第15話:引き裂かれる波の尾と、はじまりの小刀
十日、と言っていたその日は、あまりにも残酷なスピードであっという間にやってきた。
使い古されたスポーツバッグに、数着の着替えと、祖父が遺したあの小刀、そして砥石だけを詰め込む。
荷物はたったそれだけだった。
航は最後に、空っぽになった土間の工房を見渡した。
むせ返るような木の匂いも、今日からはもう日常ではなく、記憶の中の匂いになる。
「航、忘れ物はないね?」
玄関で靴を履いていると、背後から母の春子が声をかけてきた。
振り返ると、母の手には、小さなタッパーと、安産や交通安全などご利益がごちゃ混ぜになった古いお守りが握られていた。
「これ、フェリーの中で食べなさい。卵焼き、ちょっと甘めになっとるけん」
「……おかん、ありがとう。……親父と爺ちゃんの仏壇、頼むな」
「当たり前やろ。あんたは家のことなんか気にせんでええ。前だけ見て、しっかり行っといで」
春子はそう言うと、航の広い背中をバンッと力強く叩いた。
痛いほどのその衝撃に、母の不器用なエールと、少しの震えが混ざっているのがわかった。
「……ゴホッ、ンン」
母が、口元を隠すように小さく咳き込む。
「喉、ほんとに大丈夫か? 病院行けよ」
「平気よ。ほら、もうフェリー来る時間やろ。グズグズしとらんと早く行きなさい」
母はシワだらけの顔で笑い、航を玄関の外へと押し出した。
それが、航がこの平穏な世界で見る、母の最後の笑顔になるだなんて、この時の航は知る由もなかった。
港へ向かう道すがら、蝉の声が耳鳴りのように響いていた。
小さな待合所には、すでに数人の島民の姿があった。
噂を聞きつけたタエ子おばちゃんたちだ。
「航くん、東京行っても私たちのこと忘れんといよ!」
「テレビ出たら教えてよ! 島の名物なんやけんね!」
彼女たちの言葉には、やはりどこか「都会への切符を手にした若者」への無責任な期待と、消費の匂いが張り付いていた。
航は作り笑いを浮かべて軽く頭を下げるだけで、口を開く気にはなれなかった。
「航!」
タラップの近くで、結衣が待っていた。
今日は薄手のワンピースを着て、いつもは無造作に束ねている髪を綺麗に下ろしている。
その少しだけ大人びた姿に、航は一瞬だけ目を奪われた。
「結衣、見送りに来てくれたのか」
「当たり前やん。幼馴染が島を出るんよ? ……はい、これ」
結衣が差し出したのは、紙袋に入った箱入りの酔い止め薬と、あの実家の商店で売っている微糖の缶コーヒーだった。
今回は、缶はへこんでいない。
「東京まで、電車もいっぱい乗るんやろ? 航、すぐ酔うけんね。コーヒーは……まあ、眠気覚まし」
「……ありがとうな。結衣には、ほんとにずっと世話になりっぱなしだった」
「なに改まっとるんよ、気持ち悪いなあ」
結衣はいつものように屈託なく笑った。
しかし、その瞳の奥には、必死に堰き止めている水面のような揺らぎがあった。
「ボーーーッ!」
出港を知らせる、腹の底を震わせる長声が鳴り響いた。
タラップがゆっくりと上がり始める。
係員の怒声が飛び交い、出航の準備が整っていく。
「……行くわ」
「うん。……気ぃつけてね」
航は踵を返し、タラップを登ってフェリーの甲板へと向かった。
手すりから下を見下ろすと、結衣がポツンと岸壁に立ってこちらを見上げている。
その距離が、今から決定的に、そして永遠に開いていくのだという事実が、航の胸をナイフのようにえぐった。
ゴゴゴゴゴ、という重低音とともに、スクリューが激しく白波を立て、フェリーがゆっくりと岸壁から離れ始めた。
十メートル、二十メートルと、島と船の間に、濃い群青色の海面が広がっていく。
「航ーーっ!!」
突然、結衣が叫んだ。
甲板から見下ろす結衣の顔は、もう、あの嘘つきな「太陽のような笑顔」ではなかった。
顔をくしゃくしゃに歪め、大粒の涙をポロポロとこぼしながら、ちぎれるほど両手を大きく振っている。
「頑張るんよーー! 負けたらあかんよーーっ!!」
その叫び声は、フェリーのエンジン音と海風にかき消されそうになりながらも、確かに航の耳に届いた。
結衣は、泣いていた。
ずっと強がって、航の夢を応援しようと押し殺していた本当の寂しさが、物理的な距離が開いた瞬間に、ついに決壊してしまったのだ。
「結衣……っ!」
航は手すりを強く握りしめ、身を乗り出した。
「ありがとう」と叫ぼうとしたが、喉の奥が熱く引きつって、声にならなかった。
視界が急速にぼやけ、熱いものが頬を伝って甲板に落ちた。
遠ざかる島。
小さくなっていく、結衣の姿。
そして、あの薄暗くて温かかった工房。
航は、自分の意思でそれらを切り捨てたのだ。
もう、後戻りはできない。
もし引き返すようなことがあれば、それは結衣のこの涙と、母の嘘を、根底から裏切ることになる。
(……削るんだ。俺の、すべてを懸けて)
航は、スポーツバッグ越しに、祖父の小刀の硬い感触を確かめた。
海風が、容赦なく涙を乾かしていく。
フェリーが白波を立てて進む先には、欲望と孤独が渦巻く巨大な海、東京が口を開けて待っている。
十九歳の青い熱と、取り返しのつかない喪失感を抱えて。
航の本当の『てしごと』が、今、激動のうねりの中ではじまろうとしていた。
【第1章:凪の島と小さな波紋 完】




