と掌の形に合わせて滑らかな凹みを作り、黒光りしている。

 ポケットの中で、その小刀の柄をぎゅっと力強く握りしめた。


研ぎすまされた金属の確かな重みと、温かく手になじむ木の感触。

 この手触りだけが、今、激しく揺れ動く航の心を地面に繋ぎ止める、唯一の錨だった。

 漁師だった祖父の生きるための小刀を、自分が受け継ぐ。

 それこそが自分の武器なのだと、自分自身に強く言い聞かせる。


「……行ってくる」


誰に対する言い訳なのか、あるいは誓いなのか、自分でもわからなかった。

 航は墓前に向かって最後にもう一度深く一礼すると、振り返ることなく急な坂道を下り始めた。

 背後では、ちぎれた線香の煙が、まるで航を島から追い出すように、あるいはその背中を力強く押すように、海を越えて遠い本州の方角へと流れていった。

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