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第14話:出発前夜、空っぽの手のひら

上京前夜。


完全に荷物が運び出され、がらんどうになった工房の床に、航は大の字で寝転がっていた。

 背中から伝わるコンクリートの冷たさが、火照った身体の熱を少しずつ奪っていく。

 今までこの空間を満たしていた、むせ返るようなクスノキの匂いや、削りかすの埃っぽさはすっかり薄れている。


開け放たれた窓から入り込むのは、夜の海が立てる低い波のノイズだけだ。

 それが規則正しく、空虚な部屋の壁に反響していた。


夕方、結衣と共に『海鳴りの丘』から見た燃えるような夕焼けが、まぶたの裏に焼き付いている。

 「東京のど真ん中でドカンと一発かましてきなよ!」という、彼女の強引で無邪気なエール。

 その声の裏側にあった微かな震えを、航は確かに感じ取っていた。


言葉にできなかった想いは、喉の奥から腹の底へと沈み込み、重く熱い塊となって留まっている。


航はゆっくりと自分の両手を高くかざし、窓から差し込む青白い月明かりに透かしてみた。


傷だらけで、節が太く、マメが硬く変色した無骨な指先。

 この手で祖父の小刀を握り、結衣を思い出しながら、あの圧倒的な熱量を持つ傑作を彫り上げたのだ。

 しかし、彼女の魂を宿した像が入った木箱は、すでに神崎の元へ送り出された。

 自分の手元にはもう、何も残っていない。


明日には、自分もフェリーに乗ってこの島を出て、東京の街へと向かうのだ。


(俺は東京で、あんな風に命を削るような作品を、また作れるのだろうか)


ふと、強烈な不安が胸をよぎった。


あの像が持っていた魔法のような引力は、自分の技術が特別優れていたからではない。

 「結衣」という特別な存在がそばにいて、彼女への名付けようのない感情が爆発したからこそ生まれたものだ。

 温度も湿度も完璧に管理された、神崎の用意したノイズのないアトリエ。

 そんな無臭の空間で、自分は一体何を削り出せばいいというのか。

 島での記憶と結衣の存在から切り離された自分の手に、どれほどの価値があるのだろうか。


航は月明かりの中で、空っぽになった手のひらを力強く握り込んだ。

 伸びた爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。

 その痛みが、肥大化していく不安を少しだけ現実の世界へと引き戻してくれた。


もう後戻りはできない。

 自分の才能を試したいという男としてのエゴが、間違いなく自分の中にある。

 そして、すでに動き出してしまったビジネスの巨大な歯車が、航を否応なく東京へと引き寄せていく。

 今はただ、この手の中に残る微かな痛みと、染み付いた木の記憶を信じるしかない。


目を閉じ、潮の匂いを最後に深く肺へと吸い込んで、航は島の最後の夜を静かにやり過ごした。


明日、朝一番のフェリーの汽笛が鳴れば、もうこの穏やかな時間は二度と戻ってこない。

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