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第12話:日常の解体と、おばちゃんのおせっかい

墓参りを終えて数日が過ぎ、島を離れる日は刻一刻と近づいていた。


航の工房では、静かな、しかし確実な「解体」が進んでいた。


昨日までは、削り出されたばかりの木の香りが充満し、床には常に薄く木屑が積もっていた。

 ノミを叩く音が響き、使い込まれた道具たちが壁際に整然と並んでいたはずだった。

 しかし今、そこにあるのは、無機質な段ボール箱の山と、かつてそこに何かが置かれていたことを示す床の上の淡い跡だけだった。


航は一人、工房の真ん中に立ち、空っぽになった棚を見つめた。


長年、自分の分身のように扱ってきたノミやヤスリは、一本ずつ油を馴染ませた布で拭き上げ、新聞紙に包んで箱に収めた。


「……案外、少ないもんだな」


独り言が、以前よりもずっと響く。

 この場所を満たしていた「創造」という熱が、荷造りという機械的な作業によって少しずつ吸い取られていくような感覚。

 一つ一つの道具に宿っていた記憶を、自ら封印していくような寂寥感があった。


その時、工房の古い戸が、ガラリと景気のいい音を立てて開いた。


「航ー! 息してるかい? 埃っぽくて死んでるんじゃないかと思ってね」


入り口に立っていたのは、結衣の母親だった。

 航が物心つく前から、実の親のように接してきた「おばちゃん」だ。

 彼女の両手には、風呂敷に包まれた大きな重箱が二つ、ずっしりと抱えられていた。


「ああ、おばちゃん。……わざわざ来んくても、明日には挨拶に行こうと思っとったのに」


「何言っとるんだい。あんたみたいな不器用な子が、まともに飯なんて食っとるわけないやろ。ほら、そこ片付けな。最後の晩餐だよ」


おばちゃんは有無を言わさぬ勢いで工房に上がり込むと、まだ梱包されていない唯一の作業台の上に風呂敷を広げた。


中から出てきたのは、里芋とイカの煮付け、出し巻き卵、そして島で獲れた魚の南蛮漬けだった。

 どれもが、航が子どもの頃から食べてきた、この島にしかない「家の味」だった。


「ほら、座った座った。東京に行ったら、こんな泥臭い煮物なんて誰も作ってくれないんだからね」


促されるまま、航は作業台の端に腰を下ろした。

 箸を手に取ると、里芋から立ち上る甘辛い出汁の匂いが、鼻の奥をツンと突いた。

 一口食べると、口の中に広がる滋味深い味わいが、強張っていた航の身体を内側から解きほぐしていく。


「……美味い」


「当たり前やろ。あんたの好物ばっかり入れたんやから」


おばちゃんは、航が食べる様子を満足そうに眺めていた。

 しかし、その視線がふとアトリエの隅に積まれた段ボールに向けられた時、彼女の瞳に微かな陰りが差した。


「本当に……行っちゃうんやねえ。あんなに小さくて、いつも鼻水垂らしながら木っ端を追いかけとった子がね」


「鼻水は余計だよ」


「ええやない。じいちゃんに怒鳴られても、指から血を出しながらも決してやめんかった。……あんたの手は、この島の宝なんやよ、航」


おばちゃんは、航の無骨な、傷だらけの手をそっと見つめた。

 その手には、神崎のような都会の人間が見る「市場価値」とは全く別の、一人の人間の成長と、その家族が繋いできた時間が刻まれている。

 おばちゃんは、その時間の目撃者だった。


「神崎さんって言ったっけ? あの東京の人、あんたの凄さを一目で見抜いたんやね。……でも、航。あんなにキラキラしたスーツ着ってる人たちが言う『凄さ』と、私たちが思う『凄さ』は、きっと少し違うんやと思うよ」


航は、箸を止めておばちゃんの顔を見た。


「どういうこと?」


「うーん、おばちゃんは頭が悪いから上手く言えんけどね……。あっちの人たちは、あんたの『作品』を見とる。でも私らは、あんたが木を削り出している『背中』を見てきたけん」


おばちゃんは、優しく、しかしどこか諭すような口調で続けた。


「評価されることは素晴らしいことだ。やけんどね、あんたが誰のために、何を想ってその木を削るのか……それだけは忘れんといてほしいんや。……結衣のこともね」


「結衣」の名が出た瞬間、航の心臓が不規則に鼓動した。


「あいつ、何か言ってたのか?」


「……あの子は、あんたの前じゃ元気なふりしかしないやろ。でもな、昨日の夜、台所でずっとあんたの上京祝いの準備をしながら、ため息ばっかりついとったよ。『航がいなくなったら、誰が私のワガママを聞いてくれるのさ』なんて、冗談っぽく言っとったけどな」


おばちゃんは、航の背中をポン、と力強く叩いた。


「結衣はね、あんたのことが誇らしいんよ。自分のことみたいに嬉しいんや。でも、それと同じくらい、あんたが遠くへ行っちゃうのが怖いんやろうな。……あんた、あの子の気持ち、少しは分かっとるんやろう?」


航は答えられなかった。

 結衣のことは、子どもの頃から「ちょっと特別な、家族のような存在」だと思っていた。

 彼女がそばにいるのは当たり前のことで、その存在が自分にどれほどのエネルギーを与えていたか、今の航にはまだ完全には理解できていない。

 ただ、胸の奥がチリチリと焼けるように熱かった。


「……向こうに行っても、ちゃんとご飯食べるんだよ。身体が資本なんやから。疲れたら、いつでも帰ってきな。里芋の煮付けくらい、いつでも作ってやるからさ」


おばちゃんは、重箱を片付けながら、商店から持ってきた微糖の缶コーヒーを置いて、最後に航の頭をくしゃりと撫でて工房を出て行った。


「じゃあね、航。しっかりやるんだよ」


ガラリと閉まった戸の向こうから、おばちゃんの足音が遠ざかっていく。

 再び静寂に包まれた工房で、航は缶コーヒーをじっと見つめていた。

 そこには、おばちゃんが残した「温かさ」の余韻だけが、しがみつくように漂っていた。


島での生活は、こうして一つずつ、剥がれ落ちるようにして失われていく。

 三日後には、東京という未知の嵐の中へ飛び込んでいく。


航は立ち上がり、最後の一箱——祖父の小刀を入れた小さな木箱——に手を置いた。

 おばちゃんのおせっかい。

 結衣のため息。

 煮物の匂いと微糖の缶コーヒー。

 それらすべてを「島での思い出」という、実体のない言葉で片付けてしまいたくなかった。


けれど、航の「手」は、すでに未来へと向けて動き出していた。

 この不器用で傷だらけの手が、東京という場所で何を掴み取り、あるいは何を失うことになるのか。

 航は、自分の指先をじっと見つめた。

 そこにはまだ、最後に触れた木材の微かな感触と、おばちゃんが叩いた背中の痛みが、確かに残っていた。


その痛みこそが、自分がこの島に生きていた証なのだと、自分に言い聞かせるように。

 航は工房の電気を消し、月明かりだけが差し込む空っぽの空間に背を向けた。

 これから、新しい、しかし残酷な「構築」が、東京という名の戦場で始まるのだ。

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