第13話:海鳴りの丘と、夕焼けの約束
出発の二日前。
すでに生活の痕跡を完全に失い、がらんどうになった工房で、航は床の拭き掃除をしていた。
長年染み付いた木の渋や、幾重にも重なった削りかすの微細な粉は、何度雑巾をかけても容易には落ちない。
冷たい水で絞った雑巾を土間の床に滑らせながら、航は奇妙な感覚に陥っていた。
自分の心の中まで、ここと一緒に空っぽにされていくような喪失感。
東京へ送る荷物はすべて発送し、あとは身の回りの数着の服と、祖父から受け継いだあの古い小刀だけだ。
「航! ちょっと出かけよ!」
ガラリと勢いよく戸が開いたかと思うと、夏の強い日差しを背負って結衣が立っていた。
つばの広い麦わら帽子に、白地のノースリーブのワンピース。
いつもと変わらない、見慣れたはずの彼女の姿が、何故かひどく眩しく見えた。
「は? いや、まだ掃除が……。もう少し床を」
「ええから! 掃除なんて明日で十分! それに、そんなにピカピカにしたら、航がここにおったってことまで消えちゃうみたいで寂しいやん。ほら、早く!」
結衣は強引に航の腕を掴み、外へと引っ張り出した。
彼女の細い指から伝わる体温が、冷たい水で冷え切っていた航の腕に妙に生々しく残る。
抵抗する間もなく、航は玄関に転がっていたサンダルを突っ掛けて結衣の後を追うことになった。
目指したのは、島の裏手にある『海鳴りの丘』だった。
集落の細い路地を抜け、山側へと続く舗装されていない急な獣道を登っていく。
夏の午後の熱気が、むせ返るような土と緑の匂いを伴って二人の身体にまとわりつく。
両脇から生い茂るシダ植物や、背の高い雑草が、航のジーンズをカサカサと擦った。
先を歩く結衣の白いワンピースが、木漏れ日の中で明滅するように揺れている。
二人は無言のまま、ただひたすらに急な斜面を登り続けた。
「懐かしいな。ここに来んの、何年ぶりやろ」
「中学生の時に、台風の次の日に様子見に来て以来やないか? あの時は、道が塞がっとって途中で引き返したけどな」
「あー、あったねそんなこと。航ったら、私の手を引っ張ってずんずん進んでいくから、私、転んで膝擦りむいちゃってさ」
「あれはお前が勝手によそ見しとったからやろ」
軽口を叩き合いながら急斜面を登り切ると、視界を遮っていた木々が不意に途切れ、視界が一気に開けた。
息を切らしながら、航は目の前に現れた巨大なシルエットを見上げた。
頂上にぽつんとそびえ立つ、樹齢を重ねた古い山桜の木。
春には桜色に染まるはずのその幹は、今は銀灰色に輝き、複雑に絡み合った太い根が幾重にも地面に突き刺さり、まるで意思を持った一つの生き物のように大地に深く根を張っている。
子どもの頃、二人がよく秘密基地にして遊んでいた特別な場所だ。
丘を吹き抜ける強い海風が、山桜の濃緑の葉をザワザワと激しく揺らす。
その音が、眼下の崖に打ち付ける波の音と混ざり合い、この丘全体が低く共鳴して呼吸しているかのような錯覚を生む。
だから、島の人々はこの場所を『海鳴りの丘』と呼んだ。
「なぁ、覚えとる? 小学生の頃、あそこの一番高い枝に登って、どっちが遠くまで見えるか競争したこと」
結衣が、麦わら帽子が風に飛ばされないように手で押さえながら、山桜の上の方を指差した。
「ああ。結衣が足滑らせて落ちそうになって、俺が下で受け止めて……結局二人で転げ落ちて、俺がすり傷だらけになったんだよな」
「そうそう! あの時、航が泣きそうになりながら『俺の右手がー! 木が彫れなくなるー!』って叫んどったの、思い出すと今でも笑える」
結衣は声を立てて笑った。
航もつられて笑いながら、無意識に自分の右手を見た。
あの時すりむいた傷の跡はもうないが、代わりに長年の小刀使いでできた硬いマメと新しい生傷が、いくつも刻まれている。
あの時、自分の手を犠牲にしてでも結衣を守ったのは、子どもの頃の単なる勇敢さではない。
彼女という存在が自分にとってどれほど特別かという、無意識の証明だったのかもしれない。
ふと、結衣の笑い声が途絶えた。
彼女は山桜の根元から離れ、海の方へと歩み寄り、崖の淵に立った。
時刻は夕暮れ時。
眼下に広がるのは、見渡す限りの海。
空と海が、燃えるような、息を呑むほど美しいオレンジ色に染まり始めていた。
太陽が水平線に沈みかけ、海面に真っ直ぐな眩しい光の道を引いている。
「……ここに来るのも、最後やね」
結衣が海を見つめたまま、ぽつりと言った。
先ほどまでの快活な声とは違う、風に溶けて消え入りそうな声だった。
「最後やない。また、帰ってくるけん。盆とか、正月とかには」
「ふふ、そうやね。……でもさ」
結衣が、ゆっくりと航の方を向いた。
夕日に照らされたその横顔のシルエットは、航があのクスノキから夢中で削り出した像のラインと全く同じだった。
少しだけ上を向いた鼻先。
笑うと微かに凹む、柔らかい頬の曲線。
海風に揺れる、少し癖のある髪のひと房。
それはすべて、航の指先が、手のひらが、狂おしいほどに記憶し、木の中に封じ込めた形そのものだった。
「航はきっと、東京ですごく有名になって、手の届かない遠い人になっちゃう気がする。私の知らない世界で、私の知らない凄い人たちと、私の知らない凄い作品をいっぱい作ってさ。……そしたら、もう、あの埃っぽい工房で一緒に缶コーヒー飲むことも、スイカ食べることも、なくなるんやろうな」
寂しそうに微笑む彼女の表情は、無防備で、そして泣きたくなるほど美しかった。
航の胸の奥が、ぎゅっと激しく締め付けられた。
「東京の個展、絶対に観に行くけん!」
結衣が振り返り、とびきり明るく大きな声で叫んだ。
まるで、航の思いを見透かしているかのように。
あるいは、自分自身の胸に湧き上がった寂しさを無理やりかき消すように。
「神崎さんにもよろしく言っといて! 島の代表として、東京のど真ん中でドカンと一発かましてきなよ!」
その無邪気で強引なエールは、二人の間に漂っていた甘く切ない緊張感を、一瞬にして吹き飛ばした。
「……おう。任せとけ」
航は、無理に口角を上げ、いつものようにぶっきらぼうに笑って返した。
「期待しとるからね!」
結衣もまた、いつもの幼馴染の顔に戻って笑い返した。
夕日を背に笑い合う二人の間には、言葉にできなかった想いが、ただ宙を漂っていた。
やがて日は完全に沈み、海鳴りの丘は深い青色に包まれた。
吹き抜ける風の音と波の音だけが、不器用な二人の沈黙を優しく、そして残酷に掻き消していった。




